人間だからできること
「この時期は桃をふんだんに使ったアフタヌーンティーが売りでしてね」
太三郎はそう言っていたが、今は胃が甘味を欲していない。
というわけでテツはアイスコーヒーだけを注文した。花純もアイスコーヒーで千鳥はアイスレモンティー、清三だけがホットのコーヒーだ。
屋島の中枢、〈仏の御石の鉢〉があった部屋から場所を変え、テツたちはレトロモダンなカフェへとやってきていた。もちろんせとうちTANUカンパニーの系列店舗である。
太三郎に案内されるまま二階へ向かうと、様々な打ち合わせで利用されていそうな個室が用意されていた。まったく準備のいいことだ。
幼い少年の姿へと変じている茶がまには、注文せずともすぐにみかんジュースが置かれた。太三郎へは赤紫蘇のサイダー。おそらく両者ともいつも同じオーダーなのだろう。
テツたち四人のドリンクも揃った時点で、話し合いは再開される。
まず口火を切ったのはテツだ。
「それで親分さん、さっき観させてもらった〈仏の御石の鉢〉について、聞きたいことがあるんすけど」
「何なりと」
「神域に入った後、モモとイチは無事に戻ってこられたんすよね?」
「ええ、もちろん。帰ってこられたお二方は天寿を全うされましたよ」
そう言ってから太三郎は赤紫蘇のサイダーへストローを挿す。
「その後イチ殿は変わらず壱ノ木島に定住され、一方でモモ殿は諸国を巡っておられました。時には旧交を温めることもあり、私も宴の末席に連なったものです」
「でも結局、どうやって龍を深く眠らせたのかについては、さっきの映像では判明しなかったね」
結末のわからないミステリ映画みたい、と花純が皮肉っぽく言う。
「そもそもあの二人は、どういう成算があって神域まで乗り込んだのよ」
「モモ殿曰く『誠意ある説得』ですね」
「うそでしょ。ただのノープランじゃん」
驚く花純に対し、太三郎はにっこりと微笑んでみせた。
「龍が応じてくれなければ、命尽きるまで戦う心積もりだったようです」
「あまりに脳筋すぎる……」
思わず呻くテツだったが、先ほど〈仏の御石の鉢〉で観たあの二人であれば、たとえ相手が龍の神であっても臆さないだろうと確信できる。
「とはいえ、結果は予期せぬ形で紡がれました」
「予期せぬ、とは?」
「帰還を祝して盛大な酒宴を催した折にお二人が話してくれたのです。何でも、鬼ごっこによって世界の命運を決したそうですよ」
鬼ごっこ。あまりにも場違いな単語が太三郎の口から飛びだした。
「えっ……と、どういうこと?」
花純も困惑しているが、当の太三郎が首を傾げていた。
「さあ、私にもはっきりとは。とにかく〈龍の夢〉最奥の神域で顕現した龍に出会い、鬼ごっこで勝負をしたとだけ」
「酒の席での大法螺じゃないでしょうね……」
「いえいえ。鬼ごっこという遊びも、元をたどれば古の宮中での行事に起源を持つと言われているのですよ。追儺と呼ばれていたその行事は──」
太三郎の語りは滑らかだ。
このままどこまでも続きそうな気配であったため、慌てたテツが「親分さん、ストップストップ」と止めに入る。
「その手の話で相手になれるのは、うちの両親くらいのもんっすわ。正直言っておれらにはさっぱりっす」
「そうですか、ではまたの機会にいたしましょう」
少し残念そうな太三郎は、しかしすぐに表情を引き締めた。
「いずれにせよ、巨龍の目覚めを止めようとするならば、どうしても神域へ向かわねばなりません」
声を上げずとも、肯定するしかないのはこの場にいる全員が理解していた。
ここで太三郎が居住まいを正す。
「本題へ入りましょう。神域へ誰を送るべきなのか、誰が適任なのか」
「ちょっと親分さん、いったい何の話を──」
話を遮ろうとした花純に構わず、太三郎は先を続けた。
「私の考えを述べましょう。テツさんと千鳥さん、このお二人こそが最もふさわしいのではないでしょうか」
「何言うとんじゃ!」
激高した清三がオーク材のテーブルを叩く。その拍子に彼のカップからコーヒーがこぼれてしまった。
「そんなもん、認められるわけないやろが!」
「話にならないね、親分さん。子どもをそんな危険な場所へ行かせようって提案されて、どこのバカがすんなり呑むってのよ」
冗談も休み休みにしてちょうだい、と吐き捨てて花純は席を立つ。
ところがこの態度に異議を唱えたのは、子ども扱いされたばかりのテツだ。
「落ち着いてくれ二人とも、そんな剣幕じゃ話し合いにならんやろ。ひとまずおれは親分さんの意見を聞かせてもらいたいと思っとる」
「わたしも、テツくんに賛成」
千鳥も冷静な表情を崩さない。
梯子を外された格好となった花純が、再び椅子へ力なく腰を落とす。
「あんたたち、何でよ……」
テツにだって、祖父や花純が身を案じてくれていることは痛いほど伝わっている。だからといってこの話し合いを中途半端で終わらせるわけにもいかないのだ。
対応を間違えれば、あるいは遅れてしまえば、瀬戸内地域だけでなく日本全体にまで及ぶ崩壊を引き起こしてしまうのだから。
「続き、お願いしていいっすか」
「ありがとうテツさん。では、私がそう考える根拠をお話しておきましょう。テツさんと千鳥さん、おそらくお二人は生まれ変わりなのです」
モモ殿とイチ殿のね、と太三郎は告げた。
これを聞いた花純は目を鋭くして睨みつける。
「まさかと思うけど、さっき二人が揃って涙を流していたから、ってだけが理由じゃないでしょうね」
またしても喧嘩腰だ。
けれども太三郎は「それもあります」とあっさり認めてしまった。
「かつての記憶に触発され、無意識のうちに涙を流してしまった。そう見るのが自然ではないでしょうか」
加えてもう一つ、と畳み掛けていく。
「聞けばテツさんも千鳥さんも、二度〈龍の夢〉に遭遇していながら意識を保てていたとか。人間の身でそんなことができるのは、日々龍への祈りを捧げていた守人くらいのものだったはず」
「それは……」と花純が言葉に詰まる。
太三郎は先を淡々と続けた。
「これこそお二人が〈龍の夢〉、ひいては神域へ入っていくにふさわしい、最も大きな理由なのです」
目を閉じた清三が背もたれに体を預け、「ふうう」と大きく息を吐きだす。
「確かに、わしには無理やった」
「清三さん!」
いつになく高い声で花純が叫ぶ。
彼女だけがまだ抗弁をあきらめていなかった。
「だったら妖たちが行けばいい! 何もちーちゃんやテツじゃなくったって、あんたら妖なら〈龍の夢〉でいくらでも動けるんでしょ!」
「無理なのですよ」
太三郎の口調にわずかな湿度が加わる。
「妖はすべて〈龍の夢〉で生まれた存在。化け狸である私たちもね。父にして母たる龍の源へは、牙を剥くどころか近づくことさえままならないのです」
「おかしいじゃない! だったらあの鬼は、イチと呼ばれていたあの鬼はどうなの? そっちの言い分が正しければ、彼にだって龍へ近づくことは叶わなかったはずよ」
「おっしゃる通りです。そういう意味でもイチ殿は特別でした」
テツはあのイチなる鬼を思い出していた。
力だけがものを言う世界で頂点に立ち、なのにモモの歌によって生き方を改め、そして命がけで巨龍の目覚めを防ごうとした鬼。
「あの方は鬼の姿のままで人間を愛し、ともに生き、そして看取られたお方。まさしく人と妖の狭間に存在し、最も人間に近づいた方でした。姿形を変じて人間社会に溶け込んだ私たち狸とはまるで違う」
深々と太三郎は頭を下げた。
「此度のことは、人間にのみ為せる試練なのです。何とぞ、お二人にお願いできませんでしょうか」
すでにテツの中では気持ちが固まりかけている。
だからといって千鳥にまで無理強いするつもりは毛頭ない。
そう考えて彼女へ視線を向けようとしたが、花純が姪を後ろへ匿うような格好で手を広げた。
「わかった。わかりましたよ」
その口調はどこか捨て鉢だ。
「じゃあ二人に代わってあたしが行く。それなら文句ないでしょう?」
「いいえ。申し訳ありませんが大ありですよ、花純さん。お訊ねしますが、結界を失った今のあなたが神域に向かったところで、いったい何ができるというのです」
花純の最後の抵抗を、太三郎が無慈悲に斬り捨てる。
「厳しいことを言わせていただきますが、あなたはもうただの人なのですよ」
「……そんなことはとっくに知ってるよ、バカヤロウ」
悪態をつきながら花純は項垂れた。
居心地の悪い沈黙が場を覆っていたが、そんな中で茶がまがずぞぞぞとストローを吸い上げる音を響かせる。
「あ、ごめん」
白々しく茶がまは謝った。間違いなくわざとだ。
何となく気が楽になり、テツも先ほどから頭に浮かんでいたアイデアを話してみることにした。
「あのう、親分さん。おれに一つ、提案があるんやけど」
「伺いましょう」
「実はおれ、ちょっとした縁でやたら速く泳ぐ亀と友達になりまして」
兄弟分ゆうた方がええんかな、とテツは助けた亀の口調を思い出している。
「で、その亀道丸っちゅう名前の亀が、龍宮城へ案内してやるって」
「ほう、龍宮城」
「そんで思ったんやけど、あの浦島太郎を老けさせた煙をもらえんやろかって。玉手箱を持ち運ぶんは難しくても、何でも中に入れられる〈龍の頸の玉〉やったら、あんなヤバい煙でも大丈夫なはずやんか」
龍相手でも通用するかもわからん、とテツは言う。
「なるほど、面白い手ですね」
唸るように応じた太三郎が腕組みをし、しばらく考えこんでいた。
「その案でお願いできますか、テツさん。龍宮城には私の知己もおりますので、亀道丸なる者を迎えに寄越してくれるよう伝えておきましょう」
紛糾していた話し合いもどうにか形を得て、収まるべきところに収まろうとしている。テツには使命感も悲壮感もない。ただやるべきことをやる、それだけだ。
野球をやっていた頃と何も変わりはしない。
「というわけや。亀道丸と友達のおれやないと、龍宮城までたどり着かれへんわ。ならやっぱりここはおれの出番や」
満座へ向けて、テツは分厚い胸板を叩いてみせる。
けれども千鳥だけが「ふふん」とせせら笑ってきた。
「テツくんだけじゃダメだよ。わたしの歌がないと危ないもん」
「ちーちゃん!」
悲鳴のような花純の声だった。
そんな叔母を真っ直ぐに見つめて、千鳥は優しく微笑む。
「花純さん、心配してくれて本当にありがとう。でもこれはわたしが決めたことなんだ。わたし、みんなを守りたい。ここにいるみんなを、パパとママを、学校のみんなを、まだ会ったことのない人たちを」
「何でそんなに強いんだよお」
突っ伏して顔を隠した花純が言った。
「だってわたし、花純さんからそう教わったんだもん」
そう口にして、千鳥は叔母の短い髪を撫でている。
◇
時刻は午後五時のはずだが、さすがに真夏の外はまだ明るい。
カフェの駐車場には車が用意されていた。もちろん太三郎が差配したものである。
これからテツと千鳥は香川県の西部、荘内半島へと向かう。以前に亀道丸が指定していた場所だ。
「えらい古そうな車やけど、大丈夫かこれ」
心配そうにテツが車内を窓から覗き込んでいる。後部座席はあるのだが今どき珍しい2ドアタイプで、車高もかなり低い。
この場にいるもう一人、祖父の清三が「こりゃユーノス・コスモやの」と答えてくれたが、車に疎いテツにはよくわからない。
「それよりテツ、おまえは電話せんでよかったんか」
清三が言っているのは両親への電話だ。
まだやってきていない千鳥と花純も、その電話のために席を外していた。
「電話なあ。海外に掛けなあかんし、時間かかりそうやし、おまけにまるで死にに行くみたいなノリやし、気が進まんわ」
だっておれらは生きて帰ってくるし、とテツが言い切る。
「そやけど、今回の話を父さんと母さんに聞かせたら、二人ともめっちゃ食いつくやろなあ。その反応は正直見てみたい」
「違いないわ。香奈実も秀章さんも似たもん同士やからな」
テツと清三は声に出して笑い合う。
そこへようやく千鳥と花純が現れた。
「そこのお二人さん、ずいぶんと盛り上がってるじゃない」
ドライバーを買って出た花純は、西日対策でサングラスを掛けているものの、オーバーオール姿とは絶望的なまでに噛み合っていない。
そんな彼女が車に近づき、声を上擦らせた。
「まさか今の時代にユーノス・コスモに乗れるとはね」
緊張してハンドル操作を誤りそう、と縁起でもないことを口走る。
千鳥も「お待たせしました」と軽快な足取りだ。
「ちゃんと話できたん?」
何気なくテツが訊ねると、どういうわけか彼女は首を横に振った。
「何べんも掛けようとしたけど、結局やめちゃった。パパとママの声を聞いたら、たぶん決心が鈍りそうな気がして」
「千鳥らしいわ」
それだけを言ってから「ほな行こか」と彼女を車へと促す。
祖父とは目を合わせ、互いに軽く頷いただけだ。それで充分だった。
一足先に運転席へ乗り込んだ花純が、キーを差し込んで回す。
周囲に低いエンジン音が響く中、小走りで太三郎が駆けつけてきた。
「遅れて申し訳ありません。どこにも茶がまの姿が見当たらなくて」
「あいつ、連れていってもらえんからって拗ねたんやな」
そうテツが言えば、千鳥も自分のことを棚に上げて「茶がまはまだ子どもだもんね」と返してくる。
不安と緊張がないわけではない。けれども齢十五にして人生の大きな舞台から退場したつもりでいるテツにとって、新たな大役が回ってきたかのような高揚が少しずつ芽生えてきたのも確かだった。




