モモとイチ
粗末な庵に赤い鬼がいた。
庵の中には竈だけ、後は軋む板張りの床があるばかり。そんな床の上で胡坐をかき、腰に蓑を巻いただけの格好で鬼は瞑想を続けている。
どれほど時間が経ったのだろうか、ようやく彼が目を開けると、いつの間にか猫が太腿の上ですやすやと眠っていた。
「はっは、気づかなんだわ」
鬼は猫へそっと触れる。一向に起きる気配はない。
「わしの太腿は硬かろうに、あまり寝心地はよくないと思うがのう」
慈しむような手つきで背中を撫でると、猫が一言「ふみゅん」と鳴く。
だがそんな穏やかな時間は、庵へ近づいてきたがさつな足音の主によって破られてしまった。
「やあイチ! いるかい? いるだろう?」
勢いよく庵の木戸が開かれる。壊れたかと思ったほどだ。
あまりのうるささに、当然猫は鬼の太腿から走って逃げだしてしまう。
「モモか」
踏み込んできた相手を一瞥し、足を崩しながら鬼が言った。
「相変わらずやかましい女じゃのう。猫が去ってしまったではないか」
「それは失敬! 猫だけでなく、どういうわけかボクには全然動物たちがなついてくれなくてね! イチが羨ましい!」
かつては桃太郎と名乗っていた目の前の麗人は、犬峰/猿河/雉野という人語を解する賢獣を連れていたはずだ。
あまり深く訊ねてみたことはないが、もしかしたら無理やり従えていたのだろうか。いや彼女にかぎってそれはないか、と考え直す。
単純で猪突猛進で大雑把、けれども常にその根底には優しさがある人間。それがモモだからだ。
彼女は今日、正装でこの庵を訪れている。上は着物に陣羽織、下は股引、そして額には白い鉢巻きを締めていた。
「そのナリ見るんも久しぶりじゃ」
「ふむ、そうだったかな? いつ以来なのかよくわからん!」
あはは、と腰に手を当ててモモは豪快に笑う。とにかく細かいことを気にしない質の女なのだ。
そんな彼女がイチを真っ直ぐに見据えてくる。
「さあ、用意はいいかい?」
「知れたこと。わしは常にこの身一つよ」
「ならば行くとしよう!」
二人は連れ立って外へ出た。見上げた天には黒い空が広がっている。
さながら明るい夜のごとき空は、〈龍の夢〉がすべてを呑み込もうとしている証左といっていいだろう。
もはやこの島に残っている生き物はほとんどいない。鬼も人も獣たちも、より安全な場所を求めて東へと旅立った後だ。先ほどの猫は例外中の例外である。
「悪名を轟かせた鬼ヶ島も、今は静かなものよのう」
「にぎやかな方がボクは好きだが、これはこれで風情があるじゃないか!」
「おぬしさえ口を開かなければ、という条件付きでな」
「何だとう?」
モモがわかりやすく口を尖らせていた。
目まぐるしく表情を変える彼女は、いつだって感情を目いっぱいに表現する。だからこそ、その歌はイチの心を強く打ったのだ。
「鬼の世界は力こそがすべてじゃった。おぬしの歌に出会わなければ、今でも力で優劣を決める日々が続いとったはずじゃ」
壱ノ鬼という以前の名は、イチが鬼の世界で頂点を極めていたことを意味する。
他者を力で従え、束ね、意のままに動かす。好き勝手に権勢を振るっていたあの頃よりも、モモと出会ってからの穏やかで愉快な日常をイチは愛していた。
「わしが人と妖、二つの存在の狭間で生きていけるのはモモ、すべておぬしのおかげじゃ。心から感謝しとる」
「どうしたイチ、柄にもないな!」
「こんなときじゃ、本心を伝えたって神罰も仏罰も下るまい」
「キミにそこまで言ってもらえるとは光栄だね! ではその気持ちに応え、この場で一曲披露させてもらおうか!」
「それは止めとけ。龍の神さんに会いに行くためには、おぬしの歌が絶対に必要なんじゃからな」
喉を無駄に使うんじゃない、と軽く説教されたモモは少し膨れている。
そんな他愛ない会話に興じつつも、覚悟を決めた二人の歩調は鈍らない。
彼らが目指しているのは海岸だ。そこから〈龍の夢〉の深部、いわゆる神域へ乗り込むつもりだった。
さほど大きくない島なので、集合の約束を交わしていた砂浜へも、程なくしてたどり着く。
「やあ、ようやく主役のご両人の登場ですね」
狸なのに人の姿を好む太三郎が、目ざとく声を掛けてきた。少々派手な色と柄の着物は明るい夜の下では悪目立ちしている。
「待たせちゃったかな? もしそうならすまない!」
元気よく手を振りながらモモが駆け寄っていく。イチはその後ろから悠然と歩を進めていった。
太三郎と軽く挨拶を交わしてから訊ねてみる。
「何じゃ、浦島のやつは来とらんようじゃの」
「彼ならば今日も釣りですよ」
「釣りぃ? この異様な海に出ていったっちゅうんか」
もはや海はいつもの光景ではない。
ただ波が立っているのみならず、その波は無数の黒い大蛇のような姿をとっており、船であろうと何であろうと呑み込むつもりなのだ。
こんな海に浦島は、いつもの小舟で漕ぎ出したのだという。
「お二人へ伝言を預かっておりますよ」と太三郎が言った。
「『面白い魚を釣って振る舞ってやるから、無事に帰ってこい』とのことです」
「むしろボクらはあのご老体の身を案じているんだがね!」
浦島の無謀さに憤っているモモへ、イチも深く頷いて同意する。
ただ同時に、どんな荒れた海からでも泰然として戻ってくるのが、釣りに魅入られた浦島という老人なのだ。心配するだけ損だろう。
彼のことは放っておき、今は自分たちの為すべきことに集中すべきだった。
「あいつはともかくとして、鼓鳴門はちゃんと来とるんか」
「こちらですぜ、イチの旦那」
波打ち際で首をもたげる亀がいた。龍宮城でも最速の亀、鼓鳴門である。
「瀬戸の海はもはや魔境、武者振るいしそうな荒れっぷりでさあ」
「おいおい鼓鳴門、甲羅は揺らさないでおくれよ!」
大げさに両手を広げたモモに対し、鼓鳴門はにやりと笑ってみせた。
「だったらのんびり遊泳と洒落こみますかい?」
「それも困る! 揺らさず静かに、しかし全速力で飛ばしてくれ!」
「姐さんはいつも無茶を言いなさる」
やいのやいのと騒いでいるところへ、太三郎が「少しよろしいでしょうか」と控えめに入ってきた。
「最後にもう一つ、モモ殿への伝言がございまして」
「へえ、何だい?」
「犬峰、猿河、雉野のお三方はすでに屋島へお見えになっております。他の妖たちとも協力し、この世を守るお覚悟とのことでした。モモ殿へは『またともにきび団子をたらふく平らげましょうぞ』と言付かってまいりました」
これを聞いたモモは初めて見せる、何とも形容しづらい表情を浮かべていた。泣きだす寸前のようでいて、懐かしさのあまり遠くを見つめているようでいて、笑いそうなのを我慢するようでもあった。
そういった感情をすべて仕舞い込み、モモは天を仰いで文句を言う。
「まったくあいつらは水くさいな!」
「本当にな。わしらが帰ってきたらまとめて説教じゃ」
示し合わせたわけではないが、それから四者はしばし黙って海の彼方を見ていた。その果てには〈龍の夢〉の最奥が待っている。
湿っぽくなりかけていた空気を振り払うように、鼓鳴門が呼び掛けてきた。
「それじゃあ行きやしょうか、モモの姐さんにイチの旦那」
イチとモモもすぐに応じる。
「ああ、そうだな!」
「頼むぞ鼓鳴門」
一人で浜へと残る太三郎は、いつもと変わらぬ穏やかな口調で送りだしてくれた。
「今生の別れではありません。酒宴の用意をしてお待ちしておりますよ」
「うむ。久々に暴れ呑みをしようかの」
「おっ、ならイチ、勝負といこうじゃないか!」
ひとしきり笑い合い、それからイチの赤く太い腕がモモを抱えこむ。
ここからは鼓鳴門にすべてを託し、荒れる海を突っ切っていかねばならない。
しかしそこは龍宮城で優雅に暮らすより、ひたすら速さを求めてきた鼓鳴門だ。彼にはイチたちからの信頼に充分応えるだけの実力が備わっていた。
意思を持っているかのような黒い波の追撃を振り切り、海面を疾走していく。
さらにモモが「やはり瀬戸の海は穏やかでないとね!」と言いだし、イチに抱きかかえられた姿勢のままで歌いだしたのだ。
たったそれだけで黒蛇のごとき波は退けられてしまい、海上に真っ直ぐ線を引いたような道ができる。
誰よりもモモの歌の凄さを知るイチが相好を崩した。
「おうおう。あんなに荒れとった海が、今はまるで極楽浄土のようじゃ」
もはや二人と一頭の行く手を阻むものは何もなかった。
これまでに〈龍の夢〉の深部である神域へ、たどり着いただけでなく帰還した者は誰もいない。
ただ、鬼であるイチは壱ノ鬼だった時代に、従えた妖たちから噂は聞いていた。〈龍の夢〉の果てにある神域では空間が歪んでしまうのだ、と。
そのときは戯言として流したイチだったが、何が幸いするかわからないものだ。
「正面やや右の海上、歪んだ空気の渦が現れていないかい?」
歌を止めてまでモモが指摘した。
イチも「いかにも怪しいな」と同意する。
慎重に近づいていくと、全身がざわつき始めて総毛立った。ここから先は明らかに磁場が異なっているのだと肉体が警告していた。
イチとモモは互いに頷き合う。
探し求めていた神域をようやく見つけたのだ。
そんな二人を乗せたまま、鼓鳴門が言った。
「ありゃこの世のもんじゃねえって、一目見ただけでわかりやしたよ。ならあっしはここまででさあ。姐さん、旦那、ご武運をお祈りしておりやすぜ」
「本当に助かったよ! ありがとう鼓鳴門!」
「帰ったら呑み比べをやろうぞ」
さすがに旦那にゃ勝てねえや、とぼやいている鼓鳴門の甲羅から二人は降りた。
どういうわけかイチもモモも海の上に立っている。
ここがどれほど危険で奇妙な場所なのかは想像もつかないが、一つだけ理解できたことがある。神域は彼らを拒んでいない。
吐いた息が空間の歪みにかかりそうなほど近づいて、二人は立ち止まった。
「行こうか、イチ」
「そうじゃな、モモ」
肩を並べて隣り合った二人は、互いの拳を軽くぶつける。
これだけで充分だった。後は野となれ山となれ、神たる巨龍へ会いに行くのみ。
◇
〈仏の御石の鉢〉の水面に映しだされていた映像はここまでのようだった。
いかに名高い宝具といえど、巨龍の神域までは力が及ばなかったらしい。
ただの水へと戻った鉢の中身から目線を切ったテツが呟く。
「桃太郎、めっちゃ宝塚の男役みたいやったな」
途端に「ぷっ」と吹きだす声が上がった。花純だ。
「あんたねえ、最初に出てくる感想がそれって……テツ?」
「どうした、テツ」
花純だけでなく、清三からも呼び掛けられる。
おまけに千鳥までもが口元に手をやって驚いていた。
「テツくん、泣いてるの?」
そう言われてみて初めて、テツは自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
だが、涙を流しているのは彼だけではない。
「いや、そういう千鳥も……」
「え?」
テツからの指摘に、慌てて千鳥も目元を確かめている。
彼女もまたぼろぼろと泣いていた。千鳥自身、それと知らずに。




