屋島へ
瀬戸内海の至る所で〈龍の夢〉が確認されている以上、巨龍の目覚めまでもうそれほど時間は残されていない。
屋島の狸たちを束ねるボス、太三郎はそう言っていた。
「ですので皆さんをとある場所へご案内いたします」
スタイリッシュなスーツ姿に肩につくほど長い黒髪、魅惑的な彼の容貌はどこから見ても人間としか思えない。しかしこれでも狸なのである。
そんな太三郎が連れていってくれるのは、これまでずっと世間から秘匿し続けてきた屋島の中心、巨龍にまつわる伝承が残っている場所なのだそうだ。
そんなわけでテツたちはマイクロバスに乗り込んでいた。
彼以外には祖父の清三、伊庭家の花純と千鳥、屋島を束ねる太三郎とお付きの運転手、そしてしばらく姿を見ていなかった狸の茶がまである。
「ぼくねえ、テツたちのことを親分に伝えるために屋島へ戻っとったんよ」
「まるでスパイやないか、茶がま」
軽口を叩くテツに対し、茶がまは「スパイって何?」と返してきた。
「それも食べ物なん? このフィナンシェとどっちが美味しい?」
フィナンシェが山盛りになった籠を両の前足で持ち、すっかりご機嫌な様子だ。
「へへ、親分が買ってきてくれたんやもん」
「さすがに高松にも洋菓子店はありますからね。都心の行列店の味には及ばないかもしれませんが、東京の一流パティスリーで修業された方が開き、人気を博しているお店なのですよ」
すかさず太三郎が補足する。
これには花純や千鳥から「え、行ってみたい」と声が上がった。
「ありがたい反応ですね。当グループに所属しているパティスリーですので、是非訪ねてみてください。味は保証いたしますよ」
マイクロバスの車体には「せとうちTANUカンパニー」と記されている。いくつもの系列企業を抱えている一大グループなのだという。
このマイクロバスも普段は観光客の送迎に利用されているらしく、せとうちTANUカンパニーが経営する複数のホテルや旅館と、観光地の間を往復しているとのことだ。
「手広く商いを営んでおりましてね」
さらりと太三郎が語る。
「今では学生たちにも人気の就職先ですよ」
「狸が人間を雇う時代か……」
長生きはするもんやの、と清三が口にしているが、テツからすれば六十七歳程度で長生きしたつもりになってほしくはない。もっと生きてもらわねば。
「さて、先ほどは手狭な部屋へ押し込めてしまい、大変失礼いたしました」
太三郎が丁寧に謝罪しているが、とんでもない話だ。あの広さの物件に住める人間がどれほどいるというのか。
「私としましては〈龍の夢〉の出現頻度が高くなった段階で、壱ノ木島の守人である花純さんへコンタクトを取りたかったのです。しかしうちの長老連中は人への情報開示に反対しており、先ほどの高松寒波を受けて、ようやく認識を改めてくれた次第なのですよ」
大げさに肩を竦め、太三郎が言った。
「思い返せば、揃いの装いを着流しからスーツに変えると決めたときも猛反対されましたっけ。まったく、年寄り連中は頭が固くていけませんね」
「あれ? みんな親分より年下やなかったっけ」
突っ込んだ茶がまが目を丸くしている。
それでも太三郎は平然と言い放った。
「いいのです。私、気持ちはいつまでもナウなヤングですから」
現在、マイクロバスは屋島スカイウェイを走行中だ。もう間もなく屋島山上へ到着するらしい。
勘違いされがちだが、屋島は独立した島ではない。かつては島だったとはいえ、干拓などで埋め立てられて、今では四国本島と陸続きになっている。
山上の駐車場へマイクロバスを停め、テツたちはようやく屋島の地に降り立った。観光客らしき人々が駐車場の先、同じ方向へ歩いている。
「このあたりは香川県でも有数の観光地でしてね。本来であれば、東京からお越しいただいた千鳥さんをゆっくりご案内したいのですが」
そう言って太三郎は逆方向を指差す。
「あいにく本日の行き先は別の方角でして」
彼に案内されるがまま、テツたちはぞろぞろと歩いていく。
やってきたのはもう使用されていないケーブルカー乗り場だった。
「残念ながら二〇〇五年に廃止となりまして。その後、近代化産業遺産という国の指定もいただいている旧駅ですよ」
太三郎はそう説明してくれたものの、テツの目にはただの廃墟にしか見えない。
ぼくらが小さかった頃の遊び場やったんよ、とは茶がまの説明だ。
そこから少し離れた場所に「立入禁止」と大書された金網フェンスがあった。正直なところ、普通のペンチで切断できてしまうだろう。世間の目から隠しておくにはいささか脆弱ではないか、とテツでさえ思う。
ドア状になっている箇所を押し開け、太三郎はフェンスの中へと入っていく。
そして奥にある何の変哲もないマンホールの前で立ち止まった。
「こちらに地下への梯子があります。皆さん、気をつけて下りてきてください」
マンホールの蓋を開け、太三郎が梯子をするすると伝っていく。茶がまもそのすぐ後に続き、遊びのようにして軽快に下りていった。
まずテツが穴を覗いて梯子の長さを確認してみるが、意外に短い。
「花純さんや千鳥もこれなら大丈夫そうやで」
「ほんとに? わたし、小さい頃からそういうの苦手で」
千鳥は少し不安そうにしている。
なら、とまずテツが最初に下りて、次の順番に千鳥を指名した。これなら万が一彼女が落ちてきても受け止めてやれる。
しかしそんな心配も杞憂に終わった。千鳥はスムーズに梯子を伝って下りてこられたし、そのことに対して自分でも驚いていた。やればできるのだ。
「子どもが成長するんはあっという間よなあ」とテツはしみじみ感じたが、子ども扱いを嫌う千鳥を慮って口には出さない。
花純に清三もすぐに合流し、待っていた太三郎が頷く。
「お揃いですね。ではこちらに」
壁も地面もコンクリートで塗り固められておらず、土が剥き出しだ。まるで洞窟のような通路である。ただし灯りは備えつけられていたため、進むのに問題はない。
それほど歩くこともなく、両開きの扉の前へとやってきた。大きくて頑丈そうな鉄製の扉もさることながら、異質なのは中心部に規格外のサイズである錠前が据えられていたことだ。
少なくともテツは、そこまで大きい鍵など目にしたことがない。
「茶がま」
太三郎が静かに名前を呼ぶ。
茶がまは「はーい、親分」と元気に返事し、その声が通路に響いた。
だがテツが声に気をとられていたわずかな間に、茶がまの姿は大きな一本の鍵へと変じていたのだ。
「ここは不思議な扉でしてね」と太三郎が言う。
「生体の鍵でしか解錠できないのです。まったく同じデザインであっても扉は受け付けてくれず、固く閉ざされたままなのですよ」
「それじゃあ、狸が変化した鍵じゃないとダメってことなのね。不届き者への対策も万全なわけだ」
常識外れの出来事であっても花純の理解は早い。彼女の説明を聞いて、テツはようやく「なるほど」と事情を呑み込めた。
茶がまの化けた鍵がごとりと回り、重い音を立てて扉が開きだす。
「さあ皆さん、ここが屋島で最も大切な場所ですよ」
手を広げた太三郎に促され、テツたちは部屋の中へ足を踏み入れた。
同じ土の壁でもこちらにはひんやりとした空気が漂っている。広さはさほどでなく、先ほどの旅館のリビングルームの方がずっと上だ。
「あれ、何かな」
千鳥が言っているのは、部屋の真ん中に鎮座している台座と、その上にある石造りの鉢のことだろう。というより室内にはそれしか置かれていなかった。
「あれこそ私たち屋島の狸の宝、〈仏の御石の鉢〉です」
「うそ、また竹取物語だ」
驚いた花純が、オーバーオールの前ポケットから〈龍の頸の玉〉を取り出す。
「実はこれもそうなんだよ、親分さん。竹取物語でかぐや姫が求婚者たちに探させたっていう伝説の宝」
「存じておりますとも。〈火鼠の皮衣〉に〈燕の子安貝〉、〈蓬莱の玉の枝〉、そして〈龍の頸の玉〉」
太三郎の態度は冷静沈着だ。
「有形無形、すべてのものを収めてしまえる宝ですね。守人の方々が大切に受け継いでこられたと伺っております」
「本当に情報通なんだね、親分さんは」
もっと早くに知り合っておきたかったな、と少し悔しそうに花純が言う。
「それは私たちとて同じこと。龍の神という偉大な存在に干渉しようとするのであれば、人と妖が連携できないでどうします」
珍しく語気を強めた太三郎にも、いろいろと思うところがあるのだろう。
「ですので、私はこの〈仏の御石の鉢〉に眠る過去の記憶を、包み隠さずあなた方へ開示しようと決意いたしました」
「もしかして過去が見える、とか」
何とはなしに口にしたテツだったが、太三郎は力強く親指を立ててきた。
「ご明察ですよ、テツさん。この鉢に水を注げば、過去の記憶が水面へ映しだされるのです。たとえどれほど昔の記憶であってもね」
それから太三郎は〈仏の御石の鉢〉のそばにあった水差しを手に取り、茶がまへ「これに水を汲んできておくれ」と指示を出す。
勢いよく部屋を出ていった茶がまが戻ってくるまでの間、太三郎の語りはさらに続いていく。
「私が知るかぎり、過去にも一度だけ巨龍が目覚めかけたことがありましてね。これからお目に掛けるのは、そのときに決死の覚悟で食い止めようとした者たちの記憶です」
「その人たちって……?」
当然の疑問を千鳥が口にする。
太三郎から返ってきたのは、あまりに予想外な名前だった。
「桃太郎であり、鬼ですよ」
「鬼ぃ?」
テツも思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
花純や清三も揃って「鬼って、あの鬼のこと?」「そらそうやろうけど」と困惑しているようだ。何せ昔ばなしにおける悪役を一手に引き受けている鬼なのだ、当然の反応といっていい。
ただし千鳥だけは違った。
「鬼さんも、桃太郎の歌で改心したからだよね。だからみんなで一緒に世界を守ろうとしたんだよね」
「ほう! 素晴らしい洞察です、千鳥さん」
太三郎の拍手が反響し、何倍も大きな音となってテツの耳に聞こえた。
「ご存知でしたか? 守人たちが暮らしてきた壱ノ木島は、元々はオニと書いて壱ノ鬼と読ませる島だったのです。鬼の頂点に力で君臨していた壱ノ鬼。そう、まさしくあの島こそが鬼ヶ島なのですよ」
初めて知る衝撃の事実だ。テツの心は大きく揺らされた。そして生まれて初めて、両親が民俗学や文化人類学へ傾倒している理由がわかった気がした。
花純を見れば、彼女も口を開けて呆気にとられている。そこまではあの長い階段の先にある社にも伝承が残っていなかったのだろう。
もっと太三郎から話を聞かせてもらいたかったが、扉の向こうから声がする。
「おやぶーん、お水持ってきたでー」
「あの子が戻ってきたようですね。では、話の続きは〈仏の御石の鉢〉に宿る記憶を観てからにいたしましょう」
水差しを茶がまから受け取り、太三郎は〈仏の御石の鉢〉へ近づいた。そして無駄のない動作でそのまま水を鉢の中へ注いでいく。
鉢の周りをテツ、千鳥、花純に清三が囲い、全員の視線は揺れる水面へと集まっていた。そこへ映しだされる過去の記憶を、誰もが今か今かと待ち望んでいる。




