鬼がいた島
海岸にある大きな岩に腰掛けて、テツは電話をしていた。
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
そう言ってから通話を終え、スマートフォンをハーフパンツの後ろポケットへとしまい込んだ。ついでに大きく息も吐きだす。
よっこらせ、と声に出して砂浜へと飛び降りた。一メートルほどの高さだ。
海用ではないサンダルが砂まみれになっていくが、気にせず砂浜を歩いていく。
神域を離れても、テツの中からイチの記憶が完全に失われたわけではない。抜け落ちずに残っている記憶もある。かつてイチとモモはこの浜から、龍の神へ会うために荒れた海へ飛び出していったのだ。
今、その光景の面影は微塵もない。誰もおらず、静かで穏やかな浜だった。
「結局、一度も泳がんずくやったな」
波打ち際で目を細め、瀬戸内海を眺める。ただし人生三周分くらいは海と関わったような気もしていた。
そんなテツの後ろから「やっと見っけ」と声がする。
「こんなところにいた」
浜へ向かって、舗装されていない私道を千鳥が歩いてきていた。
出会った五日前と同じ服装で、彼女はテツのすぐ近くへとやってくる。
「ねえ、何で朝なのに黄昏てんの?」
「千鳥も言うようになったなあ」
さすがにテツも苦笑いだ。
「まあ、いろいろと考えごとや」
「ふーん」
「そっちこそ準備は大丈夫なんか?」
「うん、ばっちり」
千鳥は衒いなくピースサインをしてみせる。
「後は心の準備だけだね。もう今から心臓がばっくばくだよ」
今日、午後の便の飛行機で彼女は帰京する予定だ。
合唱クラブのみんなに頭を下げ、戻らせてもらうのだと昨夜に千鳥が話していた。悩み抜いた末の結論だったのだろう。
たったの五日間で、見違えるほどに彼女は強くなった。「一度逃げたらもう戻れない」と話していた気弱な女の子はもういないのだ。
何気ない風を装い、テツもさらりと口にする。
「おれも今日の夕方、神戸へ戻るわ」
「そっか」
短い返事をした千鳥には、とっくにお見通しだったのかもしれない。
先ほどテツが電話をしていた相手は宝丞学園野球部の梁田コーチだ。ずっと連絡をくれていた彼に、謝罪の言葉と部へ戻る意思があることを伝えた。
夏の選手権大会の兵庫県予選は、〈龍の夢〉による異常事態のために十日ほど順延となっていた。そして宝丞学園はまだ勝ち残っている。
甲子園を目指して一丸となっているチームに、いったいどの面下げて戻るつもりなのか。もはやただの邪魔者でしかないだろうに。そう何度も自分に問いかけてみた。
今朝、目覚めたときに自然とテツの心は決まっていた。たとえチームから必要とされなくても、いつか必要とされるようになろう。もう一度、野球をやろうと。
あの神域での勝負を経て、テツもまた変わったのだ。トミージョン手術を受けて、再び投手として再起できるかもしれないし、上手くいかないかもしれない。
だがどちらにしても新しい景色を見ることになるだろう。つまるところ、新しい自分に出会いたくて野球をやっているようなものなのだ。
んー、と千鳥が両手を組んで伸びをしている。いつの間にか彼女の肩には小さな蟹が乗っていた。
「花純さんも清三おじいちゃんも待ってるから、早く戻ろ」
「そうやな──」
テツが最後まで答え終わらないうちに、蟹が狸の姿へと変わる。
「待っとるで、テツ!」
「おわっ!」
不意を突かれたせいで派手に驚いてしまい、テツは波打ち際で尻餅をつく。おかげでハーフパンツが濡れてしまった。
ここまでタイミングをうかがっていたのであろう茶がまと、おそらく首謀者の千鳥とがハイタッチを交わし合う。
「いえーい」
「とんでもないコンビやな……」
ぼやくテツだが悪い気はしていない。
見上げた夏の空は、不思議といつもより青い気がした。
◇
「遅いよ、テツ」
叱責の声は、白衣に松葉色の袴という神職の装いに身を包んだ花純からだ。
「ごめんごめん、ちょっと服を着替えとったもんで」
テツと千鳥が神域、そして〈龍の夢〉から帰還して以降、各地の異常事態はぴたりと収まっていた。再びセトウチが深い眠りについたおかげだ。
今からその礼として、社での神事を執り行う。伊庭家を出て真夏の日差しにさらされつつ、再びあの長い階段を上がっていかなければならなかった。
宮司を務める花純に、テツ、千鳥と茶がま、そして今回はちゃんと清三も同行している。ただしまたしても日本酒の瓶を持参していた。前回とは違って一升瓶だ。
「太三郎親分からいただいた地酒や。香川でも指折りのええやつやぞ」
テツからの視線に気づいた清三が、見えやすいように酒瓶を掲げる。
相変わらず太三郎のやることはどこまでもそつがない。
さらに清三は「そういえば」と続けた。
「そのときに聞いたわ。屋島の狸たちで野球チームを結成するらしいの」
「へえ。おもろそうな話やないか」
興味を示したテツの足元に、茶がまが小走りで寄ってくる。
「うん、そやで。屋島ポンポコリンズって名前にしたんよ」
「ポンポコリンズかあ……」
テツにも思うところがあったが、それ以上は口にしない。
しかし日傘を差して先頭を歩く花純が、こちらを振り返って言った。
「名前が可愛らしくて、弱そう」
「あーあ、はっきり言いよったで」
それでも茶がまは平気なようで、「可愛いんがいちばん強いって親分から教えてもらったもん」と譲らない。的外れなような、的を射ているような教育方針だ。
「あと龍宮城もな、龍宮ドラゴンズってチームを立ち上げたんやって。乙姫さまが監督なの。今度試合もするんよ」
「噂の乙姫さまだよね。野球の監督、難しそうだけど大丈夫なのかな」
まだ見ぬ龍宮ドラゴンズの心配をしているのは千鳥だった。
テツにもその気持ちはわかる。亀道丸からあれこれ聞かされた身としては、乙姫の采配に一抹の不安が残るのだ。屋島ポンポコリンズ対龍宮ドラゴンズ、拮抗した試合になりそうな組み合わせかもしれない。
「ええなあ。観に行きたいわ」
「テツやったらチームに入れてあげるで」
「お誘いありがとうな。でもおれは別のチームで野球しとるから、またいずれ」
「ちぇっ」
どこで覚えたのか、茶がまが舌打ちをした。
そんな他愛ない会話とともに、一行は龍の神を祀った社へと到着する。
三日前と同様、一礼してから小さな本殿へ上がっていく。すぐに花純が奥にある木枠の戸を開け放てば、薄暗かった本殿の中へ光が射す。
「いつ見ても最高の眺めやの」
一升瓶を供えながら清三が感嘆している。
瀬戸内海の景色はいつもと変わらず、ただ穏やかにそこに在った。奇妙で危険な〈龍の夢〉など、まるで幻であったかのように。
「結局、守人ってのは何の意味があったんだろうね」
どこか遠くを見つめているような眼差しで、花純がぽつりと呟いた。
テツと千鳥はどちらからともなく視線を交わし、頷き合う。
「花純さん。それはおれらから説明するわ」
モモとイチ、二人の記憶の中に花純が求めている答えがあったのだ。
千鳥もテツに続いて言う。
「そもそも結界を最初に提案したのって、他ならぬ龍の神さまだったんだよ」
セトウチは「〈龍の頸の玉〉は人の世へ与えた」と口にしていた。その相手こそ、モモでありイチだったのだ。
自身の目覚めに備えて、人の世を維持できるほどの結界を張れ。龍の神は二人にそう伝え、祈りの力を〈龍の頸の玉〉へ込めることを教えた。
その教えはこの壱ノ木島にてずっと受け継がれていく。
壱ノ鬼ことイチは島で暮らしながら機織りの技術を学び、より高密度に祈りの念を紡いでいけるやり方を編み出した。テツが適当に茶々を入れた鶴の恩返しも、あながち外れてはいなかったらしい。
さらにイチは鬼の身でありながら、戦や飢饉などで親を失った孤児たちを引き取り、大切に育てていった。
そしてイチ亡き後も、この子どもたちによって守人の役目が引き継がれていく。つまり鬼のイチこそ、守人の祖なのである。
鬼が暮らした島は、人の世を守る島でもあった。
守人の始まりがテツと千鳥によって代わる代わる話されている間、誰もが静かに耳を傾けていた。
特に守人である花純には胸に迫るものがあるようだ。
そんな彼女を、テツはついからかいたくなってしまう。あの遊び好きな龍の神の前では湿っぽい空気は似合わない。
「お? もしかして花純さん、また泣くんちゃう?」
「うっさい。いつまでも擦ってるようならはっ倒すよ」
やや乱暴な口調はいつもの花純だ。
けれどもその表情はどこかばつが悪そうでもあった。ひょっとしたらすでに涙がこぼれていたのかもしれない。
「まあ、いろいろやる前に、まずは忘れ物からやろ」
テツの言葉に千鳥が「うん」と応じた。
「今度はちゃんと、最後まで聴いてもらわないとね」
「当然眠ったままでな」
二人は顔を見合わせて大いに笑った。
テツも千鳥も、ひとまず今日この島を去る。だがこの壱ノ木島は魂の故郷といっていい。いつかはまた帰ってくるときがやってくるだろう。
それは案外早く訪れるかもしれないし、結構先の出来事かもしれない。未来なんて誰にもわからないのだ。
千鳥が足を肩幅に開き、歌う体勢をとる。
小さく息を吸い込んだかと思えば、彼女の喉が震えだした。
テツはそっと目を閉じ、海へと祈る。
おやすみセトウチ、よい夢を。




