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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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17/18

決断

 テツは余裕がなくなってきているのを自覚していた。一刻も早く祖父を安全な場所へ連れていきたいのに、彼の前には多くの障害が立ちはだかっている。

 凍結した道路で滑ってしまわないよう神経をすり減らしているのもあって、思っていたほど距離を稼げていない。事故を起こして止まっている車の群れも邪魔だ。


「クソガキどもが、はよどかんかい!」


 怒鳴ってみても返ってくるのは雪ん子たちの笑い声と氷の玉である。

 どうにかスポーツバッグを盾にして防いではいるが、清三を背負ったままでは本来の反応よりわずかに遅れてしまう。

 すでに一発、右の脇腹へ氷の玉を喰らっていた。

 一瞬だけ呼吸ができなくなったものの、歩くのには支障がない箇所だ。むしろ骨が折れやすい足の甲などではなく幸運だった、とさえテツは考えていた。

 しかし冷静に見れば状況は悪化の一途をたどっている。


「じーちゃん、もう少し待っとれよ。必ず島へ連れて帰ったるからな」


 祖父へ語りかけることで、己の気合も入れ直す。

 そんなときだった。背中の清三よりもさらに後ろから、耳に覚えのある澄んだ歌声が聞こえてきたのだ。


 ♪蛍の光 窓の雪

  ふみよむ月日 重ねつつ


 なぜか歌は「蛍の光」であった。


「はは。妖さん、はよお帰りくださいってか」


 ここまで切迫感を漂わせていたテツだったが、思わず笑みがこぼれる。

 歌っているのが誰かは確認する必要さえなかった。千鳥だ。

 彼女の強く、伸びやかな歌声が周囲の凍てついた空気を変えていく。昨日の神事で少しだけ耳にした歌声とは生命力がまるで違う。

 だからテツには確信できた。千鳥はもう大丈夫なのだと。


 ♪いつしか年も すぎの戸を

  あけてぞ今朝は 別れゆく


 そして彼女の歌は予期せぬ効果をもたらしていた。あれだけ氷の玉を投げつけてきていた雪ん子たちが、毒気を抜かれたようにおとなしくなったのだ。

 雪ん子たちはテツへの興味をなくしたように三々五々に散り、それぞれで踊ったり転がったり雪だるまを作ったりしはじめた。実に子供っぽい仕草だった。

 上空で雪を降らせていた雪女たちも同様である。歌を耳にした途端にこちらへの干渉をやめ、ただ空中に浮かんでいるだけの存在へと変わったのだ。

 どうやら妖の脅威は、千鳥の歌によって無効化されてしまったらしい。


「さすがはちーちゃん。あれこそまさに魔を退ける聖歌隊だね」


 一人なんだけど、と軽口を叩きながら花純が近くへとやってきた。


「やあやあテツ、調子はどうだい?」


「ぼちぼちやな」


 ひとまずテツも定型となっている返しで応じた。

 そして親指を立てて上空を差し示す。


「これ、千鳥のおかげなんやろ?」


「まあね。ちょっとした賭けではあったけど、ちーちゃんがやってくれたのよ」


「やっぱりすごい子やなあ。歌も相まって心が震えるわ」


 ほんのひと時、テツは目を瞑って千鳥への敬意を表した。

 それから彼は「よし、行こか」と花純を促す。


「千載一遇のチャンスやし、ここは絶対に逃したらあかん。千鳥には負担を掛けてしまうけど、どうにかこのまま灯台へたどり着かんとな」


 妖からの攻撃は止んでいても、高松中心部の凍結は依然として継続している。この場に茶がまがいてくれれば他にやりようもあるのかもしれないが、ないものねだりをしていたって状況は好転しない。


 ♪とまるも行くも かぎりとて

  かたみに思う ちよろずの


 歌っている千鳥にもすぐ合流してもらい、赤い灯台を目指して進まねば。

 そう意気込んでいたテツだったが、花純から「待って」と声が掛かる。


「その前に一つだけ、野球のことで質問していいかな。たぶん配慮を欠いた質問になると思うけど」


「気にせんでええよ。デリカシーないんはおれもそうやし」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 話を切り出す前に花純は呼吸を整え、それから一気に言葉を紡いでいった。


「もしもあんたが一試合だけ、以前のようなボールを投げられるとする。舞台は甲子園、対戦相手はそれなりに強い。でも勝ち上がった場合の次の対戦相手はもっと強い。それこそ優勝候補の大本命だね。そんな状況だとしたら、あんたはどっちの試合で投げたい?」


「そんなん決まってるやん。目の前の試合やわ」


「その心は?」


 間髪容れない花純からの問いに、これまたテツも即答する。


「まず今日を生き延びんと、明日を迎えることはできんやろ。トーナメント戦もそれと一緒や。次の相手のことを考えすぎて、こけてしまった例なんてそれこそ腐るほどあんで」


「なるほどね。それが勝負の世界に生きていた人間の意見なんだね」


「そんな大層なモンとちゃうけどな」


 テツからすれば当然の考え方であった。もちろん宝丞学園の三枝監督や他の名門チームの監督のような、生粋の勝負師たちがどういう見解を持っているかは定かではない。

 ただ、投手という人種ならばみなテツと似たり寄ったりではないか。

 明日のことは明日考える。まずは目の前の、刹那の勝負に勝ちたい。

 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、を地でいくのが投手なのだ。


 ♪心のはしを ひとことに

  さきくとばかり 歌うなり


 熱のこもった千鳥の歌は続いていた。

 ゆっくりと歩を進める彼女を手招きで呼び寄せながら、花純が言う。


「ようやく決心がついたよ。あたしも当代の守人として、為すべきことをやる」


 迷いが吹っ切れたようにそう口にして、オーバーオールの前ポケットから小さな黒っぽいボールを取り出した。


「何かと思ったら、いつものメディシンボールやん」


「はあ? メディシンボール?」


 何それ、と花純は怪訝そうな表情を浮かべる。

 今度は逆にテツが驚く番だった。


「え、メディシンボールとちゃうの? ほら、健康のためににぎにぎするやつ」


「そんなわけないでしょ」


 一笑に付しつつ、花純は大事そうにボールを両手で包みこんだままだ。


「これはね、代々の守人に受け継がれてきた〈龍の頸の玉〉よ」


「どっかで聞いたことあるような……。て、まさか」


 かぐや姫のやつか、とテツが思い至ったときには、すでにメディシンボール改め〈龍の頸の玉〉が花純の手元で光を放ちだしている。

 光は次第に金色の輝きとなり、テツの目には膨らみだしたように映った。

 一見しただけでも明らかに異質な力だとわかる。


「千鳥、はよこっちへ! もう歌はええから走れ!」


 声のかぎりにテツは叫んだ。

 膨張した金色の球体が無数の糸となってほどけていく。

 もはや球形を維持していくことができず、波打つようにして金色の糸が花純の手元からあふれだした。

 一方で花純は微動だにしていない。その佇まいはまるで、ひたすら愚直に祈りを捧げている宗教者のようだ。


「テツくん、これって……」


 ようやく追いついてきた千鳥が、不安そうにテツを見上げてくる。


「おれにもわからん。ただ、花純さんは何かを決意した様子やった」


 いざとなれば千鳥を守れるよう、テツは彼女の傍らで注意を怠らない。

 地表へ落ちた金色の糸が放射線状に広がっていく。糸は直線を描くようになり、互いに繋がりだす。

 気がつけば花純を中心とした模様が現れていた。まるで金色に輝く蜘蛛の巣だ。

 四方八方に張り巡らされた金色の糸に覆われた場所では、積もっていた雪もあっという間に溶けていく。肌を刺すような寒さも消え、すぐに真夏の暑熱が入れ替わりで戻ってきた。今や妖たちの姿はどこにも存在していない。

 空を見れば、青い空と黒い空の境界線があまりにはっきりと引かれていた。けれどもその線もどんどん青空の領域を広げ、〈龍の夢〉の象徴といっていい黒い空を押し返していく。そして空のすべては再び青く塗り替えられる。

 ここまで眩いほどの輝きを放っていた糸も、次第に光を収束させ、元々そこには何もなかったかのように静かに役目を終えた。

 驚くべきことだった。引き起こされた事故を除けばすべてが元通りだ。〈龍の夢〉に呑み込まれ、あれほど危機的だった状況が一気に好転してしまった。


「花純さん!」


 慌てて千鳥が駆けだしていく。やり切った花純の体が少しふらついたためだ。

 どうにか倒れずに踏ん張った花純だったが、横顔には疲労の色が濃い。

 すぐさま千鳥は叔母へ肩を貸す。


「無理しないで」


「ありがとね、ちーちゃん」


 力なくお礼を述べた花純の手元には、輝きを失った小さな黒っぽい玉だけが残されていた。


「見ての通り、結界を張った。もう高松は大丈夫だよ。どんなに少なく見積もっても、向こう十年は〈龍の夢〉に侵蝕されないはず」


「花純さんも人が悪いわあ。そんなすごい守人の力を持っとんやったら、最初から出し惜しみせんといてほしかったで」


 労いの言葉を掛けるつもりが、やや皮肉めいた調子になったのは否めない。

 それでもテツは花純に感謝していた。彼女がいてくれなければ、背中の祖父の命は風前の灯火だったのだ。


「ごめんね。あたしには荷が重すぎて、なかなか踏ん切りがつかなかったの」


「あんだけの力や。そら花純さんもしんどかったやろ」


「ううん、そうじゃない。この結界は当代の守人であるあたしが持つ、たった一つの切り札だったから」


 もう大丈夫、と告げて花純は千鳥の肩から離れる。


「たった一つ……?」


「テツにはさっき言ったでしょ。この玉は歴代の守人たちが受け継いできた〈龍の頸の玉〉なんだって。あたしたちはみな、この世のすべてを取り込める器であるこの〈龍の頸の玉〉へ、祈りの念を糸に変えて紡いできたのよ」


 そう語った彼女はいきなりしゃがみこんでしまい、両手で顔を覆う。


「あーあ、使っちゃった。何百年、もしかしたら千年、そんな長い時間をかけて紡いできた祈りを、あたしが全部ここで使っちゃった」


 花純の指の隙間からほんの少し、涙があふれ出していた。


「もう、あたしには何もできない。やばい、どうしよう。本当にこれでよかったのかなあ。もしかしたら判断ミスだよって里紗さんに怒られちゃうかなあ」


 泣いている大人へ掛けるべき言葉を、テツは何も持っていない。

 やはり千鳥も同様らしかったが、それでもおろおろしながら叔母の背中をさすり続けている。

 永遠のようにも感じられた、胸が塞がるほどに重苦しい時間は、聞き慣れた愛らしい声によってようやく終わりを迎えた。


「やっぱりや! チドリたちが元に戻してくれたんやね」


 どこからやってきたのか、短い足で走ってきたのは狸の茶がまである。


「テツも頑張ったん?」


「いいや。おれは何もできんかった。千鳥と、花純さんのおかげや」


「ふーん」


 二足で立っている茶がまは、突然後ろへと振り向いて言った。


「そうなんやって、親分」


 テツがそちらへ視線を向けると、グレーのスーツと黒いシャツとで格好を統一した十人ほどの集団が、値踏みするかのようにこちらをじっと見つめていた。


「なるほど。これはいろいろと事情をお伺いしなければならないようですね」


 親分、と茶がまが呼んだ男が丁寧な口調でそう話す。

 艶やかな髪は肩まで伸び、顔立ちも非常に整っている。

 けれどもただの優男ではない風格が、間違いなくその男には備わっていた。

今回登場させた「蛍の光」についても、すでに著作権が切れております。

あともう一つ、補完として。

営業終了が近づいてきたのを知らせる曲は、実は「蛍の光」ではなく「別れのワルツ」だそうです。

原曲は同じですが、編曲したそれぞれは四拍子と三拍子で違いがあるとのこと。

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