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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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16/18

突然真冬のごとく

 草野球の試合は午前中に終わり、そろそろ昼を迎えようとしていた。

 千鳥は花純とともに高松港行きのバスに乗ったのだが、テツと清三も一緒である。彼らは野球チームの仲間たちから「祝勝会をやろうや」と誘われていたのに、早々に千鳥たちと壱ノ木島へ帰ることを選んだ。


「ねえねえちーちゃん、お昼ごはんは何がいい? あ、うどんはいつでも食べられるから今回はパスで」


 せっかくだしお洒落なお店がいいよね、と隣に座る花純が声を弾ませていた。

 島に帰ったところで昼食の用意などしていないし、飲食店もない。だったらそのまま高松港付近で食べていこう、という話になったのだ。

 港近辺といっても、JRの駅や私鉄の駅、それにバスターミナルまで集まっている、いわば高松における交通機関の大元のような場所だった。当然、飲食店もそれなりに揃っているのだろう。

 ただ、千鳥は叔母の話を半分くらい上の空で聞いていた。

 先ほどの試合で躍動するテツを見て、自分だけがずっと足踏みしているのだと実感させられてしまったせいだ。

 たとえるなら二人揃って枯れた井戸の底に落ち、救助を待っていたはずなのに彼だけが先に引き上げられてしまったような。

 かすかな光を見上げるしかない暗い井戸の底で、一人置いていかれた千鳥は、どこへも行けずに膝を抱えて座り込んでいる。

 前へ進みたい、もう一度歌を歌えるようになりたい。

 焦りともどかしさとが彼女の心を締めつけてくる。


「お、中央通りまで戻ってきたか。もうすぐ港だよ」


 片道三車線の広い道路に入ったようで、花純が中腰になりながら後ろの座席へと呼び掛けた。


「おーい男ども、そろそろ下りる準備をしときなさいよー」


 眠りこけていたテツも「んあ?」と目をこすりながら、窓の外へ視線を遣る。


「おお、もう街中やん。一瞬でワープしたみたいやな」


「アホなこと言ってないで、さっさと清三さんも起こしてよ」


「ういー」


 テツが気の抜けた返事をした、その直後だった。

 突然タイヤがスリップでもしたかのように、バスは制御を失ってしまう。

 そのせいで花純もバランスを崩して転倒しそうになる。

「危ない!」と思わず叫んでしまった千鳥は、どうにか彼女の体を支えようと必死に手を伸ばす。無我夢中だったが、気がつけば腰のあたりをがっちりとホールドしていた。

 同様に後ろの席のテツも、花純の腕をとっさにつかんでいたようだ。


「きゃっ!」


 そんな悲鳴が今度は花純の口から漏れる。バスは街路樹の植わっている中央分離帯へ乗り上げてしまい、止まりはしたものの大きな衝撃があったせいだ。

 しかも事故を起こしたのはこのバスだけではないらしい。


「おい! 外や、外見てみ!」


 鋭くテツが叫ぶ。

 前方後方を問わず、次々にコントロールの効かない車が道路を滑っていく。あちらこちらで事故が発生して手に負えなさそうな状況となっていた。

 外の派手な事故の光景に目を奪われてしまいそうになるが、千鳥はあることに気づく。


「今ってお昼のはずなのに……。あんな空の色っておかしいよね」


 一面に墨でも流したかのような、黒い空。なのに明るさは日中と遜色ない。

 考えたくはなかった。なかったのだが、どうしてもその結論に行きついてしまう。


「花純さん、テツくん」


 小さく息を吸って千鳥は切り出した。


「これ、〈龍の夢〉に入ってしまったんじゃないかな」


「んなアホな」と即座にテツが反応する。


「だってここ、海ちゃうんやで」


 しかし表情もその口調も心なしか自信なさげだ。

 一方で花純は窓へ顔を近づけ、熱心に何ごとかをチェックしていた。


「窓についているこの白いやつ……ひどく冷たい。たぶん霜だね」


 不意に彼女が口にした「霜」という単語に、千鳥の胸は少し痛む。歌と声を笑いものにしたクラスメイトの男子、彼の名前が真霜だったからだ。


「言われてみたら、何か肌寒くなってきたような気ぃするわ」


 テツが剥きだしの太い腕をさすっている。

 それから彼は、まだ寝たままである傍らの清三を起こしにかかった。


「おい、じーちゃん。はよ目ぇ覚ませ。緊急事態や」


 だがテツが強く揺さぶっても清三は眠ったままだ。

 清三だけではない。予期せぬ事故に巻き込まれたにもかかわらず、乗客が誰一人として声さえ上げていなかった。運転手でさえ同様である。

 この光景に千鳥は強い既視感を覚えた。三日前の朝、旅客船に乗って壱ノ木島へ向かっていた彼女が、狸の茶がまとともに〈龍の夢〉と遭遇した、そのときと酷似しているのだ。


「ここがもし〈龍の夢〉なら、清三おじいちゃんや運転手さん、他のお客さんは起きない……と思う」


 テツにとっては酷な推測だが、意を決して千鳥が告げた。

 ゆらりとテツが彼女に顔を向ける。


「じゃあ、どうしたらええんや。じーちゃん連れて、またどっかにある灯台を探したら抜けられるんやろか」


「それはどうだろうね」


 一通り車内の確認を済ませた花純が言う。


「今回はあんたたちから聞いた話より、現実世界への侵蝕度合いがはるかに高いのよ。海じゃなく陸地で〈龍の夢〉に出くわすなんて、代々の守人だって経験していない。未曽有の危機にあたしたちは立たされているってわけ」


「そんな……」


 出会ってから初めて見る、今にも泣きだしそうなテツの表情だった。


「花純さん、守人なんやろ。こういうときにどうにかできるんが守人って役目なんとちゃうんか」


「痛いところを突いてくるね。でも昨日言ったでしょ、守人といったってあたしには何の異能もない、ただ祈るだけなんだって」


 再び窓の外へ視線を遣った花純が「季節外れの雪まで降ってきたようね」と告げ、ため息をついた。その言葉通り、真夏だった高松に寒々とした雪が舞っている。


「いずれにせよ、もう少しだけ状況を判断する材料がほしい。ここでじっとしているわけにもいかないし、ひとまず外に出よう」


 彼女に促されるがまま、千鳥は真ん中のドアから降りようとした。

 けれども足を慎重に道路へ着けた瞬間、顔のすぐ脇を何かがかすめていく。大きな音を立てて車体へとめり込んだそれは、ソフトボールくらいの氷であった。


「や……」


 千鳥は恐怖でそれ以上声を出せない。体も固まってしまっている。


「何ぼうっとしとんねん! さっさと戻らな危ないっちゅうに!」


 強引に彼女を引っ張り上げたのはやはりテツだ。

 彼の左腕に抱えられ、どうにか千鳥はバスの中へ戻ることができた。


「けけけ、惜しい惜しい」


「そうでもない、そうでもない」


「次の順番は誰だ、誰が当てるか」


 雪が降りしきる中、外を跳ねまわっている子供たちの一団がいる。みな一様に笠をかぶっておりとても普通の子供には見えない。


「雪ん子だね、ありゃ」


 低い声で花純が断じた。

 さらによく見れば、空には白い着物を身にまとった白い髪の女たちが浮かんでいる。彼女たちが袖を一振りしただけで雪が現れているようだ。


「雪女もお出ましやな。ったく、鬱陶しい。だいたいあいつら、瀬戸内やなく雪国の妖やろが」


 珍しくテツが乱暴に吐き捨てている。それだけ祖父を心配しているのだろう。

 こうなってしまえばうかつにバスの外へは出られない。遮蔽物でもないかぎり、遊び半分で雪ん子が投げている氷の玉の餌食になってしまう。

 力が抜けた千鳥はそのまま床へとへたり込んだ。


「龍の神さまが目覚めそうになっているってこと、なんだよね」


 花純とテツは黙ったままで答えてくれない。

 それでも構わずに千鳥は続ける。


「やっぱり、わたしがちゃんと歌えなかったせいなのかな」


 現実を一変させてしまった異様な光景が、もしも自分の心の弱さのせいだとしたら、いったいどのようにして償わなければならないのだろうか。

 途方もない後悔の念に絡めとられてしまいそうになり、千鳥は唇をぎゅっと噛む。

 ただし今度は花純が明確に答えてくれた。


「ちーちゃん、それは違う。来るべき時がすぐそこまでやってきているだけよ」


 すでに車内にも冷たい空気が満ちてきている。

 夏の格好をしている千鳥たちにとって、凍てつくような寒さは耐えがたい。


「待っとってもあかんな、これは」


 そこからテツの動きは素早かった。

 清三を背負い、ユニフォーム着用の際に使用していたベルトを二本、左腕と右足にきつく巻く。もちろん清三ごと固定するためだ。


「おれは出るで、花純さん。やっぱり灯台を探す以外に道はないやろ。このままやとじーちゃんが凍死してまう」


「灯台はこの道路の先、港の突端に赤いモダンなのが立っているよ。でも」


「そんだけわかったら充分や。妖どもの真ん中を突っ切っていくわ」


 痺れを切らしたテツが決意を語る一方で、花純は険しい顔つきのまま何かを言おうとしてやめてしまった。

 そのことに気づいていないテツがスポーツバッグを胸の前に抱える。


「こいつが盾代わりや。あのクソガキどもの氷も全部防いだるっちゅーねん」


「だめだよ。そんなの危ないよ」


 思わず千鳥が口を挿むも、テツは「大丈夫や」と繰り返すだけだ。


「ここにおってもじり貧やろ。二人もおれについてきた方がええと思う」


 でも無理強いはせえへんよ、と言葉を残し、再びドアを開く。

 清三を背負ったまま外へ出たテツへ、案の定氷の玉が投げつけられてきた。しかしそこはさすがに将来を嘱望されていた野球部のエース、難なく見切ってバッグで受ける。


「へっ、こんなもんかい。妖どもも大したことないやんけ」


 テツの歩みは止まらない。凍結している道路を一歩ずつ、しかし確実に前進する。

 しかしそのことが雪ん子たちの癪に障ったのか、氷の玉で狙われる間隔がどんどん詰まってきた。おまけに違う方向からも同時に飛んでくるようになる。

 さすがにテツのとっさの反応は素晴らしく、まだダメージは喰らっていない。

 だがこのままでは時間の問題だ。彼の体力が限界を迎えてしまえば、それこそ集中砲火さながらに氷の玉を全身にぶつけられてしまうだろう。あんなものが頭部にでも直撃すれば命の保証などないはずだ。


「テツくん……無事でいて。わたしには何もできない」


 祈りながら己の無力さを嘆いてみても、圧倒的に体力で劣る千鳥にはどうすることもできなかった。体力だけでなくテツのような根性も決断力もない。突拍子もなく悪意が降りかかってくる〈龍の夢〉を生き抜くのに必要なものを、彼女は何一つとして持ち合わせていなかった。

 そんなとき、千鳥の肩に優しく手が置かれる。


「歌おう、ちーちゃん」


 花純からの提案は唐突だった。


「覚えてるかな? 壱ノ木島に伝わってる桃太郎の話」


「あの、鬼を改心させた、て話だよね」


「そう。大事なのは、鬼を改心させたのは桃太郎の力じゃなく歌だったってこと」


 花純は真っ直ぐに千鳥の目を見つめてくる。


「つまり、歌には邪気を払う力があるって、花純さんはそう考えてるの?」


「絶対の確信はないよ。でもね、あの島に無意味な言い伝えは残っていないはずだとも思うの。これまで代々の守人が受け継いできた、大切な情報なんだってあたしは信じてる」


 外に広がっている明るい夜の世界では、どんどん雪が積もりはじめていた。

〈龍の夢〉が容赦なく現実の理を書き換えていく。あとどれほども経たない内に、高松の街は雪と氷によって閉ざされてしまうのだろう。

 不安、緊張、恐怖、今にも千鳥の心は押し潰されそうだ。五里霧中のような状況で、手探りのまま自分の生き方を決めなければならなかった。

 歌によって苦境を打破できるかもしれないのであれば、ここは確かに千鳥の出番だ。

 本当はわかっていた。歌うことを止めてしまえば、自分には何もなくなって抜け殻のようになってしまうことくらい、ちゃんとわかっている。

 クラスで笑いものにされて、恥ずかしいから逃げてきた。本当にそうか?

 恥ずかしかったのではなく、悔しかったんじゃないのか?

 自分たちの歌をきちんと聴こうとしなかった人たちがいたことに、その人たちの心を歌で揺らせなかったことに。


 別の感情が千鳥の中に沸き起こってくる。初めはそれを怒りだと思った。でもどこか違う。怒りのような強すぎる感情は歌を濁らせてしまうのだが、直感で理解したのだ。これは自分に必要な感情なのだと。

 届け、届け、届け。響け、響け、響け。

 名前を付けられないでいる心の中の大きな感情に身を任せ、全身を昂らせた。

 千鳥は強く望む。どこまでも果てしなく、自分の歌を響かせたいと。

 幸い、真冬のごとき〈龍の夢〉にもきちんと聴衆はいてくれる。

 黙って耳を傾けろ、妖たち。

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