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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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泥だらけの小さな栄光

「あいつら、自分たちだけで高松に行っちゃってさ」


 壱ノ木島を出発するときから、今日もオーバーオール姿の花純の文句は何度もループしている。小さなボールらしきものをいじりながらだ。


「あたしだってたまには街でぶらぶらしたいのに。声くらい掛けろっての。ちーちゃんもそう思わない?」


「うん。誘ってくれればよかったのにね」


「といっても事情はだいたい察しがつくんだけどさ。テツには草野球へ連れていくってこと、内緒にしてたみたいだから」


 テツたちから一本遅れの船に乗り、千鳥と花純は高松港に降り立った。

 狸の茶がまもこっそり乗船していたのだが、「いったん屋島に帰らんと」ということで先ほどお別れをしている。茶がま曰く、また戻ってくるつもりらしい。

 港から場所を変え、日本一長いというアーケード商店街へと二人はやってきていた。まだ早い時間とあってほとんどの店舗は開店前だ。

 目的など特に持たず、他愛ない会話をしながら歩く。

 けれどもこれは花純の気遣いではないか、と千鳥は勝手に心中を推測していた。

 事実、千鳥の心は沈んでいる。昨日のよりにもよって神事の場で、自身の弱さのせいで最後まで歌い切れなかったショックはなかなか払拭できるものではない。

 だからとって態度へ出すわけにはいかなかった。花純やテツたちが心配するからこそ、そこに甘えてばかりはいられない。

 意識して微笑を作り、花純へと提案する。


「じゃあ今度、花純さんが東京へ遊びに来る?」


 しかし花純はなぜか顔をしかめるという、予想外の反応を見せた。


「東京か……。確かに若い頃は楽しかったし、あそこでしか得られないものもあったなって思うよ。でもさ、ああいう大都会はもうしんどいのよ……。気力も体力も追いつかなくなっちゃって」


 高松くらいの地方都市がちょうどいいんだってば、と力説する。

 ただ今度は千鳥の方が首をひねる番だった。


「花純さん、まだ三十二歳だよね。綺麗だし充分若いと思うけど」


「今どきの子は大人顔負けだなあ。お世辞でもありがとね」


「お世辞じゃないって。本当にそう思うんだもん」


「こいつぅ、愛いやつめ」


 うれしそうに花純が肘でつついてきた。結構痛い。


「よーし、久々に可愛い服でも買っちゃおっかなー」


 それまではどこかでお茶でもしようかね、と彼女は言う。

 もちろん千鳥としてはその提案に乗ってもよかった。ただ、右も左もわからない高松の地で、彼女には一つだけ行ってみたい場所がある。

 精いっぱいの勇気を振り絞って、千鳥は花純と目を合わせた。


「あの、後でテツくんの試合も観に行っていいかな」


「テツの?」


 ふむ、と花純は顎に手をやった姿勢で真剣な表情を見せる。


「船はあいつらの一本遅れだし、球場があるのはバスしか通っていない郊外。時間の余裕なんてほぼないよ」


「じゃあ、やっぱり……」


 小さくなっていった千鳥の声に被せるように、花純が明るく告げてきた。


「だからさ、早く行ってあげなきゃね」


     ◇


 平玄寺テンプルズのメンバーは、年齢も職業もバラバラだった。

 お寺に関係している人たちで構成されたチームというのは事実のようで、大工に石工、和紙職人に蝋燭職人、和菓子職人に杜氏までいる。

 チームをまとめる有徳だけでなく、みんながテツに対して気さくに接してくれた。まだ名前と顔が一致しないくらいの他人だからこそ、彼らの優しさがじんわりと心に沁みた。

 だからユニフォーム姿のテツも、ベンチで必死に声を出す。


「いいっすよー、ナイッセンナイッセン! しっかりボール見ていきましょー」


 味方打者が際どいコースの球を見送り、ボールと判定されただけでも全力で盛り上げていく。頑張ってテンプルズの一員であろうとした。

 思い返せば、これまでにテツはベンチでそういう振る舞いをしてこなかった。

 味方の攻撃の時間は投手の休憩時間、とばかりにふんぞり返っていた記憶しかない。たとえ他の投手が投げていたとしても、である。そんな選手に野球の神が微笑むもんか、と今なら言える。

 気づくのが遅すぎた。投げるアホウに打つアホウ、守るやつらもみなアホウ。しかし試合に出場していないメンバーも、そんなアホウどもと同じだけの熱を込めて声を出してくれていたのだ。

 だが、気づかずにいるよりはよほどマシだ。


「あーっ、惜しい! いい感じだったんで次の打席で捉えられますよー!」


 見どころなく凡打に終わった打者へも、ポジティブに声援を送る。

 そのうちに回は六回裏となった。

 今回の試合はレギュレーションにより、一時間半までと規定されている。間もなく時間いっぱいとなるため、このイニングをもってゲームセットとなるだろう。

 六回裏の攻撃は平玄寺テンプルズ。スコアは2―3、1点のビハインドだ。

 相手のエラーによって先頭打者が出塁し、同点のランナーとなる。

 次の打者はぼてぼてのキャッチャーゴロだったが、上手い具合に送りバントのような形となって一死二塁。

 続くバッターも弱いセカンドゴロ、ランナーは進んで二死三塁。


「相手のピッチャー、まだまだ球威があるなあ」


 テツは小声で唸る。たかが草野球と侮るなかれ、おそらくは大学か社会人、もしかしたら独立リーグあたりで投げていた選手ではないだろうか。

 テンプルズが2点も取れたのは相手方の守乱によってである。打線は力負けしており、タイムリーヒットはまだ出ていない。

 ここで打順が回ってきたのは清三だった。この日は二打数ノーヒット、いずれの打席も三振に終わっている。


「おーい、テツぅ」


 ぞんざいに金属バットの先端を持ち、清三が呼んでいた。


「何や、アドバイスか? そんなんボールに当たればもうけもん、とにかく思い切って振るだけ──」


「おまえ、代打いけ」


 テツの言葉を遮って祖父は言う。


「わしも年やけんの。体がちいとえらいわ」


「んなこといきなり言われたって、おれはもう野球は」


「知っとる。ボールを投げんかったらプレーできるんやろ」


 その通りだった。

 マウンドで投手として立つことにこだわっていたテツは、いろいろな選択肢を考えてみようともしなかった。

 投手として復活するためのトミージョン手術を避け、野手になる道も選ばず、けじめさえつけずに宝丞学園野球部からただ逃げ出したのだ。


「ほれ、急がんかい。相手も待っとる」


 清三が問答無用でバットのグリップエンドを押しつけてくる。

 思わずテツは監督兼主将の有徳を見た。


「さあ、いい場面だ。テツくんに託すよ」


 満面の笑みを浮かべ、有徳は鼓舞するように手を叩いている。

 他のメンバーからも口々に声を掛けられた。


「打てよテツ! 場外までかっ飛ばしたれ!」


「今日一番の盛り上がる場面や、遠慮はいらんで」


「やばい、こっちが緊張してきたわ。胃が無事なうちにさくっと決めたってや」


 ついさっき会ったばかりの人たちがこんなにも応援してくれる機会など、野球をやっていなければなかなか経験できなかったに違いない。

 清三からバットとヘルメットを受け取り、呼吸を整える。


「行ってくるわ」


「おう」


 短いやりとりだけで充分だった。

 ヘルメットを目深にかぶり、テツは右打席へ向かう。

 もう何年もグラウンドから離れていたような気がしていたが、いざバッターボックスに立って土を踏みしめてみればそんな感覚は吹き飛んでしまった。

 テツの全身に喜びがあふれる。まぎれもなく、野球ができる喜びだ。

 球審による「プレイボール」の声でバットを構えた。

 相手ピッチャーは三塁ランナーの様子を気にしつつ、テツへの第一球を投じる。糸を引くような外角へのストレート。コールはストライクだ。

 キャッチャーからの返球を受け、すぐさま第二球も投げ込んできた。テンポを上げて狙い球を絞らせないつもりなのかもしれない。

 今度も外角への配球だが、球種はスライダー。

 バットが出かかるも、テツは見た。際どいコースだったが判定はボール。

 続く三球目、一転して内角への速いストレートが来る。

 何も考えることなく、テツの体はこの直球に反応した。

 バッティング練習などほとんどやってこなかったのもあるだろう、真芯を外した上に少し差し込まれてしまう。


「んがっ」


 だが意地で最後まで振り抜いた。

 そのおかげで打球はセカンドの頭上を越え、同点のタイムリーヒットとなる。

 平玄寺テンプルズが陣取る三塁側ベンチからお祭り騒ぎのような歓声が上がり、一塁ベース上にいるテツの耳にも届いた。

 ただ、あくまでまだ追いついただけだ。勝ちにいかなくては。

 そう考えるテツはリードを広くとり、次打者の初球でいきなり盗塁を敢行した。捕手からの返球がわずかに横へ逸れて判定はセーフ。

 もはや流れは完全に平玄寺テンプルズのものだった。

 盗塁成功の直後、次打者が二球目を強振する。

 当たり損ないとなってふらふらと上がったフライだが、センターとレフト、それにショートの真ん中へ落ちた。ツキも実力のうち、だ。

 二死だったため、テツは猛然とスタートを切っていた。打球の行方を横目で確認し、速度を落とさず三塁を蹴ってそのまま本塁生還を狙う。

 ポテンヒットを捕球したセンターが必死のバックホームを試みる。ワンバウンドでの素晴らしい返球だ。

 キャッチャーの捕球の方がわずかに早い。テツはタッチをかいくぐるようにして本塁へ頭から滑り込み、左手の指先でホームベースの縁をわずかにかすめる。

 球審の目はその瞬間をきちんと捉えていた。


「セーフ!」


 それからサヨナラ勝ちによる試合の終了を宣告したのだが、平玄寺テンプルズの選手たちはコールよりも早く飛びだしてきていた。

 もちろん勝利の輪の中心にいたのはテツである。

 年上のチームメイトたちから手荒い歓迎を受け、もみくちゃにされつつ挨拶のために整列へ向かおうとしていた、そのときだった。

 バックネット裏にいる、千鳥と花純の姿が視界に入ったのだ。

 相手チームと審判団への礼を済ませ、テツは二人の下へと駆け寄っていく。

 金網越しに花純が言った。


「まるで甲子園で優勝したみたいな大騒ぎだね」


「どんな試合でも、勝ちたいのはみんな一緒やから」


 先ほどの挨拶の際に脱いだヘルメットを脇に抱え、テツは答える。


「応援してくれとったんやな。ありがとさん」


「すごいすごい、テツくんすっごい速かった!」


 意外にも千鳥が興奮気味に感想を伝えてくれた。

 テツとしてはちょっと照れくさく、「そうか?」とだけ口にする。

 元気をなくしていてもおかしくない彼女が、これだけ喜んでくれているのなら高松までやってきた甲斐もあったというものだ。

 そんな二人を眺めていた花純の表情はやけに穏やかだった。


「あーあ、あんたのユニフォーム、すっかり泥んこじゃん」


「ヘッスラのせいで盛大に汚したなあ。すぐ着替えてくるから堪えてや」


「でもまあ、よく似合ってるよ」


 くるりと体の向きを変え、流し目で彼女はそう告げる。

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