切っても切れぬは野球の縁
千鳥の涙とともに終わった儀式の翌日、テツと清三は高松行きの船上にいた。早朝の便であり、通学や通勤で利用している人の姿も多い。
そんな中、二人揃ってデッキの上で風に吹かれている。
「自分じゃのうて、他人が運転しとる船っちゅうんも落ち着かんもんやの」
「へっ、大きい船の方が胃に優しいわ」
テツの中で、祖父の漁船で内臓まで揺らされまくった記憶は鮮明だ。できれば二度と経験したくはない。
逆に長年漁師をやってきた清三からすれば、小規模の旅客船といえど半ば陸地も同然なのだろう。
ラージサイズのボストンバッグを床に置き、心地よさそうに目を細めている祖父へテツは訊ねてみた。
「にしても、そんな大きな荷物持って高松まで何しに行くんや」
「そらおまえ、着いてからのお楽しみってやつじゃ」
「ふーん。まあ大事な用やから付き合えって言われたら、こっちも断るわけにはいかんしな。別に構わんのやけど」
口ではそう言いつつも、テツは千鳥が気がかりだった。
ただ、ことはセンシティブだ。そしてテツはがさつな人間である。
花純からも「千鳥のことはあたしに任せて」と言われており、しばらくは静観するしかない。もちろん声が掛かればすぐに出向くつもりだ。
それに〈龍の夢〉についても忘れてはいない。はたしてあの祈りの儀式で、再び深い眠りについてくれたのかどうか。
「あ。高松行くんやったら一つ、寄りたいところがあるわ」
テツからの要望は想定していなかったのか、清三が怪訝そうな表情を浮かべた。
「何や、あんまり遠い場所は無理やけんの」
「街中やし、時間はたぶん大丈夫やと思うで」
そう言ってテツは腕時計を見た。
現在の時刻は午前七時三十分、もうすぐ高松港に到着する。
◇
テツが希望してやってきたのは、高松市中央公園の一角である。
「ここやここ」
テツと清三、二人の前には同じ台座に銅像が二体並んでいた。三原脩と水原茂、同郷でありライバル関係であり、戦後の日本プロ野球界を監督として支えた二人だ。
「高松に来たら、まずここで拝んどかなあかんやろ」
「神社でも寺でもないけどの」
清三からの突っ込みも気にせず、テツはそのまま手を合わせて目を閉じる。
宝丞学園から逃げてきたくせに、いまだ野球への未練を断ち切れない自分にはうんざりさせられるが、だからといって嫌いになれるはずもなかった。これまでテツが生きてきた十六年近い月日のほとんどは野球によってできているのだから。
野球というスポーツへの感謝を先人に伝え、テツは目を開けた。
「他にも拝んでおきたい銅像はあるんよな。伊勢の沢村栄治とか、仙台のベーブ・ルースとか」
「何でベーブ・ルースの銅像がそこにあるんじゃ。ニューヨークと間違えとるぞ」
「日米野球で来日してたらしいで。最初のホームランを放った、その落下地点に銅像を建てたって話や」
テツの説明に、清三も「なるほど」と頷く。
「ちゃんと縁があるんやな。まあこの場所も、昔は高松市の中央球場やった。無くなったんは……そうやな、かれこれ四十年以上も前になるんか」
「らしいな」
現在のスタジアムは高松市郊外に移転しているが、三原脩と水原茂の銅像がかつての球場跡地にあることはテツも知っていた。
「香子……おまえのばーさんやな、高校のときにあいつと二人で野球部の応援しとったわ。夏の大会は三年間で一度しか勝てんかったけどの」
「ああいうのって、学校で揃って応援せんとあかんかったんちゃう?」
「そんなもんおまえ、別行動じゃ。二人で抜け出したに決まっとる」
十代の行動なんて今も昔も変わりはない。他ならぬ祖父がそう教えてくれて、何となくテツはこの場所に当時の息吹を感じた。
◇
寄り道を済ませたテツは、清三に促されるまま郊外行きのバスに乗った。
高松市の地理などほとんどわからないため、ぼんやりと考え事をしていたらいつの間にかうたた寝をしていたようだ。
「起きろ、テツ。もう着くぞ」
隣に座る祖父から乱暴に揺さぶられ、目を覚ます。
降車した彼は、自分がどこに連れてこられたのかすぐに理解した。だだっ広く様々な施設が集まっている運動公園だ。
「こっちじゃ」
祖父の意図を訝しみながらも、言われるがままについていく。
迷いのない清三の足取りの先に見えてきたのは土のグラウンドにスコアボード、左右に分かれた二つのベンチにマウンドだ。もう間違えようがない。
テツの慣れ親しんだ場所、野球場である。
「おい、じーちゃん」
清三の背中に向かって抗議の声を上げた。
「おれはもう、野球は……」
やるつもりはない、と言い切ろうとして、できなかった。
そんな自分の情けなさにテツが辟易していると、清三が顔だけを向けてくる。
「勘違いしとるようやが、プレーするんはおまえやないぞ。わしじゃ」
「はあ? 柔道しかしたことないくせに?」
「舐めとんか。警察おった頃からちょいちょいやっとる」
スラッガーと呼ばれて四番が定位置やったけん、と清三は言う。
孫の立場としては、そんなすぐにばれるような嘘を祖父についてほしくはなかった。柔道で現役を引退した後も、自身の稽古や後進の指導のため、足しげく道場へ通っていたことくらいちゃんと知っているのだ。
「ほれ、あっちにおるんが今日の仲間や。ちゃんと挨拶せえよ」
清三が指差した三塁側ベンチ付近に、阪神タイガースを模したようなストライプのユニフォームに身を包んでいる一団がいた。
「平玄寺テンプルズゆうてな、お寺の関係者で結成したチームなんや」
なるほど、キャップのロゴまでTとHになっている。
しかし寺関係のチームだと聞かされて、テツには別の疑問が浮かんだ。
「ええの? おれら、どっちかといや神社の関係者に近いんやないか」
歩きつつ、小声で清三に訊ねる。テツの頭にあったのは、瀬戸内海の龍をより深く眠らせるために執り行った昨日の儀式だ。
祖父は「問題ない」と即答だった。
「昔から日本には本地垂迹説ゆうんがあってやな」
「ほん……ほん……何て?」
「神仏習合思想の一つやと教えてもらったんやが、細かいところはようわからん。要するに神も仏も一緒っちゅうこっちゃ」
詳しく知りたかったらあいつに聞け、と言って清三が手を上げた。
「おうい、有徳」
その呼びかけに反応したのは、非常にふくよかな体型の選手だ。背番号は2、見た目通りのポジションである。
やあやあ戎、と手を振り返しながら有徳なる男が近づいてきた。
祖父の清三にしては珍しく、気安い態度で有徳と肩を組む。
「さっき公園で言うた夏の貴重な一勝はな、主将だったこいつのサヨナラホームランで決めたんじゃ。ええとこ持っていく男での」
「ホームランなんて練習試合でも打ったことがなかったからねえ。いまだにベースを踏み忘れた夢を見るくらい、ダイヤモンドを一周するときは緊張したなあ」
どうやら二人は高校の同級生のようだ。
「親父さんの跡を継いで、平玄寺の住職を務めとるんやが、大学のときは本地垂迹説を卒論のテーマにしとったよな」
「昔のことをよく覚えてるねえ、戎は」
「わはは、まだ記憶力は衰えとらんぞ」
六十の半ばを過ぎていても、旧友と会えば一気に時を遡れるらしい。
そんな二人の関係を少し羨ましく思えたテツは、神や仏についてよりも昔の祖父のエピソードをいろいろ聞いてみたくなった。
にこにこと人好きのする笑みを浮かべている有徳がこちらへと向き直る。
「改めてよろしく、テツくん。ぼくは清三さんと高校の頃からの仲だし、他のみんなも彼とは年齢に関係なく呑み友達なんだ。だから今日は何の気兼ねもせず、楽しんでいってくれたらうれしい」
「どうも、中辻徹大っす。よろしくお願いします」
他人と話したのは久々のような気がして、テツはぎこちなくお辞儀をした。
そうやって下げた頭を清三がぐりぐりと撫でてくる。
「応援用におまえのユニフォームとスパイクもちゃんと用意しとるけんの」
残念ながら背番号18や、とプロ野球におけるエースナンバーを口にして。




