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せとうちに眠る龍の夢  作者: 遊佐東吾


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13/19

歌っておくれ、千鳥

 千鳥には何もかもピンと来ていなかった。

 叔母の花純が壱ノ木島の守人という役を務めていることも、彼女の恩人である南沢里紗が先代の守人であることも、龍という超越的な存在も、龍と瀬戸内海がイコールであることも、何もかもだ。

 神事を取り仕切るのは花純の役目だったが、そもそも彼女は神職ではない。何年も前から現代アートの方面で活躍している芸術家である。

「ぐだぐだになっちゃわないかな」と危惧していても、当然口には出さない。


 しかし千鳥の予想に反して、万事滞りなく進んでいった。

 これまで彼女が神事に参加したのは七五三のときの二回だけだ。なので特に比較対象があるわけではないのだが、それでも花純の宮司ぶりは堂に入っていた。

 背筋が綺麗に伸び、朗々とした声で祝詞を唱えている。威厳さえ漂わせていた。その姿を目の当たりにすれば、誰だって花純を本物の神職だと認めるだろう。

「今度、パパに教えてあげないと」と心の中で呟く。

 テツや清三は手を合わせて目を瞑り、真剣に祈りを捧げていた。狸の茶がまでさえ床にお尻をつけた姿勢でおとなしく耳を傾けている。

 どこか集中できていないのは千鳥だけかもしれなかった。


 長い祝詞を終え、花純が「一同、礼」と合図をすれば、テツと清三は深々と海に向かって頭を下げる。慌てて千鳥も二人にならった。

 ようやく神事も終わったらしい。そう考えて肩の力を抜いた千鳥だったが、足元の方でちょこまかと茶がまが動いていた。

 茶がまは花純へと近づいていき、後ろ足だけで立ちながら訊ねる。


「なあなあ、ほんとにこんなんで龍がまた寝てくれるん?」


「うっ。茶がまちゃん、曇りなき(まなこ)ね」


 思わず、といった様子で花純が目を逸らしてしまう。


「まあ、あくまでこれは龍の神さまへの、わしらからの密やかな祈りや。願いごとゆうた方がええかもな」


 すかさず清三からのフォローが入った。

 けれどもまだ茶がまには納得がいかないようだ。


「うーん、ぼくにはようわからん。もっとばしっと伝えられんの?」


 一理ある。神、と形容される存在のことは千鳥にはよくわからないが、祈りという行為は不確かで、結局はどこにも届かないんじゃないかって思いが拭えない。

 誰かの切実な願いがそのまま大気に拡散し、見えなくなるほど小さな粒になってしまって程なく消えていく。それが祈りだとしたら、あまりに哀しい。


「せやったら、歌はどうやろか」


 ここまで声を上げず、何かを考え込んでいる風だったテツの唐突な提案だった。

 それから彼は真っ直ぐに千鳥を見つめてきた。とてもじゃないが、逃げてこの島へやってきた人の目だとは信じられないほどの力強さだ。


「なあ千鳥。もしいけそうやったら、この場で歌ってみーひん?」


「ちょっとテツ、それは」


 すぐに花純が制止しようとするも、テツは大きく分厚い手のひらを広げて「大丈夫や」と応じた。


「この間二人で話したときに、おれもある程度事情は聞いとるから」


 そして「ひい、ふう、みい」と指を折っていく。


「今ここにおるんは、おれにじーちゃん、それに花純さんだけや。他の誰も気にせんでええ。気楽なもんやろ?」


 しかしこのカウントに対しては猛烈な異議申し立てがなされてしまう。省かれてしまっていた茶がまだ。


「おいテツ! ぼくもおるで!」


「すまんすまん。あと、海そのものやっちゅう龍の神さまもやな」


 にっ、と笑って彼は言う。


「もちろん無理強いはせえへんよ。大事なんは自分の気持ちやしな」


 鷹揚で前向きなテツに触発されたのか、花純も少し間を開けてから「あのね、ちーちゃん」と切り出した。


「さっきは簡単に流したんだけど、実はこの島に伝わる桃太郎伝説ってちょっと変わっててね。戦って鬼を屈服させたんじゃなく、歌で改心させたんだって」


「すごいな桃太郎。どんな美声の持ち主やったんやろ」


「そうね、たしかに気になるよね。でもあたしは、こんな遠くの未来にまで伝聞が残っている桃太郎の歌よりも、今を生きているちーちゃんの歌を聴きたいな」


 花純の真剣な表情を見れば、軽い気持ちで口にしているわけではないことくらい一目でわかる。いつだって彼女は千鳥の味方だ。

 歌ってみたい、と千鳥の心は揺れた。

 龍の神への祈り云々は一切抜きにして、眼前に広がる瀬戸内の風景の中に、自分の歌声を響かせてみたかった。


「──やる。歌ってみる」


「ええ根性や」


 テツが親指を立ててきたのだが、こういうときはどう答えればいいのか千鳥にはわからず、そのまま小さく頷くだけに留めておいた。

 全員の立ち位置が変わる。

 先ほどまで花純が立っていた場所には千鳥が陣取り、瀬戸内海に正対する格好となった。彼女の後ろには少し離れてテツ、清三、花純、茶がまと並び、静かに歌の始まりを待っている。

 何を歌うかは決めていた。つい最近まで練習していた「浜辺の歌」だ。

 小学校で所属している合唱クラブが、NHK全国学校音楽コンクール──通称Nコンと呼ばれている──へ参加するにあたって自由曲として選んだ歌である。

 顎を軽く引き、足は肩幅ほどに開く。思っていたほどの緊張感はなく、適度にリラックスしたいい状態だ。これならきっと歌える。

 腹で呼吸をし、声が通りやすいように息を束ねた千鳥は意を決して歌いだした。


 ♪あした浜辺を さまよえば

 昔のことぞ 忍ばるる


 まずは最初の一音がきちんと出てくれた。

 しばらく練習をさぼっていたのに、体はきちんと声の出し方を覚えてくれている。ありがたさと申し訳なさが心に滲みでてくるが、今は不要だ。


 ♪風の音よ 雲のさまよ

  寄する波も 貝の色も


 順調すぎるくらい順調にここまでは来ている。

 自分は大丈夫なんだ、そう思えた。


 ♪ゆうべ浜辺を もとおれば

  昔の人ぞ 忍ばるる


 けれどもここで千鳥に異変が起こる。

 ひたすら目の前の景色に気持ちを集中させ、何も思い出さないようにしていたはずだったのに、壱ノ木島へ逃げてくるきっかけとなった出来事が不意に彼女の脳裏へ浮かんできたのだ。

 笑いものにされてしまった、辛くて恥ずかしい記憶が。


     ◇


 Nコンの東京都予選は八月上旬に開催される。

 そのため一学期の終わりがけに、体育館での朝礼の際に全校生徒の前で合唱を披露する機会が設けられた。

 千鳥が所属する小学校の合唱クラブは、別に都内有数の強豪だとかそういった位置付けではない。銀賞には手が届くかもしれないが、さすがに金賞は難しい。

 それでもクラブにおいて、千鳥は独唱パートを任せられるほどに力量を認められていた。引っ込み思案で要領もいいとはいえない彼女にとって、他者へ誇れるほとんど唯一のものだったのだ。

 全校生徒の前での合唱でも、千鳥は見事に歌い切った。クラブ全体としても申し分のない出来である。


「もしかしたら、Nコンで初めての金賞を狙えるかもしれない」


 廊下を歩く彼女の顔はほんのりと上気している。

 まだステージ上で歌った余韻を引きずりながら、ランドセルを両手で抱えて教室を目指していた。合唱クラブは朝早めの集合だったため、まだ自分のクラスへは立ち寄っていなかったのだ。

 六年二組の教室の、後方の扉は少しだけ開いていた。まだ担任の先生はやってきておらず、「どうにか遅刻扱いにならずに済みそうだな」と千鳥が安堵していたその時だった。


「あれ、変な声だったよな。特に伊庭がさ。笑いをこらえるのに苦労したぜ」


 教室の中から声が聞こえてきた。

 声の主が誰なのか、千鳥にはすぐにわかった。

 真霜というクラスの中心的存在の男子で、他の女子と同様、千鳥もほのかな想いを寄せていた少年だったから。

 周囲にいるらしい彼の取り巻きも同調する。


「なー。揃いも揃って地味なやつらが、必死に頑張って笑わせにきてたもんな」


「ほえー、ほえー、こんな感じ?」


「裏声うざっ」


 タイミングが微妙にずれた笑いの声が上がる。同期できていないしするつもりもないであろうそのずれを、千鳥は心の底から気持ち悪いと思った。


「ちょっとぉ、やめなよ男子ぃ」


 注意している女子もいるが、本気じゃないのは声に滲みでている。千鳥にもよく話し掛けてくる成績の優秀な子だ。

 廊下と教室とを隔てる扉は、千鳥にとっての境界線だった。

 彼女はその線を踏み越えられずに学校を後にする。以来、一学期の終業式を迎えるまで登校することはなかった。

 学校を休み、合唱クラブの練習を休み、自分の部屋からもなかなか出ようとせず両親を困らせてしまった。

 そんな千鳥がたどり着いた先は、東京のずっとずっと西、瀬戸内海にぽつんと浮かぶ壱ノ木島。叔母の花純はいつだって優しくしてくれて、テツという年上の男の子の友達もできた。狸の茶がまも友達だ。

 なのに彼女はまた期待に応えることができず、あれほど好きだった歌がどこにも届かずに消えていくのを空しく眺めている。


     ◇


 千鳥の目からはみるみるうちに涙が溢れてきた。両手の甲で代わる代わる拭っても、どうにも止まってくれない。

 止んだのは歌声だけだ。

 もうどうしようもなくなって、彼女はしゃがみこんでしまう。


「ごめん千鳥、ほんまにごめん!」


 おれが考えなしやった、とテツが駆け寄ってきた。

 同時に、後ろからゆっくりと抱き締められる。巻きつくようにして千鳥の体に触れているのは、やっぱり花純の両腕だった。


「ごめんなさい、ちゃんと歌えなくてごめんなさい」


 泣きじゃくりながら千鳥は謝り続けた。何度も何度も。

 花純が黙って髪を撫でてくれている。テツは隣にかがんでタオルを差し出してくれた。こんな優しい人たちの期待に応えられなかったことが、千鳥にとってはただただ悔しい。

 しかし狸の茶がまは可愛らしく首を傾げていた。


「なあなあ千鳥、なんで最後まで歌ってくれんの? ぼく、千鳥のきれいな声をずっと聴いときたかったのに」


 この言葉に清三も「同感や」と口にする。


「龍の神さんもきっと聴き惚れとったやろ」


 本当にそうであったなら、千鳥はどれほど救われるだろうか。

 けれども彼女自身が「きっとそんなはずない」と否定し、己を低く見積もっている。他の誰かへ届く歌など、自分には歌えないのだと。

今回登場させた「浜辺の歌」については、すでに著作権が切れております。

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