第九節 天下の大都市"マゴラト"
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その夜のうちに、オルペスの台帳は倉庫へ戻った。
大人たちの取引がどう転んだのか、ティコは知らない。だが夜明け前、ガルナが片腕で箱を抱え、ティコが夜警の目を避ける道を示した。来たときと同じ高い窓からだ。
外した格子は元通りに嵌め、浮かせた釘はガルナの太い指が一本ずつ静かに押し戻した。──盗んだ者がいちばんうまく戻せる。港のねずみの知恵と、大鬼人の膂力。奇妙な取り合わせは、二度目もうまく噛み合った。
夜明け。
タルペア家の者が、私兵を引き連れて倉庫を検めたそうだ。商品は全て元の場所にあったという。――「盗まれた」と騒いだ夜警と番頭は、荷の数え違いを叱責され、解雇されたらしい。
『カンパニアが、"タルペア家の商品"を盗んだ』という噂は、昼を待たずに立ち消えた。誰が流したのかも分からぬまま、誰が消したのかも分からぬまま。──だが、ティコは知っていた。情報を商いとする例の老翁が、あの暗い部屋で糸を引いたのだろう。
その日の夕暮れ、港のはずれで、クレアがフェリオを引き渡した。
フェリオは痩せて憔悴していたが、生きていた。無事だった。
「ティコ」とフェリオは掠れた声で言った。「お前……なんで……忘れろって、言ったのに……」
「兄貴」とティコはフェリオの痩せた肩を掴んだ。「港のねずみは、"家族"を見捨てねえ。──あんたが俺にそう教えたんだろ」
フェリオは何か言おうとして、言葉に詰まった。
そして、涙を流した。
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すべては、元の静けさに戻った。
リウィア・タルペアはオルペスの命綱を握ったと信じたまま、自分の倉庫の奥に紙の束を眠らせている。世界一の大富豪が知らない真実を、臭い区画の浮浪児が知っているのは皮肉なことだ。
カンパニア家は無事だった。嫌われ者の金貸しは、また都市の底で人々に金を貸し、憎まれながら生き続けた。
だが、クィントは、以前より少しだけ、臭い区画の子供たちに低い利率で小銭を貸すようになった。──『綺麗な金で返すんだぞ』と彼は言った。
呪い師のヴェスクは、また香草と乾物の店の奥に引っ込んだ。
始末屋のクレアを、ティコは二度と見なかった。
ティコは約束どおり、カルを含めた二十人の子供に、次のいい荷運びの口を回した。カルは荷賃より一連の話をせがんだが、ティコは笑って首を振った。──話せないことが多すぎた。
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その夜、ティコは桟橋の杭の上に座って湾を眺めていた。
無数の星がフレトゥム海の水面に映って揺れ、潮目のあたりに漁火がいくつか灯っていた。今日も潮を読む古い漁師の家系が、闇の中の魚を追っているのだろう。
フェリオが、隣に座った。
「ティコ」とフェリオは静かに言った。「俺、一度は冒険者を辞めようかと思った」
ティコは彼を見た。
「上に行けば、何かが変わると思ってたんだ。港の底から這い上がれば、まっとうな暮らしができると。──だが、上には上の、もっと汚れた網があった。俺はその網の、いちばん小さな駒として使われてさ。……本当に、怖かったよ」
「でもよ、兄貴」とティコは言った。「上の道が汚れてるからって、下の道がきれいなわけじゃねえ。ここだって十分汚れてる。慣れるまでに三年かかる"貝紫"の臭いも、日に日に強くなってる。──この都市は、どこに行っても汚えし臭えんだと思うよ」
フェリオは笑った。だが、乾いたような笑いではなかった。
「俺も同じことを思ったよ」と彼は言った。「……だから、続けることにした。網がどれだけ汚れてるか知らねえで歩くより、知ってて歩くほうがいい。それに──今度、元老の使いが路地で待ち伏せてやがった時の断り方も覚えたしな」
「へえ?どんなの?」
「弟分に言いつけるぞ、だ」とフェリオは言った。「うちの弟分は、元老と取引した男だからな」
ティコは吹き出した。二人はしばらく、声を殺して笑った。
湾の向こうで、都市の明かりが瞬いていた。貴族院の灯り。元老たちの屋敷の灯り。そのどこかに、六百年を生きる老翁がいる。他人の秘密を握り、自身の千年の生に囚われながら、暗い部屋の蝋燭の光の中に座っている老翁が。──その老翁が数百年ぶりに口にした秘密を、桟橋の上の少年が独りで抱えていることを、人々は知らない。
「なあ、フェリオの兄貴」とティコは言った。「一つ憶えててくれ。港のねずみはいちばん小さくて弱い。でも、小さいからこそ、いちばんどこにでも行けるんだ。倉庫の隙間にも、屋敷のいちばん奥にも。──俺たちはこの都市のどこにでも行ける、唯一の生き物なんだ」
フェリオはティコを見た。かつて自分を慕ったティコに、頼もしさを超えた何かが映った──弟がいつの間にか、自分の知らない場所へ行ってしまったような、寂しさと誇らしさの混じった色が宿っていた。
「そうだな」とフェリオは静かに言った。「そうかもしれねえ」
二人はそれから、長いあいだ、杭の上に座って、星と漁火と都市の明かりを眺めていた。
貝紫の悪臭が、風に乗って二人を包んでいた。
慣れるまでに三年かかるその臭いは、いまやティコにとって、この都市そのものの匂いだった。金と秘密と貸し借りと──そして、貝紫の匂い。それが天下の大都市"マゴラト"だった。




