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忘却と寂然の地にて  作者: 一生坊主
"港のねずみ" ティコ
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9/24

第九節 天下の大都市"マゴラト"

* * *


 その夜のうちに、オルペスの台帳は倉庫へ戻った。

 大人たちの取引がどう転んだのか、ティコは知らない。だが夜明け前、ガルナが片腕で箱を抱え、ティコが夜警の目を避ける道を示した。来たときと同じ高い窓からだ。


 外した格子は元通りに嵌め、浮かせた釘はガルナの太い指が一本ずつ静かに押し戻した。──盗んだ者がいちばんうまく戻せる。港のねずみの知恵と、大鬼人《オーガ》の膂力。奇妙な取り合わせは、二度目もうまく噛み合った。


 夜明け。

 タルペア家の者が、私兵を引き連れて倉庫を検めたそうだ。商品は全て元の場所にあったという。――「盗まれた」と騒いだ夜警と番頭は、荷の数え違いを叱責され、解雇されたらしい。


 『カンパニアが、"タルペア家の商品"を盗んだ』という噂は、昼を待たずに立ち消えた。誰が流したのかも分からぬまま、誰が消したのかも分からぬまま。──だが、ティコは知っていた。情報を商いとする例の老翁が、あの暗い部屋で糸を引いたのだろう。


 その日の夕暮れ、港のはずれで、クレアがフェリオを引き渡した。

 フェリオは痩せて憔悴していたが、生きていた。無事だった。


 「ティコ」とフェリオは掠れた声で言った。「お前……なんで……忘れろって、言ったのに……」

 「兄貴」とティコはフェリオの痩せた肩を掴んだ。「港のねずみは、"家族"を見捨てねえ。──あんたが俺にそう教えたんだろ」


 フェリオは何か言おうとして、言葉に詰まった。

 そして、涙を流した。


* * *


 すべては、元の静けさに戻った。

 リウィア・タルペアはオルペスの命綱を握ったと信じたまま、自分の倉庫の奥に紙の束を眠らせている。世界一の大富豪が知らない真実を、臭い区画の浮浪児が知っているのは皮肉なことだ。


 カンパニア家は無事だった。嫌われ者の金貸しは、また都市の底で人々に金を貸し、憎まれながら生き続けた。

 だが、クィントは、以前より少しだけ、臭い区画の子供たちに低い利率で小銭を貸すようになった。──『綺麗な金で返すんだぞ』と彼は言った。

 呪い師のヴェスクは、また香草と乾物の店の奥に引っ込んだ。

 始末屋のクレアを、ティコは二度と見なかった。


 ティコは約束どおり、カルを含めた二十人の子供に、次のいい荷運びの口を回した。カルは荷賃より一連の話をせがんだが、ティコは笑って首を振った。──話せないことが多すぎた。


* * *


 その夜、ティコは桟橋の杭の上に座って湾を眺めていた。

 無数の星がフレトゥム海の水面に映って揺れ、潮目のあたりに漁火がいくつか灯っていた。今日も潮を読む古い漁師の家系が、闇の中の魚を追っているのだろう。


 フェリオが、隣に座った。

 「ティコ」とフェリオは静かに言った。「俺、一度は冒険者を辞めようかと思った」

 ティコは彼を見た。

 「上に行けば、何かが変わると思ってたんだ。港の底から這い上がれば、まっとうな暮らしができると。──だが、上には上の、もっと汚れた網があった。俺はその網の、いちばん小さな駒として使われてさ。……本当に、怖かったよ」


 「でもよ、兄貴」とティコは言った。「上の道が汚れてるからって、下の道がきれいなわけじゃねえ。ここだって十分汚れてる。慣れるまでに三年かかる"貝紫《かいむらさき》"の臭いも、日に日に強くなってる。──この都市は、どこに行っても汚えし臭えんだと思うよ」


 フェリオは笑った。だが、乾いたような笑いではなかった。

 「俺も同じことを思ったよ」と彼は言った。「……だから、続けることにした。網がどれだけ汚れてるか知らねえで歩くより、知ってて歩くほうがいい。それに──今度、元老の使いが路地で待ち伏せてやがった時の断り方も覚えたしな」


 「へえ?どんなの?」


 「弟分《ティコ》に言いつけるぞ、だ」とフェリオは言った。「うちの弟分《ティコ》は、元老と取引した男だからな」


 ティコは吹き出した。二人はしばらく、声を殺して笑った。


 湾の向こうで、都市の明かりが瞬いていた。貴族院の灯り。元老たちの屋敷の灯り。そのどこかに、六百年を生きる老翁がいる。他人の秘密を握り、自身の千年の生に囚われながら、暗い部屋の蝋燭の光の中に座っている老翁が。──その老翁が数百年ぶりに口にした秘密を、桟橋の上の少年が独りで抱えていることを、人々は知らない。


 「なあ、フェリオの兄貴」とティコは言った。「一つ憶えててくれ。港のねずみはいちばん小さくて弱い。でも、小さいからこそ、いちばんどこにでも行けるんだ。倉庫の隙間にも、屋敷のいちばん奥にも。──俺たちはこの都市のどこにでも行ける、唯一の生き物なんだ」


 フェリオはティコを見た。かつて自分を慕ったティコに、頼もしさを超えた何かが映った──弟がいつの間にか、自分の知らない場所へ行ってしまったような、寂しさと誇らしさの混じった色が宿っていた。


 「そうだな」とフェリオは静かに言った。「そうかもしれねえ」


 二人はそれから、長いあいだ、杭の上に座って、星と漁火と都市の明かりを眺めていた。

 貝紫の悪臭が、風に乗って二人を包んでいた。

 慣れるまでに三年かかるその臭いは、いまやティコにとって、この都市そのものの匂いだった。金と秘密と貸し借りと──そして、貝紫《かいむらさき》の匂い。それが天下の大都市"マゴラト"だった。

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