第一節 剣闘士《グラディエーター》
砂は血をよく吸う。
ルフス・トロガスが闘技場についてまず覚えたのはそれだった。石造りの円形闘技場の中央に敷かれた砂。それは、血を吸うために用意された砂だった。試合が終わるたびに、奴隷たちが血を吸って黒く固まった砂を掻き出し、乾いた新しい砂を撒く。──だから、砂はいつも乾いていた。次の血を吸うために。
ルフスは二十四だった。人間の若い男。剣闘士である。
だが、彼は捕虜でも奴隷でもなかった。志願者だった。自らの意志でこの砂の上に立つことを選んだ。──そういう剣闘士をこの街では「志願剣闘士」と呼ぶ。
彼らは、カトゥヴェリ荒域から捕獲された蛮族奴隷や戦争捕虜より一段上の扱いを受ける。だが、死の危険は変わらない。砂は志願者の血も奴隷の血も区別せず、同じように吸う。
なぜ志願したのか。──答えは単純だった。借金だ。
ルフスはレームの自由農民の子だった。父は市壁の外に小さな農地を持っていた。武装した自由農民。市民は自らの農地を耕し必要に応じて兵士として戦う。それが本来のレームの姿だった。──だが、その姿はこの百年で大きく変わってしまった。
レームは連戦連勝の軍事国家になった。征服地から大量の奴隷を連れ帰り、貴族や富裕層はその奴隷を使って大規模な農業を始めた。安価な農産物が市場に流れ込み、従来の自由農民は価格競争で負けた。
ルフスの父もその一人だった。
ルフスは父のことをよく憶えていた。父は誇り高いレームの自由農民だった。「俺たちはこの国の背骨だ」と父はよく言った。「農地を耕し、いざとなれば剣を取る。奴隷でも貴族でもない自由な市民だ。──それがレームだ。それが俺たちの誇りだ」
その誇りは嘘ではなかった。かつては、武装した自由農民こそがこの街を守り、この街を耕した。男も女も槍を取ることを当然と考えていた。それがレームの皆兵の文化だった。
だが、その誇りは少しずつ蝕まれていった。
レームが勝てば勝つほど、征服地から奴隷が流れ込んだ。貴族たちはその奴隷を使って広大な農園を営んだ。奴隷は賃金を要らない。奴隷には装備を伴う兵役の義務がなく、社会関係を構築するための資金の必要もない。
だから、その作物は安かった。市場はその安い作物で溢れた。──ルフスの父のような、自分の手で農地を耕す自由農民が貧しくなるには十分だった。
「おかしいだろう」と父は晩年、酒をあおりながら言った。「俺たちが命を賭けて戦争に行く。その戦争で連れてきた奴隷が俺たちの畑を潰すんだ。──俺たちは自分で自分の首を絞めてるんだ。勝てば勝つほど、貧しくなる。こんな馬鹿な話があるか」
父は借金を重ねた。奴隷農園の安い作物に太刀打ちできず。土地を少しずつ手放し、それでも足りず。──そして、父が病で死んだとき、その借金だけがルフスに残された。誇り高い自由農民の成れの果てがそれだった。
ルフスは父の言葉を憶えていた。『勝てば勝つほど、貧しくなる』──レームは勝ち続ける軍事国家だ。だが、その勝利は末端の自由農民を豊かにはしなかった。貴族と富裕層だけが肥え太り、自由農民は没落していった。ルフスの父のように。そして、ルフス自身のように。
借金を返す道は少なかった。土地を売っても足りなかった。職業軍人になって海外の遠征に出るという道もあった。だが、それもいつ帰れるか分からない。帰れるかどうかも分からない。──皮肉な話だった。父を没落させたその征服戦争に、今度はルフス自身が身を投じるという道だ。
そこで、ルフスは闘技場を選んだ。
志願剣闘士は勝てば賞金を得る。勝ち続ければ、いつか自由と農地を得て、引退できると言われている。──強豪剣闘士は市民の人気を集め、自由と農地を得て引退する者もいると。
――その「者"も"いる」という言葉の本当の意味をルフスはまだ知らなかった。




