第二節 闘技場《アレーナ》
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支配人のデキウス・アラトスは獣人の老人だった。
歳は八十を超えている。獣人は人間より少しだけ長く生きる。デキウスはその長い生涯をこの闘技場の興行に捧げてきた。剣闘士の売買、育成、演目の差配。──最大二万人を収容するこの円形闘技場のあらゆる血の見世物を彼が組んでいた。
ルフスが初めてデキウスに会ったとき、老人は彼を値踏みするように見た。まるで家畜を、あるいは道具を見るような目だった。
「志願か」とデキウスは言った。「――借金だな。顔を見れば分かる」
ルフスは答えなかった。
「いいか、若いの」とデキウスは続けた。「お前がなぜここに来たかはどうでもいい。俺が知りたいのは一つだけだ。お前が客を沸かせられるか、それだけだ」「――民は血を見たがる。剣闘士は金と栄光を欲しがる。俺はその両方に値をつけてやる」
彼はルフスの腕を掴んだ。筋を確かめるように。
「悪くない体つきだ」とデキウスは言った。「農民あがりは力と根性がある。だが、それだけでは勝てん。技を覚えろ。そして何より──客の心を掴め。客は強いだけの剣闘士には飽きる。物語を求めるんだ。負け続けた男が這い上がる物語。あるいは、憎まれ役が無双する物語。──お前はどんな物語になる? それを考えろ。それがお前の生き死にを決める」
ルフスはその言葉の意味を、後で思い知ることになる。
闘技場では剣闘士はただ戦うのではない。物語を演じるのだ。客が金を払って見に来る物語を。そして、その物語の結末が——生き残るか死ぬかが——客の気分次第で決まることもある。デキウスはその客の気分を操る興行師だった。
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ルフスの最初の試合はあっけなく終わった。
相手は彼と同じような志願剣闘士だった。――借金を抱えて志願した若い男。
二人ともまだ技をろくに知らなかった。ただ、必死に剣を振り回した。──ルフスの剣が相手の脇腹を裂いた。相手は砂の上に倒れた。
なんとか勝った。
だが、ルフスは勝利の喜びを感じなかった。
倒れた相手はまだ死んではいなかった。脇腹を押さえて砂の上で呻いていた。──そして、客席が沸いた。幾千もの観客が口々に叫んだ。ある者は相手を殺せと叫んだ。ある者は助けろと叫んだ。──その生殺与奪は最終的に、興行の出資者かつ主催者の者に委ねられる。その日の主催者が親指をどちらに向けるか。それで倒れた男の生死が決まる。
主催者は親指を下に向けた。
殺せという合図だった。
ルフスは凍りついた。
「やれ!」と砂の外からデキウスの声が飛んだ。「殺せ。それが"客の望み"だ。──お前が殺さなければ、次はお前が殺される。この砂の上に情けは要らん!」
ルフスの手が震えた。
目の前に倒れた男がいた。自分と同じ借金を抱えた若い男。自分と同じように家族のためにこの砂に立った男。──その男を殺せと何千の観客が叫んでいる。娯楽として。見世物として。
ルフスは目を閉じた。そして、剣を振り下ろした。
――砂がまた血を吸った。
客席が沸いた。歓声が闘技場を揺らした。ルフスの勝利を讃える歓声。──だが、ルフスにはその歓声が遠くの雷鳴のように聞こえた。彼は砂の上に立ち尽くしていた。返り血を浴びて。自分が何をしたのかを噛みしめながら。
これが闘技場だとルフスは思った。
勝てば生きる。負ければ死ぬ。そして、勝った者は負けた者を殺す。客の娯楽のために。──自由と農地。その約束された報酬のために、彼は同じ境遇の男を殺した。
砂を出るとき、ルフスは一人の男とすれ違った。
背の高い痩せた男だった。青みがかった灰色の肌。頭部から小さな角が二本。──悪魔人だった。この地では非常に珍しい種族だ。マナの希薄なこの大陸では悪魔人は十分な魔人化ができない。本来の高い魔力を発揮しきれない。だから、その数は極めて少ない。
その稀な種族の男が剣闘士の装いをしていた。
男はルフスを見た。その赤い目には、憐れみのような色があった。
「初めての殺しか」と男は静かに言った。声は意外なほど、穏やかだった。「──慣れるな。慣れたら終わりだ。あの男のように」
男の視線の先にもう一人の剣闘士がいた。
巨躯の大鬼人だった。返り血を浴び、心底楽しそうに笑っていた。──ルフスはその大鬼人を知っていた。ガドバ。自ら望んで捕虜となり剣闘士奴隷に身を落とした大鬼人だ。他の剣闘士が生き延びるために戦う中、彼だけは殺すことそのものを愉しむために砂に立つ。有名な悪役だ。
「あれが」と悪魔人の男は言った。「慣れた者の成れの果てだ。──お前はああはなるなよ」
そう言って男は砂へと歩いていった。
ルフスはその痩せた背中を見送った。
後で、ルフスはその男の名を知る。スパルド。──この闘技場で絶大な人気を誇る不敗の剣闘士。その稀有な種族と際立った美貌ゆえに市民のとりわけ貴婦人たちの熱狂を掻き立てる、『砂上の華』。
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ルフスは勝ち続けた。
最初の一戦の後彼は変わった。躊躇いを捨てた。──捨てなければ、死ぬからだ。彼は技を覚えた。デキウスの言うとおり力だけでは勝てない。彼は必死に剣術を身につけた。
剣闘士の日々は単調だった。
朝から晩まで訓練だ。木剣を振り型を繰り返し模擬戦を行う。訓練を監督するのは引退した老剣闘士だった。かつて砂の上で名を馳せ、運よく生き延びて、今は後進を鍛えている。──だが、その老剣闘士とて自由を得たわけではなかった。彼は闘技場に雇われて剣闘士を育てている。砂を出ても闘技場の外には出られなかった。それがこの見世物の仕組みだった。一度この歯車に組み込まれれば、死ぬまで回り続ける。
訓練の合間、ルフスは他の剣闘士たちを観察した。
彼らは様々だった。ルフスのような借金や、食い詰めから砂に立った者たち。鎖に繋がれた蛮族奴隷――カトゥヴェリ荒域から捕獲された赤龍人や豚人や大鬼人。彼らは言葉も通じないことが多く、ただ獣のように砂に送り出されるのを待っていた。
そして、ガドバがいた。
殺しを愉しむ大鬼人。彼だけは他の剣闘士たちと違う。自ら望んで捕虜となり剣闘士奴隷に身を落とした狂人。逃げようとも、自由を得ようともしない。ただ、砂の上で相手を殺す。それだけが彼の生きる理由だ。
「なあ、若造」とある日ガドバがルフスに話しかけてきた。訓練の合間に。「お前、なんでそんな辛気くさい顔で戦うんだ? 殺しは楽しいだろう! 相手が俺の死を願う顔! あれこそ最高の馳走よ! ──お前もそのうち分かる。慣れれば、殺しは楽しくなる」
ルフスは答えなかった。
スパルドの言葉を思い出した。慣れるな。慣れたら終わりだ。あの男のように。──ガドバは慣れた者の成れの果てだった。殺すことに慣れ、殺すことを愉しむようになった成れの果て。ルフスはそうはなりたくなかった。だが、勝ち続けるためには、殺し続けなければならない。その狭間で彼は少しずつ擦り減っていった。
――闘技場では、剣闘士はただ戦うのではない。演じるのだ。
デキウスは試合ごとに物語を仕込む。今日はルフスを「這い上がる貧しき志願者」として売り出す。明日はガドバを「憎むべき殺戮者」として売り出す。客はその物語に金を払う。剣闘士はその物語の登場人物として砂に立つ。──そして、物語の結末が生き死にであることを客は承知の上で楽しんだ。
ルフスは「這い上がる貧しき志願者」を演じた。
とはいえ、それは嘘ではなかった。彼は実際に貧しく実際に這い上がろうとしていた。だが、その本物の必死さをデキウスは見世物に仕立てた。ルフスの勝利は客の娯楽になった。ルフスが生き延びるために流す血も客の娯楽になった。──彼の命がけの必死さそのものに値がつけられていった。
――そして勝った。一戦また一戦と。
勝つたびに賞金が貯まった。借金は少しずつ減っていった。
ルフスは闘技場の内側の仕組みを、少しずつ知っていった。
剣闘士には序列があった。いちばん下が蛮族奴隷や戦争捕虜だ。彼らは鎖に繋がれ名も与えられずただ"数合わせ"として砂に送り出される。まともな訓練も受けられない。多くは一戦か二戦で死ぬ。客にとって彼らは剣闘士ですらなかった。ただの獲物だった。強い剣闘士に狩られる獲物。
その上が志願剣闘士だ。ルフスのような。彼らは名を与えられ、多少の訓練を受ける。勝てば賞金を得る。だが、その分期待もされる。客を沸かせられなければ、すぐに格下の相手にあてがわれ、あるいは格上の相手に潰される。
そしてさらに上、頂点にスパルドのような花形がいる。不敗の稼ぎ頭。"砂上の華"。彼らは闘技場の宝だった。だが、宝であるがゆえに、決して手放されない。
ルフスはこの序列を、一つずつ上っていった。勝つたびに、少しずつ良い待遇を受けるようになった。だが、上れば上るほど、彼はあることに気づいた。──上に出口があるわけではなかったのだ。序列のいちばん上は自由ではなく、囚われの頂点だった。
彼と同じ時期に志願した一人の男がいた。
マニウスという人間の男だった。彼もやはり、借金を抱えて志願した。ルフスとマニウスは宿舎でよく話した。互いの借金の額を比べあと何戦勝てば、返せるかを計算した。──それが二人の慰めだった。あと五戦。あと三戦。あと一戦。
マニウスはルフスより先にその「あと一戦」にたどり着いた。
「聞いてくれ、ルフス!」とある日、マニウスは興奮して言った。「次の試合で勝てば、借金が返し終わる! 俺は自由だ! 農地に戻れる! ──妻と子供が待ってるんだ。あと一戦だ!」
ルフスは彼のために喜んだ。自分のことのように。──剣闘士の中にこうして自由にたどり着く者もいるのだと。ならば自分にもいつか。
マニウスのその最後の試合をルフスは砂の外から見ていた。
相手はカトゥヴェリ荒域から捕獲された単眼巨人だった。巨躯の蛮族。マニウスより遥かに大きく力も強かった。──なぜ自由がかかった最後の試合で、こんな格上の相手があてがわれたのか。ルフスには分からなかった。
試合は短かった。
単眼巨人の一撃がマニウスを砂に沈めた。マニウスは立ち上がろうとした。あと一戦。妻と子供。自由。──だが、立ち上がれなかった。単眼巨人の次の一撃が彼を砂に縫いつけた。
砂が血を吸った。
ルフスは砂の外で立ち尽くしていた。
後で、彼は知った。デキウスがわざとマニウスに格上の相手をあてがったことを。──「自由に手が届きそうな剣闘士はもう終わりだ」とある古参の剣闘士が囁いた。「そういう奴は、次の試合に勝てば、すぐ闘技場からいなくなってしまう。支配人は、何とか最後に一稼ぎさせる方法を考える。──だから、自由が見えてきた奴には少しだけ強い相手をあてがい、最期の賭け金を跳ね上げさせる。それがこの闘技場のやり方だ」
ルフスはそれを聞いて悟った。
自由は餌だ。だが、餌に手が届きそうになった者には罠が待っている。強すぎれば手放してもらえない。弱ければ、死ぬ。ちょうどいい強さで勝ち続け、しかし自由に手が届くその一歩手前で──殺される。
また、ルフスは気づいた。報酬は想像以上に安く、借金が減る速さはより遅い。
自由と農地。それが剣闘士の約束された報酬だった。だが、その報酬にたどり着く前にたいていの剣闘士は死ぬ。あるいは、勝ち続けてもなかなか自由にはたどり着けない。デキウスが稼ぎ頭を簡単には手放さないからだ。
「もう少しだぞ」とデキウスは勝つたびに、言った。「あと数戦勝てば、自由が見えてくる。──もう少しだ。気合を入れろ、ルフス」
だが、その「もう少し」は、単に"死の宣告"だったのだ。
ルフスは少しずつ悟り始めていた。
この「自由」という報酬は餌なのだと。ロバの鼻先にぶら下げられた人参のように。追いかけても追いかけても決して届かない。届いた瞬間に剣闘士は価値を失う。だから、興行師は決して届かせない。「もう少し」と言い続けて走らせ続ける。──最後の血の一滴まで。




