第三節 砂上の華
ある夜、ルフスは剣闘士たちの宿舎で、"砂上の華"スパルドと話した。
剣闘士たちは、闘技場に隣接する宿舎に暮らしていた。奴隷剣闘士は鎖に繋がれた粗末な部屋。志願剣闘士はそれより少しましな部屋。だが、どちらも逃げられないことに変わりはなかった。
スパルドは宿舎の中庭に一人で座っていた。鎖に繋がれた脚で。夜空を見上げて。
「スパルドさん」とルフスは声をかけた。「隣いいですか」
悪魔人は頷いた。ルフスは隣に腰を下ろした。
「あんたは」とルフスは訊いた。「不敗だって聞きました。この闘技場で一度も負けたことがないって。──なら、もうとっくに自由を得られてるんじゃないんですか。なぜまだここに?」
スパルドは乾いた笑みを浮かべた。
「不敗だからこそだ」と彼は言った。「──俺はデキウスのいちばんの稼ぎ頭の"奴隷"だ。俺が砂に立てば、客が押し寄せる。俺の名で金が動く。だから、デキウスは決して俺を手放さない。自由なんかくれるものか。──俺はこの闘技場のいちばん高価な道具なんだ」
ルフスは黙った。それは彼が薄々感じていたことの確認だった。
「勝てば、自由をやるとデキウスは言う」とスパルドは続けた。「だが、その日はいつも遠のく。俺はもう二十年以上、この砂に立っている。我々"悪魔人"は長寿だが――二十年......二十年だぞ、ルフス。二十年勝ち続けてそれでも自由は来ていない。来るはずがない。俺が価値を持ち続ける限り」
「二十年……」ルフスは絶句した。
「俺には」とスパルドは夜空を見上げたまま言った。「想い人がいる。──森精人の女だ。彼女と静かに暮らすことだけが俺の願いだ。もう戦いはたくさんだ。血も砂も歓声ももううんざりなんだ。──ただ、彼女と二人で静かなどこかで暮らしたい。それだけなんだ。それだけが俺の望みなんだ」
その声には二十年分の疲れが滲んでいた。
「彼女とは」とスパルドはぽつりと言った。ルフスにというより夜空に語りかけるように。「──十八年前に出会った。俺がまだ砂に立ち始めて間もない頃だ。彼女は俺の試合を見に来た客の一人だった。──悪魔人はこの地では珍しい。だから、俺が砂に立つと皆物珍しさで見に来る。彼女もそうだったのだろう。最初は」
彼は乾いた笑みを浮かべた。
「だが、彼女は他の客とは違った」とスパルドは続けた。「他の客は俺の血を見に来る。俺が誰かを殺すのを、あるいは俺の美貌を。──だが、彼女は俺の目を見た。砂の上で殺し合う俺の目にあった"疲れ"を見たんだ。ある日、試合の後、彼女は俺に言った。『あなたはこんなところにいるべき人じゃない』と。──その後の十八年間誰も俺にそんなことを言わなかった。皆俺を"砂上の華"と讃えるだけだった。華は砂の上にいるのが当然だと。だが、彼女だけは俺を砂の外の人間として見た」
ルフスは黙って聞いていた。
「悪魔人は」とスパルドは言った。「この地では独りだ。──マナの希薄なこの地では俺たちは本来の力を出せない。仲間もほとんどいない。俺は生まれてこのかた同じ悪魔人に数えるほどしか会ったことがない。──独りなんだずっと。この広い西ヤルアラムで俺はたった独りの異物だった。だが、彼女がいた。彼女だけが俺を独りではなくしてくれた。──だから、俺は彼女と暮らしたい。それだけを願って二十年を生きてきた」
「その人は」とルフスは訊いた。「今もあんたを待ってるんですか」
スパルドはしばらく答えなかった。
「分からない」とやがて彼は言った。「──実は、もう何年も会っていない。デキウスが俺に外の者と会わせないようにしている。俺が逃げるのを恐れて。......彼女がまだ俺を待っているのか、それとも待ち疲れて去ったのか。──俺には分からない。森精人は長く生きる。だが、待つことにも限りがある。十八年だ。彼女が俺を諦めていても俺は彼女を責められない」
彼は夜空を見上げた。
「もう戦いはたくさんだ」とスパルドは言った。「血も砂も歓声ももううんざりなんだ。──ただ、彼女と二人で静かなどこかで暮らしたい。それだけなんだ。それだけが俺の望みなんだ。──だが、その望みはこの砂の上にいる限り、決して叶わない」
ルフスはこの不敗の華がどれほど、疲れ果てているかを初めて知った。市民は彼を"砂上の華"と讃える。貴婦人たちは彼に熱狂する。だが、その華やかな仮面の下でスパルドはただこの血なまぐさい生活から逃れたいと願っていた。想い人と静かに暮らすためだけに。
「なあ、ルフス」とスパルドは彼を見た。「お前はまだ若い。それに奴隷でもない志願者だ。お前は借金を返して自由を得ようとしている。──だが、憶えておけ。この砂の上で自由を得られる者はほとんどいない。俺のように強すぎれば、"あの手この手"で手放さない。弱ければ死ぬ。──ちょうどいい強さの者だけがたまに自由を得る。だが、その『ちょうどいい』を見極めるのは難しい。強くなりすぎる前に逃げ切れ。それがお前が生きて砂を出るただ一つの道だ」
ルフスはその言葉を胸に刻んだ。
強くなりすぎる前に逃げ切れ。──だが、それは矛盾していた。強くならなければ勝てない。勝たなければ、借金は返し切れない。だが、強くなりすぎれば手放してもらえない。──この砂の上には出口のない罠が、どこかに仕掛けられていた。




