第八節 マゴラトの黒幕
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オルペス・ネクィアの屋敷は、都市の古い一角に建っていた。
貝紫の臭いは届かない。古く堅牢で、静かな屋敷だった。派手さはないが、その静けさそのものが、威圧的な雰囲気を持っていた。
六百年。この屋敷の主が、六百年間人々の弱みを溜めつづけてきたのだ。
門の脇の通用口をクィントが叩いた。
しばらくして、扉が開いた。中から、一人の女が顔を出した。若い女のようにも、歳のいった女のようにも見えた。歳が読めなかった。そして、その静かな無表情の目を見て、ティコの港のねずみの勘が悲鳴を上げた。──この女は危険だ。
女は四人を順に見た。クィント、ヴェスク、ガルナ。そして最後に、いちばん小さい影に目を止めた。
「入るのは、まずそこの"ねずみ"だけだと、オルペスは言っている」
クィントが眉を寄せた。「待て。話があるのは私だ。この子供は──」
「二度は言わない」と女は言った。
クィントはティコを見た。その目には苛立ちと警告、そしてほんのわずかな──案じるような色があった。ティコは頷いて、独りで敷居をまたいだ。
後で、ティコはその女の名を知る。"始末屋クレア"。三眼人。この都市の裏で厄介事の「始末」を請け負う女。──その女に案内されて、ティコは屋敷のいちばん奥の部屋へとたどり着いた。
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部屋は暗かった。
窓は厚い布で覆われ、わずかな蝋燭の光だけが部屋を照らしていた。その揺れる光の中に、一人の老人が座っていた。
枯れた老人だった。八十代の風貌の、皺だらけの痩せた体。──だが、その静かな佇まいの奥に六百年の重みがあった。ティコは一目見て悟った。やはりこの男はただの老人ではない。老人の姿をした、途方もなく古い妖怪だ。
「──驚いた」
老人の第一声は、それだった。しわがれている、しかし奇妙に澄んだ声。
「世辞ではないぞ、ねずみ。私は六百年、この都市を見てきた。執政官の裏切りも、神官の醜聞も、氏族の没落も、飽きるほど見た。この歳になると、たいていのことは起きる前から見えている。──だが、これは見えなかった。貝紫の臭い区画の浮浪児が、三日で箱にたどり着き、台帳の細工を見抜き、そして私の部屋の敷居をまたぐ。……心底驚いた。この驚きだけでも、お前を通した甲斐があった」
説明せずとも全てを把握しているようだった。ティコの背筋が凍った。
「フェリオは」と彼は言った。「どこだ」
「生きている」とオルペスは言った。「この屋敷にいる。あの若者は箱の出どころを知る、ただ一人の外の人間だ。リウィアに掴まれる前に手元に置いた。いざというとき、あの女を泥沼に引き込む札としてな。──価値がある限り、生かしておく」
「返してくれ」とティコは言った。
「断る」とオルペスは言った。静かな声だった。「外の三人はまぁよい。使えるからな。それに彼らの弱みも、私は既に握っている。彼らには、初めから選択肢などあってないようなものなのだ。──だが、お前はどうだ、ねずみ。名もない。家もない。商いもない。お前を縛れる鎖はあるにはあるが、それに費やす資源が、少しでも惜しい。……そして、鎖の値がかかる者の口を塞ぐ方法は、一つしかないのだ。......お前の地盤はあまりに浅い。お前一人が桟橋の下から上がったところで、この都市の誰も気に留めないだろう」
部屋の空気が冷える。背後の扉のあたりで、クレアの気配がわずかに動いた気がした。
だが、ティコはこの瞬間のために、既に"保険"を残してきた。
「あんたの言うとおりだ、爺さん」とティコは言った。声が掠れないよう、舐められないように、精一杯腹に力を入れた。「──だから、保険を置いてきた」
オルペスの目が、わずかに細くなった。
「ここへ来る道の途中に、この三日のことを全部、書いて隠してきた。台帳が贋物なこともな。──ああ、言わなくていいぜ。港のねずみは字が読めねえはずだって、思ってるんだろ。そうだ。正字は読めねぇ。でも俺たちには俺たちの文字がある。大人には荷縄の切れ端と落書きにしか見えねぇだろうよ。受け渡しの場所は都市中にあって、夜明けごとに当番の子が検めて回るんだ。──俺が朝までに回収しなけりゃ、あれは仲間の手から手へ渡って、金で話を買う連中のところまで流れる。この都市にそういう情報屋がどれだけいるか、あんたがいちばんよく知ってるはずだ」
ティコは息を吸った。
「あんたがフェリオを返してくれりゃ、俺は帰り道にあれを回収する。――なあ、それでお互い一件落着じゃねぇかよ」
沈黙があった。蝋燭の炎が、揺れた。
やがて、オルペスは言った。
「──ならば、この一晩のうちに、港のねずみを皆殺しにすればよい」
あまりに静かな声だった。天気の話でもするような。
「臭い区画の浮浪児が二十人。一晩で消えたところで、この都市の誰が数える。土の中だろうと壁の落書きだろうと、読む者が残らねば符丁はただの縄と炭だ。──それに、ねずみよ。仮に幾らか漏れたとしてどうなる。浮浪児の言うことだぞ。浮浪児発の噂を、誰が信じる。金で話を買う連中とて、売り物になるのは信の置ける話だけだ。出どころが桟橋では、値がつかん」
老翁は、枯れた指を組んだ。
「お前の保険は、保険になっておらん。──話は、終わりか」
ティコは、答えられなかった。
全身から血の気が引いていくのが分かった。読み違えた。この老翁は六百年、こういう脅しを幾万と受けて、その全部を潰して生き延びてきたのだ。港のねずみの浅知恵が通じる相手ではなかった。仲間を、二十人の子供たちを、自分は今天秤に載せてしまった──。
悔しかった。
怖さよりも先に、悔しさが来た。何もかも見透かされて、値踏みされて、「話は終わりか」と言われて、このまま黙って始末されるのか。それとも命乞いをするのか。
──どちらも嫌だった。せめて一矢、この六百年の化け物に何か一つでも報いてやりたかった。
だから、ティコの口から出たのは、さらなる脅しでも命乞いでもなかった。
「……なあ、爺さん。あんた、本当に六百年も生きてんのかよ」
オルペスは答えなかった。
「嘘なんじゃねえのか。ハッタリなんじゃねえのか。六百年前っていやあ、セミルスさまがまだ人だった頃って聞くぜ。──じゃああんた、セミルスさまの顔、覚えてんのかよ」
それは負け惜しみだった。ただの、路地の子供の減らず口だった。
だが、"セミルス"の名を出した時、オルペスのまぶたが動いた。
長い、長い沈黙があった。蝋燭の炎だけが揺れていた。ティコは、自分が何か踏んではならないものを踏んだのかとも思った。クレアの気配を背中に感じた。
「……あぁ、覚えているとも」
やがて、老翁は言った。ティコに答えるというより、独り言のようだった。
「やつがマゴラトにはじめて訪れた若き姿から、二百年の冒険から戻った老いた姿までな。......そうだな。やつは最後、民とともに豆を育てていた。畑の土に膝をついて。――やつは決して神のような者ではなかった。魔剣"アスモデウス"を有し、なおもさらなる冒険を渇望しながら、寿命には勝てず、自身の老いた体に癇癪を起こしては、長命の仲間に看取られていく──そんな憐れな老人だった。人望などより、冒険のほうを欲しがっていた男だ。神殿の荘厳な像を見るたびに思う。あれは"違う"、と。あの男はもっと土くさく、もっと俗なやつであった、と」
彼はそこで、言葉を切った。そして、初めて、まっすぐにティコを見た。
「──分かるか、ねずみ。今の話を、私は公の場では決して口にできん。神殿から睨まれるのもある。セミルスの威光に連なる氏族どもとの仲も悪くなる。そして何より、人々の関心が私の六百年そのものへ向く。私が何者で、その六百年に何をしてきたのか、と。……言うことの益は一つもなく、害だけがある。だから言わなかった。言えなかった。この数百年間誰にも」
蝋燭の炎が、揺れた。
「私が今これを話したのは、お前が港の"ねずみごとき"だからだ。名もなく、家もなく、お前の言葉を誰も信じぬ──そんなお前だからこそ、今、数百年ぶりに、これを口にすることができた。……妙なものだな。鎖のかからぬことが、お前の弱みであり、同時に私がお前にだけ話せた理由でもある」
老いた顔に何か人間らしい影が差していた。悲しみか、疲れか、あるいは六百年分の途方もない孤独か。──ティコには読めなかった。だが、この瞬間だけ、目の前にいるのが"途方もなく古い妖怪"ではなく、ただの"途方もなく長く独りでいた老人"に見えた。
「取引を結ぼう」とやがて、オルペスは言った。
ティコは顔を上げた。
「フェリオは返す。それからリウィアには、今後港の臭い区画のねずみどもに手を出させぬよう、私から手を打っておく。あの女への手綱は、まだ幾本も私の手に残っておるのでな。──外の金貸しどもとの話は、この後別にする。箱の始末も、噂の始末も彼らの取引だ。お前の知るところではない」
「……なんで、だ」とティコは訊いた。訊かずにはいられなかった。「あんたは、俺の保険を潰した。俺を消せば終わりだったのに、なんで」
「秘密には秘密を。借りには貸しを」とオルペスは言った。「それがこの大都市、マゴラトの仕組みだ。──お前は今夜、私の秘密を一つ、私からの借りを一つ預かったのだ。......その秘密は、誰も預かろうとしなかった"懐かしい"秘密だった。だから私も、その対価を払っただけのことよ。」
一体何が本音なのか、ティコには分からなかった。
「ただし」と老翁の声が、不意に鋭く響いた。「一つだけ憶えておけ、ねずみ。──二度とこのような真似はするな」
枯れて痩せた体が、蝋燭の光の中でゆっくりと立ち上がった。
「今夜のお前は、"港のねずみごとき"だった。だから見逃せた。だから"話せた"。だが、お前が今後も上の世界に関わるなら──二度、三度も私の網に指をかけるなら、私はもう、お前を"ねずみごとき"としては扱えなくなる。名もなき浮浪児ではなく、盤の上の駒として数えねばならなくなる。……盤の上の駒がどう扱われるかは、お前のフェリオが身をもって知ったとおりだ。分かったな」
ティコは、その言葉の重さを、腹の底で受け止めた。
「……分かった」と彼は言った。「──約束だぞ、爺さん」
六百年の老翁の口の端に、ほんのかすかな、笑みのようなものが浮かんだ。それがどんな笑みだったのか、ティコには最後まで読めなかった。
「帰れ」とオルペスは言った。「帰り道の、杭の裏のものを忘れるなよ」
──杭を使ったことまで、全部知られていた。
ティコはクレアに導かれて、来た廊下を戻った。玄関の間で、三人が待っていた。クィントが素早く目でティコを検め、無事を確かめると、小さく息を吐いた。ガルナは無言で、だがその厳めしい顔がわずかに緩んだ。ヴェスクだけが面白くてたまらないという顔で、口の端を吊り上げていた。
「次は、金貸し。──お前だ」とクレアが言った。
入れ違いに奥へ向かうクィントの背を、ティコは横目に見送った。大人たちの取引の中身をティコが知ることはない。それでいいと思った。この都市では、話せないことを互いに持つほうがいいのかもしれない。
ティコは独り夜明け前の路地へ出た。杭の裏から、布と縄を回収するために。




