第六節 呪い師
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その夜、カンパニア家にもう一人の客が来た。
扉を叩く音がした。三度、そして間を置いて二度。──決まった合図だったのだろう。ガルナが扉を開けた。
入ってきたのは、香草と乾物の匂いをまとった小柄な目立たない男だった。だが、その静かな佇まいの奥に、ティコは何かぞくりとするものを感じた。ティコの勘が囁いた。──この男はただ者ではない、と。
「ヴェスク」とクィントが言った。「よく来てくれた」
ヴェスク・ロンダル。──後にティコはその名を知ることになる。
マゴラトの雑多な区画で香草と乾物を商う、小さな店の主人。だがその正体は、忌み嫌われる呪い師の蜥蜴人だった。呪詛を生業とするがゆえにどの土地でも蔑まれ、追われる高位種族。
だからヴェスクは、蛮族すら市井に暮らす大都市マゴラトの雑踏に紛れ、正体を隠してひっそりと商っていた。主に恨みを晴らしたい者などが、噂を頼りに彼の店の裏口を叩く。──そして、彼の店には依頼主の恨みと一緒に、この都市の底暗い噂が集まってくるのだった。
「クィントよ」とヴェスクは静かに言った。「お前がタルペア家の倉庫から"木箱"を盗んだという噂が、夜更けにもかかわらずもう街を流れ始めているぞ。『カンパニアが、"タルペア家の商品"を盗んだ』と。──盗んだその夜のうちに、だ」
途端に、クィントの顔が青ざめた。「な、何を.......言っている」
「ここまで早く回っているのは、あちら側がすぐに気づき、その上で意図して流しているからだ」とヴェスクは続けた。「流しているのは、タルペア家の手の者だろう。クィント、お前ぬかったな。リウィアは数ヶ月前、北方の白肌人の呪詛師を大金をかけて雇った。大方、奴の妖術でお前らが今晩やったことが割れたのだろう。......タルペア家はこの夜明けに、カンパニアへの襲撃を計画しているそうだ。貴族院と自警の連中を焚きつけて、朝いちばんにこの家を検めさせ、"その木箱"を『取り戻す』つもりだ。......"台帳"と言ったほうがお前らには分かりやすかったか?」ヴェスクが不気味に口角を上げた。「──あの"台帳"はオルペスの命綱そのものだからなぁ。」
「……お前は」クィントが唇を噛み締めた。「どこまで知っている」
ヴェスクは口の端を吊り上げて、机の上に掌を出した。
「ここから先は、"まずは"金貨七枚だ。買うか、クィントよ」
クィントは苦い顔で懐から出した金貨を数えた。金貸しが情報屋からたかられているこの状況に、ティコは同情に近いものを感じた。
「この春の話だ」と、金貨をしまいながらヴェスクは言った。「リウィアが、オルペスの密偵網の糸を、何本か手繰り当てた。あの老翁が市井に飼っていた目と耳──間諜、その内の何人かを金で割り出し、寝返らせたのだ。そのついでに、オルペス派の元老どもの"弱み"も密かに買い集めた。それによって一時期、オルペスの情報網はかつてないほどに縮んだ。──リウィアはこの六百年で初めて、あの老翁の急所に指をかけたのだ。そして、大事になる前の手打ちの代価として、オルペスにこう要求したそうだ。『あなたの台帳をこちらで預からせていただきますよ』と」
「それで、オルペスは」とティコは言った。「渡したのか。──偽物を」
「ほう」ヴェスクの目が、初めてティコをまともに見た。「それが割れていたのか、お前らには。……良かったなクィント、これは金貨20枚に値していたぞ。」ヴェスクは残念だというように、ため息をついた。「......そう、台帳は偽物だった。あの老翁は脅されて屈したふりをした。何年も前から仕込んであった写し――ほとんどの些末な部分はそのまま残し、僅かな重要な部分を改変した贋物――を、本物として差し出した。世界一の大富豪ともあろう女が、まんまと紙の束を掴まされたのだ。──オルペスの命綱を握ったと信じ込んだままな」
「じゃあ、なんで」とガルナが口を挟んだ。「そんな大事な箱の守りが、あんなに薄かった」
「引き渡しが決まってから運ばれるまでの展開が、あまりに急だったのだ。それに、守りを固めるために人員を動員するほど、『ここに何かある』市内に巣食う情報屋どもに教えるようなものだからだ」とヴェスクは言った。「考えてもみよ。この引き渡しは双方にとって、あってはならない取引なのだ。元老を脅して台帳を出させた。しかもその台帳の中身は多くの貴族の弱みが書かれてある──それが公になれば、リウィアとて無事では済まん。だから倉庫の受払帳にも載せず、夜警も増やさず、ただの荷に紛れさせて、保管場所をこしらえる時間稼ぎをしていた。......もっとも、この計画におけるリウィアの誤算はカンパニアの実行能力。オルペスにとっての誤算は、『カンパニアが台帳を"贋物"と気づいたこと』だっただろうがな。」
ティコの背筋が凍えた。
「なら、まずくないか」とティコは言った。「リウィアとオルペス、両方の地雷を俺らは踏んじまったってことだよな」
「そうだ。だが、それは強みにもなり得る」とヴェスクは頷いた。「クィント、黙ってないでなにか言ったらどうだ?」
「……オルペスとの交渉、か」とクィントが掠れた声で言った。「リウィアとの交渉は難しい。たしかに"オルペスの台帳"の取引が明るみになれば、リウィアの危険性がマゴラト中に知れ渡るのは間違いないだろう。だが、それ以上に本物の"台帳"だと信じ、その力を疑わないリウィアにとっては、カンパニアに対して弱気に出る理由はない。例え私が台帳を燃やすと脅しても、それはリウィアにとって"超えてはならない一線"であり、むしろ火に油を注ぐだけだろう。それにリウィアの力は元々、カンパニアを守るには向いていない。......だが、オルペスに『"台帳"は本物であるとしたままで、リウィアに台帳を明け渡す。その代わりとしてカンパニアを守らねば、リウィアに台帳が贋物であることを伝える』として脅せばどうだろう。そもそも、これまで我らカンパニアを殺さず生かさず飼っていたのはやつなのだ。この話に乗ることは、オルペスにとって事件前の状態に戻すことに他ならない、悪くない"取引"だろう」
部屋の中が、しんとなった。
「……フェリオは」ティコは絞り出すように言った。「フェリオの兄貴は、どうなる」
ヴェスクはティコを見た。その静かな目に、値踏みするような色が宿った。
「今朝の桟橋の死体は、お前の兄貴分ではなかったのだろう?」と彼は言った。「あれは、ただの恨みを買って落とされた水夫にすぎん。桟橋とは、そういう場所だ。──だが考えてもみよ。お前の兄貴分は、あの箱がオルペスの屋敷から出たことを知るただ一人の外の人間だろう。リウィアにとっては、消えてほしいがどうでも良くもある人間の一人だ。──だが、オルペスにとってはどうだろうか?」
「……台帳を引き渡した証人として、もしもの際のリウィアへの手札として使える」とティコは言った。「もしかして、いるのか!?オルペスの屋敷に!」
「見込みはそこまで高くない」とヴェスクは言った。「人を一人抱えておくというのは、それなりの費用がかかるものだ。その費用をかけるほどの利があると、オルペスが考えているかどうかまでは分からんぞ」ヴェスクはそう言うと邪悪な笑みを浮かべた。
ティコは、頭の中で盤面を並べた。
夜明けまでに箱がこの家にあれば、カンパニアは終わる。だから、リウィアには夜明け前には"台帳"を引き渡さなければならない。さらにその前にはオルペスにカンパニア家保護を約束させる必要があり、オルペスがリウィアにカンパニア襲撃をしないよう通達する時間も必要だろう。時間は極めて限られており、あと数時間ほどしかない。
この交渉は恐らくクィントかガルナ、もしくはその両方が行うだろう。今すぐにでも出発するだろう。
――さらに、ティコは思った。その交渉内容の中に、フェリオの解放を混ぜることはできないかと。そしてもう一つの疑問。――自分はこの交渉に同行させてくれるのだろうか、と。
「クィントさま」とティコは言った。「俺がオルペスのところへ交渉へ行く」




