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忘却と寂然の地にて  作者: 一生坊主
"港のねずみ" ティコ
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第三節 タルペア家の倉庫

* * *


 タルペア家の倉庫は港のはずれの、他の倉庫から少し離れたところに建っていた。


 石造りの頑丈な倉庫だった。窓は高いところに小さいものがいくつか。扉は分厚い木で、鉄の錠がかかっている。夜警が二人、倉庫の周りを回っていた。


 ティコは倉庫の裏の暗がりに身をひそめて、夜警の動きを読んだ。

 二人の夜警は同じ刻に同じ道を回る。倉庫の四方をぐるりと。


 二人が倉庫の反対側に回ったその一瞬の隙に、高い窓から忍び込むのが良いだろう。窓は小さいが、ティコの痩せた体なら通れる。──港のねずみの痩せた体はこういうときに役に立つ。飢えの数少ない恩恵だった。


 夜警が反対側に回った。


 ティコは音もなく、倉庫の壁をよじ登った。石の継ぎ目に指と足の先をかけていき、高い窓にたどり着く。小さな窓の木の格子は古く、腐りかけていた。ティコはそれをそっと、自作の糸のこを使って外した。港のねずみはこういう仕事に慣れている。


 窓から倉庫の中へ滑り込む。


 中は暗かった。だが、ティコの目は暗がりに慣れていた。高い窓から差すわずかな月明かりで、倉庫の中が少しずつ見えてきた。


 荷が山のように積まれていた。木箱、樽、麻袋。海峡交易のあらゆる品がここに集まっているのだろう。タルペア家の富の一部が。


 ティコはあの"木箱"を探した。


 カルの話ではそれほど大きくない木箱。人が一人入るには小さすぎる、二日前の夜に運び込まれた、新しい木箱。──ティコは荷の間を音もなく、進みながら、新しい木箱を探した。埃をかぶっていない真新しい木箱を。


 あった。


 倉庫の奥のほうに他の荷とは少し離れて、一つの木箱が置かれていた。真新しい木で、埃もかぶっていない。二日前に運び込まれた、その木箱かもしれない。


 ティコはその木箱に近づいた。


 木箱の蓋は釘で打ちつけられていた。開けるには道具が要るだろう。ティコは腰に差した細い鉄の棒——港のねずみの七つ道具の一つ——を取り出し、蓋の隙間に差し込んだ。てこの要領で、少しずつ釘を浮かせる。港のねずみはこういう仕事にも慣れている。


 やがて、蓋が外れた。


 ティコは木箱の中を覗き込んだ。


 そして、息を呑んだ。


 木箱の中には書物が詰まっていた。


 古い羊皮紙の束がいくつも。革の表紙で綴じられた、台帳のようなものが何冊も。

 ――都市の正字《せいじ》はティコには読めなかった。

 港のねずみに字を教える者などいない。ティコを含め、読み書きできる"ねずみ"は数人はいるが、それは下町の看板に躍るようなくだけた"俗字"であって、正字ではなかった。だが、正字が読めなくてもこれが、ただの書物ではないことは分かった。


 なぜなら、その羊皮紙の束のいちばん上に一枚の羊皮紙が載っていて、そこに赤い封蝋が押されていたからだ。


 その封蝋の紋章をティコは知っていた。


 港のねずみは字は読めなくとも紋章は読める。どの氏族の紋章がどの荷につけられるか。それを知らなければ、盗む荷を選べないからだ。


 その封蝋の紋章はタルペア家のものではなかった。


 オルペス・ネクィアの紋章だった。


* * *


 ティコがその意味を考えるより先に倉庫の奥の暗がりから、声がした。


 「──ずいぶん、若い"ねずみ"だな」


 ティコは凍りついた。


 声のほうを見た。倉庫の奥の荷の陰から一つの大きな影がゆっくりと立ち上がった。


 大鬼人《オーガ》だった。


 巨躯の寡黙そうな、大鬼人《オーガ》。マゴラトでは蛮族が市井に暮らすのは珍しくない。大鬼人《オーガ》の用心棒も荷担ぎもそこら中にいる。だが、この大鬼人《オーガ》の静かな圧するような気配は、ただの荷担ぎのようなものではなかった。


 「その木箱に」と大鬼人《オーガ》は低い声で言った。「手を出すな──それは"俺ら"のもんだ」


 ティコは木箱の蓋を掴んだまま、動けなかった。


 逃げるという考えが、まず頭をよぎった。港のねずみは逃げるのが得意だ。だが、この大鬼人《オーガ》の静かな構えを見れば、逃げ切れないことは明らかだった。窓までたどり着く前にあの太い腕に掴まれるだろう。


 「あんた」とティコは掠れた声で言った。「タルペア家の用心棒か」


 大鬼人《オーガ》は少しのあいだ黙っていた。それから、意外なことに首を横に振った。


 「それは違う」と彼は言った。「俺はカンパニアの盾だ。名はガルナ」


 カンパニア。──ティコはその名を聞いたことが、あった。


 クィント・カンパニア。マゴラトで金融業を営む、兎人《ラゴニア》の一族の当主。だが、タルペア家のような貴族の金融とは違う。カンパニア家は身分の後ろ盾を持たない異邦の一族だ。眠れる神レヒトの子孫を名乗る離散の民。金貸しという生業ゆえにどの土地でも疎まれ、憎まれる。カンパニア家はマゴラトで長く嫌われ者として生きてきた。


 その嫌われ者の一族が、生き延びるために抱えている用心棒。それが、このガルナだった。


 「カンパニアの盾が」とティコは混乱しながら、言った。「なんで、タルペア家の倉庫にいるんだ。それにどうやって......」


 ガルナはまた、少しのあいだ黙った。


 それから、彼は静かに言った。


 「その木箱を盗みに来たからだ。そんで、方法は教えられない。」


 ティコはその言葉の意味を量りかねて、身構えたままだった。


 カンパニアの盾がタルペア家の倉庫のこの木箱を盗みに来た。──ということはこの木箱はカンパニアにとっても価値がある。そして、この巨躯の大鬼人《オーガ》はティコが同じ木箱に手を出しているのを見た。競争相手として、ティコを始末しようとするかもしれない。港のねずみ一人桟橋の下に沈めるのはこの大鬼人《オーガ》には造作もないことだろう。


 ティコはじりじりと、窓のほうへ後ずさった。


 「落ち着け」とガルナが低く言った。「騒げば夜警に気づかれる。──そうすれば、俺もお前も両方捕まるぞ」


 ティコは足を止めた。確かにそれは道理だった。


 「あんた」とティコは掠れた声で言った。「俺をどうする気だ」


 ガルナはしばらくティコを見ていた。その静かな目が暗がりの中で、ティコを値踏みしていた。


 「お前は」とやがて、大鬼人《オーガ》は言った。「なぜこの木箱を狙う。金のためか」


 「違う」とティコは言った。「人を探してる。フェリオって獣人の若者だ。──こいつをこの倉庫に運んだ後で消えた。こいつの中身を確かめれば、フェリオがなぜ消えたのか分かるかもしれねえ」


 ガルナの目がわずかに動いた。


 「......フェリオ」と彼は繰り返した。「──その名は聞いたことがある。オルペスの使い走りをした、若者だな」


 「知ってるのか!」


 「詳しくは知らん」とガルナは言った。「だが、クィントさまがその名を口にしていた。この木箱を運んだのがその若者だと。──お前はその若者の身内か」


 「兄貴分だ」とティコは言った。


 二人はしばらく暗がりの中で、互いを見ていた。港のねずみと兎人《ラゴニア》の盾。それぞれ別の理由で、同じ木箱を狙ってこの倉庫に忍び込んだ二人。


 ――そのとき、倉庫の扉のほうで音がした。


 鍵の回る音だった。


 ティコとガルナは同時にそちらを見た。夜警の一人だろう。定刻の見回りとは違う。誰かが中に入ってこようとしている。


 「ここで鉢合わせれば」とガルナが素早く囁いた。「二人とも終わりだ。──お前、来た道分かるか?」


 ティコは一瞬で、腹を決めた。


 この大鬼人《オーガ》と手を組むか、それとも独りで逃げるか。

 独りで逃げれば、木箱は手に入ってもその後が見えない。それに敵《オルペス》の敵は味方ともいう。カンパニア家についていけば、フェリオの手がかりを得られるかもしれない。何より木箱の台帳を読めるものはカンパニア家にはいても、"港のねずみ"にはいない。──ならば。


 「分かる」とティコは囁き返した。「あんたがそれを運べ。俺が先導する。──夜警が二人。一人は今扉から入ってきてて、もう一人はたぶん外をまだ回ってる。裏の窓から出る。俺が出るべきタイミングを示すからついてこい」


 ガルナは迷わなかった。片腕で木箱を軽々と抱え上げた。人が一人入るには小さいほどの、その木箱を。


 扉の閂《かんぬき》が外れる音がした。


 ティコは荷の影を縫うように走った。夜警の足音が倉庫の中に入ってくる。ティコはその足音と逆の方向へガルナを導いた。

 荷の山のいちばん暗いところを通って行く。ティコの頭の中には、暗がりの地図が既に入っていた。どこに身を隠せるか、どこを通れば足音が響かないか、そのすべてを。


 裏の高い窓にたどり着いた。外の下を覗いた先には誰もいなかった。


 「ここから出ろ」とティコは囁いた。「木箱を先に外へ。あんたはその後だ。──窓の下は暗がりだ。もう一人の夜警は、今は下にいない。急げ」


 ガルナは木箱を窓の外へ投げた。

 ――勢いよく落ちたのにもかかわらず、しかし落ちた先には音がしなかった。それから、その巨躯を構成する骨肉が驚くほどに縮んだ。その縮んだ体を静かに窓枠へ通した。

 大鬼人《オーガ》とは思えぬ、身のこなしだった。──長年嫌われ者の一族を守ってきた盾は、こうした隠密の技......奇術も身につけているのだろう。


 最後にティコが窓を抜けた。


 二人が倉庫の外の暗がりに降り立ったとき、倉庫の中と周辺から夜警のいぶかしむ声が聞こえた。「おい、誰かいるのか!?」だが、それに答える声はなかった。


 夜警は荷の山をしばらく見回してから、やがて、扉を閉めて去っていった。


 ティコとガルナは暗がりで、息を殺していた。


 やがて、ガルナが低く言った。「──やるな、"ねずみ"」


 「あんたこそ」とティコは言った。「大鬼人《オーガ》のくせに、粘体生物《スライム》みたいだな」


 初めて、ガルナの厳めしい顔にかすかな、笑みのようなものが浮かんだ。

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