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忘却と寂然の地にて  作者: 一生坊主
"港のねずみ" ティコ
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2/24

第二節 唯一の財産

* * *


 港のねずみは、生き延びるために大人の言うことを聞く。

 だが、ティコにはもう一つ港のねずみとして、譲れないものがあった。


 『家族を見捨てない』


 それだけは、この臭い区画のいちばんの掟だった。上の世界には通じない彼らの世界だけの掟。フェリオはその掟をティコに教えた男だった。その男を、掟に反して見捨てられるはずがなかった。


 ティコはまず、情報を集めた。


 それは彼の得意なことだった。

 "港のねずみ"たちは、荷だけでなく人の動きも読むことができる。


 まず、彼は臭い区画の子供たちを集めた。二十人ばかりの身寄りのない子供たち。

 人間の子が多かったが、それだけではない。片親が蛮族だったらしい、褐色の肌に鱗の混じった亜竜人《リザードマン》の血を引く少女。親に捨てられた小犬人《コボルト》の兄弟。──臭い区画には種族の別などなかった。飢えた腹には種族の別などない。誰もが同じ悪臭を吸い、同じ桟橋の下を覗いて暮らしていた。


 「いいか、みんな」とティコは子供たちに言った。「フェリオの兄貴が消えた。探すのを手伝ってくれ。金はねえ。でも見つけたら、次の荷運びのいい口をお前らに回してやる」


 子供たちは頷いた。

 フェリオは彼らにとっても憧れだった。港のねずみから上へ這い上がった、数少ない一人。その男が消えたと聞いて、子供たちの目に静かな怒りのようなものが宿った。


 港のねずみの目と耳は、この都市のいちばん低いところに張り巡らされている。

 誰も彼らを警戒しない。大人たちは路地の隅の痩せた子供を、風景の一部としか思わない。──だからこそ、ねずみは覗いている。大人が見られていると気づかない場所で、すべてを見ている。


 ティコは子供たちを都市のあちこちに放った。オルペスの屋敷の界隈へ。ギルドの周りへ。そして桟橋へ。


 ――断片が少しずつ集まってきた。


 オルペスの屋敷の界隈を張っていたある子は二日前の夜、屋敷から一台の荷車が出たのを見たらしい。御者は顔を隠しており、荷車には木箱が一つ積まれていた、と。木箱はそれほど大きくなかった。人が一人入るには小さすぎた、と。──だから、その木箱にフェリオが入れられて運び出された、というわけではなさそうだった。


 ギルドの周りを張っていた子は、フェリオが二日前の夜を最後にギルドに顔を出していないことを掴んできた。宿にも帰っていない。まるで、二日前の夜に都市から消えてしまったようだった。


 ――"荷車"を追っていた子供がいた。


 カルという十歳の少年だった。人間の子で、足だけは誰よりも速い。カルはその荷車が気になって、こっそり後をつけていたらしい。荷車は港のはずれのある倉庫の前で止まった。木箱は御者によってその倉庫に運び込まれた。そして、しばらく倉庫から御者は出てこなかった。

 当時のカルは、その変わらない状態に飽きて帰った。――だが、その荷運びの際、御者のフードの内側から特徴的な赤毛の獣耳が見えたらしい。


 赤毛の獣耳は、フェリオの特徴だ。赤毛は特段珍しい訳では無いが、フェリオが話していた『オルペスの"使い走り"』とも符合する。調べる価値は十分にあった。


 「その倉庫は」とティコはカルに訊いた。「どこの倉庫だ」


 カルは少し言い淀んだ。それから、声を落として言った。


 「タルペア家の倉庫だ」


 ティコの喉が鳴った。


 タルペア家。──マゴラト最大の金融氏族。当主のリウィア・タルペアは「世界一の大富豪」と呼ばれる女だった。海峡交易の資金の多くは彼女の一族を経由する。執政官ですら選挙資金の面で、彼女に頭が上がらない。二十年前のマゴラトの大火事。その復興事業で、彼女が得た富は他の誰も追随できないほどだった。


 オルペスの屋敷から出た木箱が、タルペア家の倉庫に運び込まれた。


 秘密を握る老翁と、金を握る女。この二人は「マゴラトを裏で回す二人」と呼ばれている。だが、その関係は冷ややかだとも言われている。"金を握る者"と"秘密を握る者"はいつも互いを牽制し合っているのだ、と。


 その二人のあいだで、何かが動いたのかもしれない。


 そして、フェリオは何かを運んだ。運んだ後で、消えてしまった。


* * *


 ティコはその夜、眠れなかった。


 臭い区画のあばら家の隅で、膝を抱えて考えた。


 フェリオを探す。それは決めた。だが、どうやって。オルペスの屋敷に、タルペア家の倉庫に忍び込むか。あの屋敷に"港のねずみ"ごときが忍び込んで、無事に済むはずがない。オルペスは六百年を生き延びてきた男だ。危険を徹底して避けて生きてきた男だ。その屋敷と荷の守りが甘いはずがなかった。


 ――タルペア家の倉庫。木箱が運び込まれた、あの倉庫。


 そこには木箱が運ばれた。恐らくフェリオが運んだ木箱だ。その中身は何だったんだろうか?――それが分かれば、フェリオがなぜ消えたのかも分かるかもしれない。


 危険だ、とティコは思った。あまりに危険だ。


 だが、フェリオはティコのために危険を冒したのだ。断れば弟分が桟橋の下から上がってくるぞと脅されて。フェリオはティコを守るために、あの屋敷に行ったのだ。──ならば、ティコもフェリオのために危険を冒さなくてはならない。それが、"港のねずみ"の掟だ。臭い区画のいちばんの底辺の掟。


 彼は決めた。


 タルペア家の倉庫に忍び込む。


 港のねずみは倉庫に忍び込むことにかけて、玄人ではある。どの倉庫にどんな錠がかかっているか。夜警がどの刻にどこを回るか。荷の隙間のどこに身を隠せるか。──ティコはそのすべてを知ることができる。それが、彼の唯一の財産であり、唯一の武器だった。


 その夜。


 ティコは動いた。

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