↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却と寂然の地にて  作者: 一生坊主
"徴収代理人" アウルス・カエリウス
PR
23/24

第四節 慟哭

    ◆


 その日から、テッサは来なくなった。  

 だがアウルスの日々は変わらない。十日おきに家を回り、金豆の残量を確かめ、次の配給分を少しずつ出した。蔵の番に立ち、記録をつけながら農夫に手渡し、従者のパウロスと二人で粥を食う。これを周辺のいくつかの村でも繰り返した

 冬が深くなると食事はさらに粗末になっていった。


「アウルスさん、だいぶ痩せましたね」とパウロスが言った。


「お前もな」


「あはは、まあでも、俺はもともと痩せてますよ」


 ある日の午後、村を回った帰りに、昔の幼馴染の畑のそばを通りかかった。

 畑は村の外れにあり、冬の手入れをしている人影が見えた。彼が腕を大きく振って声をかけてきたので、アウルスも手を挙げて返した。


 道を戻ろうと振り返った。  

 ――すると、村道の向こうに、テッサが立っていた。井戸の水を汲んでいたのだろう。手に桶を提げていた。  

 テッサと目は合ったが、彼女は何も言わないまま顔を背け、井戸のほうへ歩いていった。


 アウルスは深い溜息をつき、そのまま歩いた。


    ◆


 ダミアノスが死んだのは、雪の止んだ日の昼過ぎだった。  

 村長のヘルモンがそれを伝えてくれた。ダミアノスは秋からずっと床に伏していたようだったから、それ自体に驚きはなかった。だがそれを聞いた瞬間、テッサの顔が浮かび、空っぽの腹の内側でキリキリとした痛みが走った。


 結局、アウルスはテッサの様子を見に行くことにした。  

 テッサの家の粗末な戸口に、上の子が立っていた。テッサの八つになる娘だ。頬がこけて、手首の骨が服の袖口から突き出ていた。


「母さんはどこにいるか知ってる?」


「ダミアノスさんの家だって」


「……いつ出てた?」


「お昼すぎくらーい」


「そっか。ありがとう。お母さんのこと、ずっと大事にするんだよ」


 そう言って彼女の頭を撫でると、アウルスは道を引き返した。  

 ダミアノスの家がある通りに向かうと、向こうからテッサが一人で歩いてくるのが見えた。

 彼女の肩は落ちていて、足取りも重いように見えた。


「テッサ!」


 小走りで近づくと、目のまわりが腫れているのが分かった。  

 さらに、額にも赤い腫れがあった。


「……大丈夫?」


 テッサはアウルスの声を聞くと立ち止まった。  

 そしてアウルスの顔を見上げて、口を開きかけた。


「あ"ぁ"ぁ......」


 声にならない声が漏れ、そのまま膝から崩れ落ちた。  

 アウルスは咄嗟に腕を伸ばして彼女の体を支えた。二人ともしゃがみ込んだ格好になった。


「わ、私......ずっと、金豆《キケル》粉をエイレネに持っていってたの。ほんの少しだけど、うちの分から少しずつ」


 テッサは泣いていた。声を絞り出すように、低く、途切れ途切れに。肩が子供のように細かく震えていた。


 しばらく経って、話した。


「毎日様子を見に行って、水を汲んで、子供の世話を手伝って、できることは何でもやった。エイレネも私の畑をまめに手伝ってくれた」


 テッサはしゃがんだまま、自分の膝を見ていた。


「でも、結局——何もかも足りなかった」


 テッサは袖で顔を拭った。


「エイレネの乳はもう出なくなってた。他の家に頼んで回ったけど、どこも自分の子が先で……。結局、赤ん坊は昨日の夜に死んだの。それで、次はダミアノスが今日の昼過ぎに」


 アウルスは何も言えなかった。ダミアノスの死からだけではなかった。

 テッサは、ごくごく僅かな自分が食べる分を、自らの足で彼らに運んだのだ。しかしそれでも足りなかった——この一部始終を背負ったのは、村長でも司祭でも商人でもなかった。力のない一人の農民、テッサが自らの力で背負おうとしたのだ。

 その事実が、アウルスの腹の底から突き上げてきた。


「......か、駆けつけたときには......家の中が、エイレネと子どもたちの泣き声でいっぱいで......入っていこうとしたら、エイレネが錯乱してて......暴れて、自分の顔を何度も爪で引っ掻いてた」


「……テッサ、その額の怪我は」


「彼女に石を投げられて……出ていけ、全員出ていけって……」


 アウルスはしゃがんだまま、テッサの顔を見た。  

 自分の目から涙が流れているのが分かった。止まらなかった。拭おうともしなかった。そんなことはどうでもよかった。声が震えて、言葉が喉の奥に引っかかった。


「ごめん」


 それしか出てこなかった。


「本当に、ごめんなさい」


 もう一度言って、テッサを抱きしめた。  

 テッサはアウルスの外套をつかんで、声を上げて泣いた。何も言わなかった。ただ縋りつくように肩に顔を埋めて、体を震わせていた。


 通りの向こうから、様子を聞きつけた村人が何人か出てきた。足を止めて、互いの顔を見合わせ、近づくことも離れることもできないまま、おろおろと立っていた。  

 冬の日が傾くのは早かった。空の端が橙から灰色に変わり、二人の影だけが冷えた地面に長く伸びていた。風は凪いでいて、村は静かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。