第三節 諍い
◆
二日後に、テッサはまた来た。
「ダミアノスの家のことなんだけど——」
「テッサ」
アウルスは帳面を閉じないまま、そのままテッサに体を向けた。
「これを見てくれ」
帳面を机の上に広げ、指で数字をなぞった。
――集めた即金の額。都市の商人への送金額。手元に残るだろう金。
テッサは身を乗り出して、その数字を一つずつ目で追った。
ルキア王国では、村や都市の教会や修道会が住民へ文字を教える慣習がある。この王国の高度な分業経済や共同体自治、官僚制を支えているのはこの慣習だった。テッサも文字は読める。
ただ、帳面全体の収支の仕組みまでは分からないようだった。アウルスが一つずつ説明した。この金額はもう都市に送った、この分は代官所への返済に充てなければならない、ここが俺の手元に残っている分なのだ、と。
「……ここの数字が、あなたが都市に納める額なの?」
「ああ」
テッサは帳面から目を離し、黙った。
しばらくして、「ありがとう。ごめんね」とだけ言うと、そのまま帰っていった。
◆
翌日も来た。
今度は入り口に立ったまま、さらに口調も変わっていた。
「"アウルス"、いい?あの人の家には乳飲み子がいるの。母親の乳も出にくくなってる。上の子二人は痩せて、もうほとんど動かなくなってきてるのよ」
テッサの声は低く、今度の言葉には固い意思が滲んでいた。
「あんた、数日おきに村を見回ってるでしょう。見てるはずよ」
「……それで?」
アウルスは帳面に目を落としたまま、テッサの顔を見ずに答えた。
「ダミアノスの家だけじゃない。受給簿に載っていない家はまだいくつもある」
「だからこそ、一軒だけ特別扱いはできないと言ってるんだ!」
アウルスの手のひらが帳面ごと机を叩いた。乾いた音が教会の壁に跳ね返った。
テッサの肩がびくりと跳ねた。
だが、テッサは椅子の背を強く握ったまま、しばらく黙っていた。痩せ細った指の関節が白くなっていた。
それから口を開いた。
「じゅ——十二年前の冬のこと、忘れてないでしょうね」
アウルスの手が止まった。
テッサの顔に目をやった。彼女の隈の刻まれた目は大きく見開かれて、こちらを射抜いていた。口元と声は細かく震えていた。
「う、うちらがあんたを置いてやらなかったら、あんたは今ここに生きて立ってなかったでしょ。父さんがあんたを引き取って、食べさせて、司祭に話を通して、都市に養子に出したじゃない」
声がしだいに大きくなった。抑えようとして、抑えきれなくなっていた。
「——そのあんたが今ここにいて、帳面を持っていて、誰に配るかを決めて、そんで取った利子を"カエリウス家"に持っていこうとしてる。そうよね」
「それなのに! なんでダミアノスの家一つ助けられないの!」
アウルスは息を吸い込んだ。言葉が出てこなかった。——それは、と言いかけて詰まった。テッサの言っていることはすべて事実で、否定できることは一つもなかった。
だが、事実であることと、だからダミアノスの家に金豆を回せるかどうかは、別の話だった。
「……俺だって自分の金でこの仕事をやってんだ!」
自分でも声が大きくなっているのが分かった。そうなるつもりはなかった。
空腹でお互い気が立っているのかもしれないとも思ったが、沸き上がる言葉を抑えきれなかった。
「分かるか!?この村の連中の金豆を建て替えてやってるのは俺なんだよ!俺の家――カエリウス家は今こういう案件をこの村だけじゃなくて、あと六件もやってんだ!今の俺らは代官所にも大量に借金がある。飯だってしばらく満足に食えてないんだ!」
息が切れた。だが言葉は止まらなかった。
「それに、ダミアノスに出す金が仮にあったとして、そうしたら別の家にしわ寄せがいくんだよ!仮に俺が村の金豆百八十口を全部建て替えたとしても、今この村にある金豆の数は変わんねえって言ってんだ!受給簿に載れなかった家はいくつもあんだよ!こんな狭い村で一軒に融通したとき、俺も私もって言われたらどうすんだよ!今ですら村の空気は悪くなってんだから!」
テッサへ怒鳴る中、ふとカエリウス家のことがよぎった。
養父の家——代官所に代々書記を送り出してきた家柄だが、先代の伯が亡くなって以来、新しい伯との関係は冷え込んでいた。養父が流行り病で倒れてからは、義兄たちがアウルスに向ける目はさらに厳しくなった。
血の繋がらない弟が家に置いてもらえるのは、使い走りの仕事で結果を出しているあいだだけだ。この越冬貸付のような、これといって名誉的でもない案件を引き受けるのも、それが理由だった。ここでさらに持ち出しを増やして焦げつかせたら——俺の帰る場所がなくなる。
だが、そんなことをテッサに言えるはずがなかった。
「俺にも色々事情があるんだよ!」
テッサも引かなかった。
「事情って何よ!あんた自分でギリギリだって言ったけど、カエリウスの家にはあんた以外にも人も金も、伝手もあるでしょう!ねぇ、こっちは生きるか死ぬかなのよ?お願い、助けてよ!」
「だからないんだって!動かせる金豆も金ももうないんだ!」
「ダミアノスの家の子供が死んだら、あんたはそれでいいの!?」
「.....よくはないよ。だけど、俺に何ができるんだ!」
声がぶつかり合って、教会の中に反響した。アウルスが乱雑に帳面を広げて数字を指せば、テッサは村人の窮状を言った。配分を変えられるはずだとテッサが詰め寄ると、アウルスはもうないと突き返した。
教会に怒鳴り声が響き渡ると、司教のイグナスは無言で戸を閉めた。
しばらく言い合ったが、どちらの言い分も相手を崩すことはできなかった。
最終的にテッサが立ち上がり、何も言わずに出ていった。




