第十節 大共和帝国"レーム"
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ルフスは生き延びた。
護民官ガイア・プレビリアの介入と、前代未聞の騒動の後始末をめぐる様々な思惑の中で。──だが、あの日砂の上で起きたことは、砂の上だけでは終わらなかった。
ガイアは動いた。
彼女は騒動の直後から、護民官の権限によって闘技場の帳簿と契約書を洗い始めた。──出てきたものは酷いものだった。字の読めない志願者に読ませぬまま押させた印。法外な違約の条項。返済の近づいた剣闘士に都合よく"発見"される"捏造された"借金。帳簿の隅には、ルフスの父の名で仕立てられた「新たな借金」の下書きまで残っていた。そして脅迫、折檻、市民であるはずの志願剣闘士への、実質的な虐待の数々。
ガイアはデキウスを告発した。
志願剣闘士は奴隷ではない。レームの市民である。その市民を騙し、脅し、捏造した借金で砂に縛りつけた──告発状はそう述べていた。
裁判は長くはかからなかった。デキウス・アラトスはレーム市民権を剥奪された。さらに、市民の庇護を失ったその身は、闘技場の獣に投げ与えられる――猛獣刑に処されることとなった。
処刑の日、老獣人は武器も鎧も持たぬまま、馴染み深い砂の上へ引き出された。――かつて自分が幾人もの市民を縛りつけた、その同じ砂の上へ。
市民たちは、その日もひとつの物語を楽しんでいた。数多の市民を食い物にした悪党が、丸裸で砂に転がされ、惨めに嬲られて果てていく──後味のよい正義の筋書きを。
歓声はいつもと変わらず沸いた。デキウスの悪行に、自分たちは関係がないというようだった。
そして、ルフスは自由になった。
頂上決戦の賞金は莫大だった。跳ね上がった賭け金。そこに、デキウスの没収財産からの賠償が加わり、捏造と認められた借金は無効とされた。──借金は消えたどころか、多くの金が手元に残った。――本来剣闘士が受け取れるはずのないほどの額だった。
ルフスはその金で、市壁の外に広大な農地を買った。かつて父が耕し、少しずつ手放していった土地を含む、一帯の広大な農地を。
ルフスは奴隷を買わなかった。
代わりに、土地を失った貧しい市民を小作農として雇い入れた。かつての父のような、かつての自分のような者たちを。──だが、その徴収する小作料はほんの僅かにした。そして、ルフスは彼らに約束した。払った小作料の累計が地価を上回ったとき、その土地はお前のものになる。お前は自由農民に戻るのだ、と。
小作農地では主に、葡萄を育て、酒を醸した。一般的な農場奴隷では、奴隷による雑な剪定によって蔓が傷むことが多く、これが病害を招いていた。だが、ルフスの小作人は、やがて我が物になる畑を、自分の指のように手入れした。結果的に値段では敵わずとも、味では敵わせなかった。ルフスの畑の上質な葡萄酒は、いつしかレームの食卓に名を呼ばれるようになった。
ルフスは利潤を農地の拡大に充てた。農地が広がれば、雇える者が増えた。雇った者がやがて自由農民になる頃には、その隣にまた新しい者を雇った。また、彼らの一部が生活に困窮した際にお金を出し合う契約――共済金も創った
――それは緩やかな仕組みだった。だが着実に、レームに広がっていった。
「もう少しだぞ」とルフスは、雇った小作と会うたびに言った。「あと数年すれば、自由が見えてくる。──もう少しだ。気合を入れろ」
だが、砂の上での「もう少し」とは違う。あれは決して届かぬよう吊るされた餌だった。
『勝てば勝つほど、貧しくなる』──父は死ぬまでそう言っていた。
――ならば、とルフスは思った。俺の土地では逆にしてやる。働けば働くほど、自由に近づく土地に、そういうレームにしてやる。
スパルドの想い人は見つからなかった。
手がかりを辿って分かったのは、その森精人の女が十年ほど前にレームを去ったらしい、ということだけだった。行き先は誰も知らなかった。森精人は長く生きる。この広い世界のどこかで、今も生きているのだろう。
伝えられなかった言葉を、ルフスは抱えて生きることにした。──『あんたのくれた夢で、二十年生きた男がいた』――スパルドの言葉だ。いつかどこかで彼女と会えたなら、それを伝える。それまでは俺が憶えている。
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闘技場そのものは、結局なくならなかった。
護民官ガイアはそれを承知していた。闘技場は市民の不満のはけ口であり、なくせば不満は行き場を失う。支配層は決して手放さない。──だから、彼女は正面からではなく、搦め手で攻めた。
まず、志願剣闘士には試合前の誓約書が義務付けられた。死の危険を承知し、それでも自らの意志で砂に立つと誓う書面。観客の目の前で読み聞かせた上で、署名か押印を押させる。──さらに、その誓約が脅しや騙りなしに公正に行われているかを監視する監査官が置かれた。市の予算ではなかった。ガイアと、有志の私財で賄われた、しかし公的な権限を持つ監査官だった。
剣闘奴隷については別の理屈が使われた。人道ではない。奴隷供給の逼迫と歳入の拡大──その口実の下で、剣闘奴隷が砂の上で死ぬたび、興行側が多額の税を納めねばならない法案が通った。対外遠征によって枯渇した国庫の存在もあり、容易にこの法案は通った。これにより今後、興行師たちは奴隷を安易に死なせなくなった。死なせれば損をするからだ。
もっとも、市民の剣闘への熱は収まらなかった。
むしろ、ガイアへの憎悪が増した。出資側の富裕層は当然として──貧困層の一部、平民の一部までもが彼女を嫌うようになった。彼らは、剣闘の無料席の増枠を訴えていた。血の見世物は、日々の糧にも困る者たちに残された、数少ない娯楽だったからだ。──貧しい者の血を吸う構造を締め上げた護民官を、貧しい者の一部は憎んだ。ガイアはその皮肉を静かに受け止めた。
「我欲のはきだめ」と彼女は一人呟いた。「──この闘技場はレームという都市の縮図だ。それは変わらない。征服で肥え太り、その影で貧しい者が殺し合い、さらにその殺し合いを娯楽として消費する。この構造が続く限り、第二のルフスが、第三のスパルドが囚われかけるだろう」
だが、と彼女は思う。
あの日、砂の上で二人の剣闘士が殺し合いを拒んだ。客の望みどおりには死ななかった。──それはこの非情な構造に開いた小さな風穴だった。そして今度は、その風穴は塞がれなかった。誓約書という楔が、監査官という楔が、税という楔が、小さな穴を小さいままに、しかし確かにこじ開けていった。市壁の外では、"砂上の夢"――ルフス・トロガスが、貧しい者たちに、餌ではない「もう少し」を授けていた。
レームの構造はまだ続く。彼女一人の力ではそれは変わらない。──だが、それでも......
闘技場の上空を鳥が舞っていた。
中央には今日もまた新しい砂が撒かれるだろう。次の血を待つ、乾いた砂が。
しかし、血を底なしに吸う闘技場の砂でも吸えない夢は、確かにあったのだ。




