↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却と寂然の地にて  作者: 一生坊主
"砂上の夢" ルフス・トロガス
PR
18/24

第九節 砂上の夢

ーーーーーーーーーーーーー


 その光景を護民官ガイア・プレビリアは観客席から見ていた。


 二万の観客が怒声を上げていた。裏切られたと。金を返せと。彼らは血を見に来た。だが、その血が彼らの望むものと違っていた。剣闘士が殺し合いを拒む。それは彼らの娯楽を否定するものだった。


 ガイアは立ち上がった。


 彼女は護民官だった。

 護民官とは、執政官に次いでレームで二番目に強い権限を持つ公職である。さらには、貴族には就くことが許されず、平民が複数で担当するレームの要職。『法案拒否権』や『身体不可侵権』をはじめとする強力な権限を持つ、平民の代表である。

 ──だが、その権限は闘技場の砂の上には及ばない。彼女にできることは限られていた。


 だが、彼女は動いた。


 「止めなさい!」と彼女は叫んだ。護民官の声だった。よく通る声だった。「その二人の剣闘士を殺すことを、私は護民官の名において止める! 特に彼、ルフスはレームの市民だ! 志願剣闘士は奴隷ではない! 市民を見せしめに殺すことは許さない!」


 闘技場がざわめいた。


 ――護民官が有するもう一つの特権『救済権』。これは公権力から市民を保護する権限。しかし、剣闘試合とは市民による私的な空間であり、加えて剣闘契約とは私法である。本来ならこの権限は剣闘士には及ばない。だが、その政治的な圧力は無視できるものではなかった。主催者は迷った。デキウスが蒼白なまま主催者に何か耳打ちした。──稼ぎ頭を失うことへの計算。護民官を敵に回すことへの計算。そして、この前代未聞の騒動がどう転がるかへの計算。


 ――だが、ガドバは剣を止めなかった。


 「うるせえ!」と大鬼人《オーガ》は笑った。「護民官がなんだ!権限がなんだ! 俺は殺しがしたいんだ! 俺はさっき、こいつらを殺すことを許された! なら、殺す! それだけだ!」


 彼は二人に斬りかかった。


 ルフスとスパルドはそれを受けた。二人がかりで。ガドバは強かった。殺しを愉しむその狂気は凄まじい力を生んだ。ルフスの技とスパルドの二十年の経験をもってしても、勝算は決して高くないだろう。


 砂の上で三人が激突した。


 血が飛んだ。砂がそれを吸った。──客席は皮肉にも、その本物の殺し合いにまた沸き始めていた。演説より共闘より血のほうが彼らには分かりやすかった。彼らはまた血を見ていた。それで満足しかけていた。


 だが、その戦いの最中。


 スパルドが動いた。


 彼はガドバの剣を自らの身で受けた。わざと。大鬼人《オーガ》の剛剣がスパルドの腹を深々と貫いた。──だが、その一瞬ガドバの体勢が崩れた。そして、その崩れた隙にルフスの剣がガドバの首を刎ねた。


 大鬼人《オーガ》の巨体が砂の上に崩れ落ちた。


 殺しを愉しんだ男は最後まで笑っていた。自分が殺されることすら余興だと言わんばかりに。


 そして、"砂上の華"スパルドも砂の上に崩れた。


 「スパルド!」とルフスは叫んだ。彼のそばに駆け寄った。


 悪魔人《ダイモニオン》の腹から血が流れ出していた。もう助からない深さだった。この地では魔法的な治療も乏しい。──スパルドは死のうとしていた。


 「ルフス」とスパルドは掠れた声で言った。「──これでいい」


 「なんで」とルフスは言った。声が震えた。「なんでわざと受けたんだ! せっかく二人で生き延びようとしたのに! ──あんたには夢があるんだろう。あの人と静かに暮らすっていう、たった一つの夢が!」


 スパルドは薄く笑った。


 「……正直に言おう」と彼は言った。「あの夢はな……とっくに死んでいたんだ......──何年か前の、ある日。ふと気づいた。俺はもう、彼女と暮らす日が来るなんて、心の底では信じていないと。……辛い夜には、あの夢を糧にした。あの夢の話をお前にもした。だが、心底では信じていなかった。──夢というのはな、ルフス。信じていなくても、糧にはなる。惨めな話だが、本当だ」


 「スパルド……」


 「だから、今の俺の夢は、別のものだ」とスパルドは言った。血の混じる息の下で。「──お前だ。お前が生きて、この砂を出る。自由になる。……それが俺の夢だ。……いいか、これは諦めじゃないぞ。俺が選んだんだ。俺の夢のために、俺の意志で死ぬ。──これが、俺の自由だ」


 彼は震える手でルフスの腕を掴んだ。


 「だがもし……いつか彼女に会うことがあったら……伝えてくれ。……あんたのくれた夢で、二十年生きた男がいたと。……それだけでいい」


 「スパルド……!」


 「なあ、ルフス」と悪魔人《ダイモニオン》は最後の力で笑った。「砂は……血をよく吸う……だが……夢までは吸えない……。──俺の最後の夢は……どうやら……叶いそうだ……」


 その手が力を失った。


 スパルドは砂の上で事切れた。──最後の夢の、その叶う先を見つめたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。