第九節 砂上の夢
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その光景を護民官ガイア・プレビリアは観客席から見ていた。
二万の観客が怒声を上げていた。裏切られたと。金を返せと。彼らは血を見に来た。だが、その血が彼らの望むものと違っていた。剣闘士が殺し合いを拒む。それは彼らの娯楽を否定するものだった。
ガイアは立ち上がった。
彼女は護民官だった。
護民官とは、執政官に次いでレームで二番目に強い権限を持つ公職である。さらには、貴族には就くことが許されず、平民が複数で担当するレームの要職。『法案拒否権』や『身体不可侵権』をはじめとする強力な権限を持つ、平民の代表である。
──だが、その権限は闘技場の砂の上には及ばない。彼女にできることは限られていた。
だが、彼女は動いた。
「止めなさい!」と彼女は叫んだ。護民官の声だった。よく通る声だった。「その二人の剣闘士を殺すことを、私は護民官の名において止める! 特に彼、ルフスはレームの市民だ! 志願剣闘士は奴隷ではない! 市民を見せしめに殺すことは許さない!」
闘技場がざわめいた。
――護民官が有するもう一つの特権『救済権』。これは公権力から市民を保護する権限。しかし、剣闘試合とは市民による私的な空間であり、加えて剣闘契約とは私法である。本来ならこの権限は剣闘士には及ばない。だが、その政治的な圧力は無視できるものではなかった。主催者は迷った。デキウスが蒼白なまま主催者に何か耳打ちした。──稼ぎ頭を失うことへの計算。護民官を敵に回すことへの計算。そして、この前代未聞の騒動がどう転がるかへの計算。
――だが、ガドバは剣を止めなかった。
「うるせえ!」と大鬼人は笑った。「護民官がなんだ!権限がなんだ! 俺は殺しがしたいんだ! 俺はさっき、こいつらを殺すことを許された! なら、殺す! それだけだ!」
彼は二人に斬りかかった。
ルフスとスパルドはそれを受けた。二人がかりで。ガドバは強かった。殺しを愉しむその狂気は凄まじい力を生んだ。ルフスの技とスパルドの二十年の経験をもってしても、勝算は決して高くないだろう。
砂の上で三人が激突した。
血が飛んだ。砂がそれを吸った。──客席は皮肉にも、その本物の殺し合いにまた沸き始めていた。演説より共闘より血のほうが彼らには分かりやすかった。彼らはまた血を見ていた。それで満足しかけていた。
だが、その戦いの最中。
スパルドが動いた。
彼はガドバの剣を自らの身で受けた。わざと。大鬼人の剛剣がスパルドの腹を深々と貫いた。──だが、その一瞬ガドバの体勢が崩れた。そして、その崩れた隙にルフスの剣がガドバの首を刎ねた。
大鬼人の巨体が砂の上に崩れ落ちた。
殺しを愉しんだ男は最後まで笑っていた。自分が殺されることすら余興だと言わんばかりに。
そして、"砂上の華"スパルドも砂の上に崩れた。
「スパルド!」とルフスは叫んだ。彼のそばに駆け寄った。
悪魔人の腹から血が流れ出していた。もう助からない深さだった。この地では魔法的な治療も乏しい。──スパルドは死のうとしていた。
「ルフス」とスパルドは掠れた声で言った。「──これでいい」
「なんで」とルフスは言った。声が震えた。「なんでわざと受けたんだ! せっかく二人で生き延びようとしたのに! ──あんたには夢があるんだろう。あの人と静かに暮らすっていう、たった一つの夢が!」
スパルドは薄く笑った。
「……正直に言おう」と彼は言った。「あの夢はな……とっくに死んでいたんだ......──何年か前の、ある日。ふと気づいた。俺はもう、彼女と暮らす日が来るなんて、心の底では信じていないと。……辛い夜には、あの夢を糧にした。あの夢の話をお前にもした。だが、心底では信じていなかった。──夢というのはな、ルフス。信じていなくても、糧にはなる。惨めな話だが、本当だ」
「スパルド……」
「だから、今の俺の夢は、別のものだ」とスパルドは言った。血の混じる息の下で。「──お前だ。お前が生きて、この砂を出る。自由になる。……それが俺の夢だ。……いいか、これは諦めじゃないぞ。俺が選んだんだ。俺の夢のために、俺の意志で死ぬ。──これが、俺の自由だ」
彼は震える手でルフスの腕を掴んだ。
「だがもし……いつか彼女に会うことがあったら……伝えてくれ。……あんたのくれた夢で、二十年生きた男がいたと。……それだけでいい」
「スパルド……!」
「なあ、ルフス」と悪魔人は最後の力で笑った。「砂は……血をよく吸う……だが……夢までは吸えない……。──俺の最後の夢は……どうやら……叶いそうだ……」
その手が力を失った。
スパルドは砂の上で事切れた。──最後の夢の、その叶う先を見つめたまま。




