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マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


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第5話「反逆のスクリプト」

灰色の雲の切れ間から、一筋の弱い光が廃村の広場に差し込んでいた。

ライラと老人がオメガの支配地域へと去り、広場には再び死のような静寂が戻っていた。

アルファ共和国軍の歩兵ダニールは、冷たい水を満たした水筒を腰に下げ、重いアサルトライフルを肩に担ぎ直した。

部隊に戻らなければならない。

泥にまみれ、理由のわからない命令に従い、隣で笑っていた戦友が次々と死んでいくあの絶望の塹壕へ。

彼が重い足を踏み出そうとした、その時だった。


「その銃の安全装置を外す必要はない。私には君を害する意図も、その理由もない」


背後から、感情の起伏を一切感じさせない平坦な声が響いた。

ダニールは弾かれたように振り返り、瞬時にライフルを構えた。

銃口の先、崩れかけた教会の鐘楼の陰に、地味な作業着姿の男が立っていた。

泥と血の匂いが染み付いたこの前線には不釣り合いなほど、その男——織部悟の佇まいは静謐で、どこか冷酷な機械のように無機質だった。

「誰だ、お前は。アルファの人間じゃないな」

ダニールは引き金に指をかけ、声を低くして威嚇した。

「私はただの設備点検コンサルタントだ」

織部は銃口を向けられても一歩も動かず、淡々と答えた。

「だが、君たちを無限の殺し合いに縛り付けている『狂ったシステム』の仕様書を書き換えるために来た」

「システムだと……?ふざけるな、ここは戦場だ。民間人がうろついていい場所じゃない。手を上げろ!」

「君の所属する小隊は、明日の夜明けと共に第4セクターへの移動を命じられる。そこでオメガの攻勢に対し、増援なしで防衛ラインを維持するよう指示されるはずだ」

ダニールの息が止まった。

それは、数時間前に小隊長から非公式に知らされていた、極秘の作戦行動だったからだ。

「なぜ、それを知っている……?」

「私はすべてを知っている。君たちが何のために戦わされているのかも」

織部は手元の小型端末を操作し、傍受した音声データを再生した。


『第4セクターへの増援は許可できない。現在のラインを維持しろ』

『しかし、それでは前線の部隊が孤立します!オメガの攻勢が強まれば持ちこたえられません』

『オメガの補給線は伸びきっている。三日耐えれば自然に崩れる。作戦マニュアルの第十二項を参照したまえ。……我々の指示通りに動けばいい』


ダニールの顔から血の気が引いた。

前段は彼自身の部隊の小隊長の声だ。

悲痛な懇願が滲んでいる。

そして後段の冷酷な声は、前線の兵士たちの間で「死神」と恐れられている、ヴァラン共和国から派遣された軍事顧問団の将校のものだった。

「これが、君たちが命を懸けている戦争の正体だ」

織部は音声を止め、冷徹な視線でダニールを見据えた。

「ヴァランの顧問団は、君たちアルファ軍に『勝つこと』を禁じている。彼らにとって重要なのは、決定的な勝利を避け、適度に血を流し続けさせ、オメガという軍事的脅威を存続させることだ。そうすれば、彼らはこの国に軍を駐留させ続け、豊かな資源の利権を合法的に吸い上げることができる」

「嘘だ……」

ダニールの銃口が、微かに震え始めた。

「俺たちは、祖国を守るために戦っているんだ!ヴァランは、俺たちに武器と食料を支援してくれている同盟国だぞ!」

「同盟国なら、なぜ君たちを『遅滞戦闘』の捨て駒にする?明日の作戦で、君の小隊の生存率は計算上、十五パーセントを下回る。君たちが全滅することで、オメガの弾薬を三日間消耗させる。それが、ヴァランの設計したシステムにおける、君たちのタスクだ」

銃が、ダニールの手から力なく下ろされた。

昨日、頭を撃ち抜かれて死んだ戦友の顔がフラッシュバックする。

彼の死は、国を守るための尊い犠牲などではなかった。

ただ、ヴァランが戦争を長引かせるための「無意味な砂袋」として消費されただけだったのだ。


圧倒的な絶望が、ダニールの心を黒く塗りつぶしていく。

彼は膝から崩れ落ち、泥だらけの地面に両手をついた。

「俺は……俺たちは、何のために血を流してきたんだ……」

嗚咽が漏れた。農家の息子として育ち、家族を守るために銃を取った。

その純粋な思いが、遠く離れた安全な会議室で、冷酷な数字として処理されていたという事実。

彼は自分が一人の人間ではなく、盤上の歩兵以下の存在だったと悟り、精神の限界を迎えようとしていた。


織部は、その姿を冷ややかに見下ろした。

だが、彼の脳裏には数分前の「3秒の処理遅延」が引っかかっていた。

ライラとダニールのやり取りを見たときに生じた、あの説明のつかない感情のノイズ。

目の前で絶望に打ちひしがれる兵士に対して、織部は一切の同情を抱かない。

感情はシステムを解析する上で不要なパラメーターだ。

しかし、この兵士が抱く底知れぬ「絶望」と、先ほどの医療支援員ライラが残した「未来への祈り」という希望の光——それこそが、システムを破壊するための最強のマルウェアになることを、織部は完全に理解していた。

絶望の最盛期にこそ、人間は自らの限界を超える力を発揮する。


「絶望している暇はない。君には、どうしても帰るべき場所があるはずだ」

織部の冷たい声が、ダニールの耳を打つ。

「黄金色に実った故郷の麦畑と、君を待っている家族の笑顔。そして……先ほどの彼女が夢見た、敵も味方もない病院が建つ未来。それらを取り戻すための、唯一の手段がここにある」

ダニールは泥だらけの顔を上げた。

絶望に沈んでいた虚ろな瞳に、微かな光が宿る。

「手段……?俺に、何ができるっていうんだ。ただの使い捨ての駒に」

「システムを内側からクラッシュさせるんだ」

織部は作業着のポケットから、黒く小さなデバイスを取り出し、ダニールの前に放り投げた。

それは泥の上に転がり、鈍い音を立てた。

「超小型の録音・送信デバイスだ。明日の作戦前、君はヴァランの軍事顧問団がアルファ軍の将校に『理不尽な死守命令』を下す現場に近づき、その音声をこれで記録しろ」

「そんなことをして、何になる……?」

「ヴァランがアルファの軍事権を完全に支配し、同盟条約の範囲を逸脱して戦争をコントロールしているという『明白な証拠』になる。そのデータは、私の協力者を通じて国際調停委員会とヴァラン国内のメディアに一斉に暴露される」

織部は一歩、ダニールに近づいた。

「現在、ヴァラン国内では戦争からの撤退を求める世論が確実に高まっている。政府が動けないのは、条約の『脅威がある限り撤退不可』という鎖に縛られているからだ」

ダニールが息を呑むのがわかった。

織部は言葉を続ける。

「だが、その『脅威』を自国の軍が意図的に長引かせているという証拠が白日の下に晒されたら、世論はどう反応する?政府と議会は、その後どうせざるを得なくなると思う?」

ダニールの頭にも、その鮮やかな逆転のプロセスが痛いほどに理解できた。

だがそれは同時に、彼自身に多大な危険を強いるものだった。

「俺に、スパイになれと言うのか。見つかれば反逆罪で即刻銃殺だ」

「何もしなくても、明日の夜には君の小隊は全滅し、君は死んでいる。ただ黙って仕様書通りに死ぬか、仕様書に自らバグを打ち込んで未来をもぎ取るか。選べ」

冷酷で、しかし明確な二者択一。

ダニールは泥だらけのデバイスを見つめた。

泥に汚れた震える手で、胸のポケットを外から強く握りしめる。

そこには妻と娘の折り畳まれた写真がある。

そして脳裏に蘇るのは、「生き延びて、一人でも多くの人を助ける」と言って真っ直ぐに自分を見たライラの澄んだ瞳だ。

ただの使い捨ての駒として、この泥の中で無意味に死ぬか。

それとも――あの祈りのような未来を、自らの命を懸けて引き寄せるか。

ダニールは泥にまみれたデバイスへと手を伸ばし、それを力強く握りしめた。

「……やる。ただ仕様書通りに死ぬくらいなら、俺の命でこの狂った歯車をぶっ壊してやる」

「感情は要らない。必要なのは、正確なデータだけだ」

織部は踵を返した。

「健闘を祈る、ダニール」


ダニールがデバイスを胸のポケット——家族写真と同じ、心臓に最も近い場所——にしまい、決意の足取りで部隊へと戻っていくのを、織部は鐘楼の陰から見送った。

彼の背中が完全に見えなくなった後、織部は襟元に仕込んだ通信機を起動した。

「こちら織部。カレン、聞こえるか」

『ええ、聞こえてるよ。首尾はどうだ、織部』

「極めて良好だ。変数パラメーターのセットは完了した。明日、対象は証拠を記録し、システムの中枢へと送信する」

『ついに反撃開始ってわけだ。でも、本当にあの一兵卒がやり遂げられるのかい?相手は泣く子も黙るヴァランの軍事顧問団だぞ』

「彼はやる。人間の『未来を渇望する意志』は、時に我々の論理的計算を凌駕する強力な推進力となる。先ほど、私自身のシステムにも原因不明のエラーを発生させたほどにな」

『なんだって?あんたがエラー?』

「気にするな。一時的なノイズだ。それよりも、受け入れの準備を進めろ」

織部はそう言って通信を切った。鉛色の空を見上げる。

第一段階のコードは、現場の最前線にすべて打ち込んだ。

明日、ダニールの手によってトリガーが引かれれば、停戦交渉という名の終わらない無限ループは致命的なエラーを起こし、崩壊を始める。

泥と血にまみれたこの最前線から、首都の豪奢な会議室のテーブルへと、反撃の炎は一気に燃え広がるだろう。

エイレス・コンソーシアムが三十年かけて構築した堅牢なシステムを、ひとりの名もなき兵士の「想い」が内側から食い破るのだ。

「さあ、デバッグの時間だ」織部の無機質で冷徹な瞳が、次なる展開を見据えて鋭く光った。

【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

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マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

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マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

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マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

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