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マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


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第4話「ダニールとライラ」

乾いた風が、崩れかけた石壁の間を縫うように吹き抜けていく。

アルファ共和国とオメガ民族解放戦線の境界付近に位置する、名もなき小さな村。

かつては豊かなオリーブの木々が茂り、子供たちの笑い声が響き、穏やかな日常が息づいていたはずのその場所は、今や度重なる砲撃と略奪によって半ば廃墟と化していた。

屋根を吹き飛ばされた家屋、焼け焦げた荷車の残骸、砕け散ったステンドグラス。

そして、主を失って久しい痩せこけた野良犬だけが、この村の現在の住人だった。

弾痕だらけの土壁には色褪せたプロパガンダのポスターが引っかかり、風に煽られてパタパタと乾いた、ひび割れたような音を立てている。

織部悟は、ひび割れた教会の鐘楼の陰に身を潜め、高性能の指向性マイクとカメラを備えた小型端末を操作していた。

現在の彼の目的は、前哨基地でのデータ収集に続き、末端の「現場」におけるリアルな変数のサンプリングである。

エイレス・コンソーシアムが構築した「終わらない戦争」の仕様書。

その強固なバグを突くためには、システムが想定していない「例外処理」の存在を現場から見つけ出さなければならない。


広場の中央には、奇跡的に破壊を免れた古い石造りの井戸があった。

この村で唯一、澄んだ水が湧き出る場所であり、暗黙の了解として両陣営の暗闘から外された「中立地帯」だった。

織部のモニターに、一人の若い男の姿が映し出された。

アルファ共和国軍の歩兵、ダニール。

二十代半ばだろうか。

支給されたサイズの合わない軍服は泥と血と汗に汚れ、日焼けした顔には、実年齢を十歳は老けさせるほどの深い疲労の色が刻み込まれていた。

彼の目は虚ろで、足取りは鉛を引きずっているかのように重い。

それは単なる肉体的な疲労だけではない。

終わりの見えない殺し合いと、理由のわからない行軍によって、精神の根幹までがすり減っている証拠だった。

ダニールは井戸の縁に重いアサルトライフルを立てかけ、滑車を回して釣瓶を引き上げた。

冷たい水をすくい、乾ききった喉に流し込む。その喉仏が動く音さえ、織部のイヤホンには鮮明に届いていた。


その時、広場の反対側からもう一つの足音が近づいてきた。

ダニールは弾かれたように銃に手を伸ばし、安全装置を解除する。

チャキ、という乾いた金属音が広場に鋭く響いた。

現れたのは、オメガ民族解放戦線側の支配地域からやってきた女だった。

年齢はダニールと同じくらいか、少し下かもしれない。

砂埃にまみれた粗末な服を着ているが、その左腕には、かろうじて白だとわかる布で作られた赤十字の腕章が巻かれていた。

医療支援員だ。

彼女の名前はライラ。

ライラの背後には、足を負傷して歩けなくなった村の老人が、木陰で荒い息を吐きながらもたれかかっている。

彼女は老人の傷を洗うための水を求めて、危険を承知でこの井戸にやってきたのだ。


ダニールの銃口が、容赦なくライラの胸元に向けられる。

引き金を引けば、一瞬で彼女の命は消え去る。

ライラは恐怖に顔を引きつらせながらも、両手をゆっくりと顔の高さまで上げ、必死に敵意がないことを示した。

彼女の華奢な肩が小刻みに震えているのが、モニター越しにも痛いほどにわかる。

「……撃たないで」

たどたどしいアルファ語。

ライラはオメガの人間だが、境界地域に住む者は互いの言語を少しだけ理解できる者が多い。

「水が……必要なの。あそこのお爺さんの傷を洗うために」

ダニールは銃口を下げないまま、ライラの背後を一瞥した。

確かに、苦しげにうめく老人の姿がある。

ライラの腰のポーチには、汚れた包帯とわずかな医療器具しか入っていない。

武器は持っていないことは明らかだった。

数秒の、永遠にも似た緊迫した沈黙。

やがて、ダニールは深く息を吐き出し、ゆっくりと銃を下ろした。

そして安全装置を元に戻す。

「……早く汲め。俺の気が変わらないうちに」

「ありがとう」

ライラは小さく息を吐き、警戒を解かずに井戸へと近づいた。

ダニールが汲み上げた釣瓶の残りの水を、持参した水筒に注ぎ込む。


二人は敵同士だ。

本来ならば、この場で殺し合いが起きてもおかしくない。

それが「交戦規定」という名の仕様書が彼らに命じているタスクだ。

しかし、この中立地帯の井戸の前では、その仕様書は奇妙な機能不全を起こしていた。

「……お前、オメガの人間だな」

ダニールが、ぽつりとこぼすように言った。

その声には、敵に対する憎悪ではなく、純粋な疲労と戸惑いが混ざっていた。

「ええ」

ライラは水を注ぎながら答える。

「でも、私は兵士じゃない。医療支援員よ」

「同じことだ。戦争が始まれば、どっちの側にいるかだけで殺し合う理由になる」

ダニールは自嘲気味に笑い、井戸の石組みに腰を下ろした。

「俺は農家の息子だ。本当なら、今頃は故郷で黄金色に実った麦の収穫を手伝い、家族と一緒に笑い合っているはずだった。それが、気づけばこんな泥と血にまみれた軍服を着せられて、見ず知らずの、恨みもない人間を撃てと言われている。昨日も、隣で笑っていた戦友が頭を撃ち抜かれて死んだ。なのに、俺たちは一歩も前に進むことを許されない」

ダニールの言葉は、誰に聞かせるでもない独白のようだった。

だが、ライラの手は止まった。

「……なぜ戦っているの?アルファは、私たちオメガを全滅させるつもりなの?」

「わからない」

ダニールは頭を抱え込んだ。

「正直言って、もう何のために戦っているのか、誰もわかっちゃいないんだ。俺たちはただ、ヴァランから来た軍事顧問の連中に言われた通りに動いているだけだ。あいつらが『前線を維持しろ』と言えば、俺の仲間が死ぬ。あいつらが『撃て』と言えば、撃つ。自分の意思なんて、とっくの昔にどこかに置いてきちゃったよ」


織部はマイクの音量をわずかに上げた。

ダニールの吐露。

それは、前日の調査で織部が解明した「ヴァランの鎖」が、末端の兵士にどのような精神的負荷を与えているかを如実に示していた。

当事者であるアルファの兵士でさえ、この戦争の無意味さと、背後にいるヴァランの異常な支配に気づき始めている。

彼らは、駒として消費されることに限界を迎えつつあった。

「……私も同じよ」

ライラは水筒の蓋を閉め、悲しげな目でダニールを見つめた。

「私は本当は、正式な医者になりたかった。夜遅くまで勉強して、奨学金をもらって、首都の大学に行くはずだったの。でも戦争が起きて、学校は燃えてしまった。本も、ノートも、夢も、全部灰になった。今は、こうやって血まみれの傷口に汚れた包帯を巻いて、痛み止めの薬を渡すことしかできない。根本的な治療なんて何一つできない」

彼女は自分の泥だらけの手を見つめた。

「オメガの過激派は『これは聖戦だ』って叫んでる。でも、手足をもがれ、泣き叫びながら運ばれてくる子供たちを見るたびに思うの。こんな血の海を渡って手に入れる未来に、一体何の意味があるのって。誰かの命を奪って成り立つ大義なんて、私には信じられない」

「じゃあ、お前は何のためにそんな腕章をつけてるんだ」

「……戦争が終わった時のためよ」

ライラは、ダニールの目を真っ直ぐに見返した。

「いつか必ず戦争は終わる。その時、私はアルファの人も、オメガの人も、両方の人間を治療できる病院を作りたいの。だから、今は生き延びて、一人でも多くの人を助ける。それが、私がこの腕章をつけている理由」


ダニールは目を丸くし、やがて力なく笑った。

「病院、か。……いい夢だ。俺の『無事に実家の畑に帰る』って夢より、ずっと立派だ」

「立派なんかじゃないわ。ただの、叶うかどうかわからない祈りよ」

「祈りでも、持っているだけマシさ。俺たちには、もう祈る気力すら残ってない」

ダニールは立ち上がり、ライフルを肩に担ぎ直した。

「行けよ。お前の祈りを待ってる爺さんがいるんだろ。……今日は、お前の姿は見なかったことにする」

「ありがとう、アルファの兵隊さん」

「ダニールだ」

「私はライラ」

二人はわずかに頷き合い、背を向けてそれぞれの戦場へと戻っていった。


ダニールが広場から姿を消した後、ライラは待たせていた老人のもとへ駆け寄った。

彼女は汲みたての水で丁寧に傷を洗い、静かに励ましの声をかけながら、汚れた包帯を巻いていく。

モニター越しにその様子を見た瞬間――

織部の端末を操作する指が、わずかに止まった。

……三秒。

操作が遅延する。

「……非効率だ」そう呟いたが、なぜか画面から視線を外すことができなかった。

この遅延は、後に織部の内部で「処理の異常」として記録されることになる。

原因は不明。


やがて織部は我に返り、モニターの電源を静かに落とした。

彼の無機質な瞳の奥で、再び膨大な計算処理が再開される。

ダニールとライラ。

この二人は、戦争という巨大なシステムの「仕様書」の外側にいる人間たちだ。

仕様書によれば、彼らは出会った瞬間に殺し合うようにプログラミングされている。

だが、彼らの内部に書き込まれた「人間としてのパラメーター」は、その命令を明確に拒絶した。

彼らには揺るぎない「意志」がある。

ダニールはヴァランの不条理な支配に疑問を抱いており、ライラは敵味方を超えた未来を望んでいる。

彼らは戦争の駒ではなく、平和を渇望する生きた人間だった。

「……見つけた」

織部は呟いた。

前日の調査で暴き出したエイレス・コンソーシアムの「完璧な循環論理」。

撤退できないから介入し、介入するから停戦できず、停戦できないから撤退できない。

この狂ったループをシステムの外側からハッキングして強制終了させるためには、システムの内部にいる「変数」を操作し、予期せぬエラーを引き起こさせる必要がある。

この二人のやり取りは、まさに「バグ」だ。戦争の仕様書には記述されていない、人間としてのイレギュラーな挙動。

「……使える」織部は短く結論づけた。

彼らの人間らしい感情や、未来への切実な希望。

それ自体に織部が感動したり、同情したりすることはない。

織部にとって、彼らの「想い」は、システムを破壊するための極めて有用で強力な「コード」に過ぎない。

だが、その生きた感情という名のコードを正しくコンパイルし、ヴァランとエイレスの強固なファイアウォールにぶつければ、必ず致命的なクラッシュを引き起こすことができる。

エイレスが描いた仕様書を、彼ら自身のバグで内側から食い破るのだ。

「エラーの準備は整った。次は、トリガーを引くためのスクリプトを書く番だ」

織部は端末をポケットにしまい、足音を立てずに鐘楼を降り、泥濘む道へと歩み出した。

マニュアルキラーの冷徹な頭脳は、すでに次の展開となる反撃のプロセスを、ミリ秒単位で構築し始めていた。

【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

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マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

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