第3話「ヴァランの鎖」
雨は上がったが、重く湿った鉛色の空は晴れる気配を見せなかった。
アルファ共和国軍の前線から数キロ後方に位置する前哨基地。
ぬかるんだ泥地を、絶え間なく軍用トラックや兵員輸送車が行き交っている。
鼻をつくのは、安物のディーゼル燃料の排気ガスと、兵士たちが吸う粗悪な煙草の匂い、そして野戦病院から漂ってくる血と消毒液の混ざった特有の悪臭だ。
織部悟は、ひび割れたコンクリートの壁に背を預け、手元のデータ端末を静かに操作していた。
現在の彼の肩書きは、カレンが裏ルートで手配した「通信機器の保守業者」の助手である。
汚れた作業着に身を包み、配線ケーブルの束を首から下げた彼は、完全に基地の薄汚れた背景と同化していた。
周囲には、疲労困憊したアルファ軍の兵士たちが力なく座り込んでいる。
彼らの目は虚ろで、誰一人として無駄な口を開こうとはしない。
だが、織部の意識は彼らには向いていない。
彼の視線は、基地の中央に設営された司令部用の大型テントに向けられていた。
テントは防音性と通信傍受対策が施されているが、保守業者として潜入した織部が基地内のルーターに仕掛けたバックドアからは、内部の音声データがリアルタイムで流れ込んできている。
イヤホン越しに聞こえてくるのは、二種類の全く異なる声色だ。
一つは、自国の防衛に必死なはずのアルファ軍の将校たちの声。
極度の疲労と焦燥が滲み、どこか懇願するような響きがある。
もう一つは、冷徹で高圧的な、ヴァラン共和国から派遣された「軍事顧問団」の将校たちの声だ。
彼らの仕立ての良い迷彩服には、泥一つ跳ねていないだろうことが声のトーンだけでわかる。
『第4セクターへの増援は許可できない。現在のラインを維持しろ』
『しかし、それでは前線の部隊が孤立します!オメガの攻勢が強まれば持ちこたえられません』
『オメガの補給線は伸びきっている。三日耐えれば自然に崩れる。作戦マニュアルの第十二項を参照したまえ。……我々の指示通りに動けばいい』
会話のフローを解析するまでもなく、力関係は明白だった。
アルファ軍の将校たちは、自国の領土で、自国の兵士の命を懸けているにもかかわらず、作戦の実質的な決定権を完全に奪われている。
ヴァランの顧問団の承認がなければ、小隊一つ動かすことすらできない。
「軍事顧問団ではない。完全な支配者だ」
織部は端末の画面をスクロールさせながら、静かに呟いた。
織部はさらに基地のデータベースの深部へとアクセスし、彼らが口にしていた「作戦マニュアル」——アルファ軍の「交戦規定」のデータを抽出した。
画面に無数の文字列が流れる。
織部の脳は、それを単なる文章ではなく、軍隊という巨大なシステムを動かすためのソースコードとして読み込んでいく。
すぐに、致命的な異常に気づいた。
マニュアルの更新履歴だ。過去一年の間に、交戦規定は何度も細かく書き換えられている。
その改訂を行っているのはアルファ軍の司令部ではなく、すべてヴァランの顧問団の暗号化された端末からだった。
変更箇所を比較・解析していくと、ある明確なベクトルが浮かび上がってくる。
『敵の補給拠点の直接破壊を禁ず。遅滞戦闘による消耗を優先する』
『決定的な前進は控え、指定された防衛ラインでの交戦を維持すること』
これらは、戦争に勝つための仕様書ではない。
織部は冷たく目を細めた。
「勝たず、負けず、ただ長引かせるためのコード《遅滞処理》だ」
ヴァランにとって、アルファが戦争に勝ってしまえば軍隊を駐留させる大義名分が消え、豊かなレアメタル利権へのアクセスを失う。
だから彼らは、アルファの兵士たちに「決定的な勝利」を禁じ、終わりのない消耗戦を強いているのだ。
会議場に向かう途中で目にした、泥の中で家族写真を見つめていた若い兵士の背中が脳裏をよぎる。
彼は祖国や家族を守るために命を懸けていると信じているだろう。
だが実際は、ヴァランが書き換えたこの狂った仕様書の通りに、無意味な死地へと送られているに過ぎない。
だが、織部の思考はそこで止まらない。
カレンが言っていた。
「ヴァランは適度に血を流し続けさせながら、前線をコントロールしている」と。
しかし、ヴァラン国内の情勢は決して一枚岩ではない。
パブリッシャーのデータベースから得た事前情報によれば、長引く戦争支援による財政圧迫で、ヴァラン国内にも撤退を求める世論が確実に高まっている。
議会でも撤退派政治家の声は無視できないレベルになりつつある。
それなのに、なぜヴァランは「撤退」という選択肢を実行しないのか。
「システムが停止しないのは、停止コマンド自体が無効化されているからだ」
織部はルーターのバックドア経由で、さらに深い階層——アルファ国防省とヴァラン政府の間で結ばれた「軍事同盟条約」の原文データへとハッキングのメスを進めた。
エイレス・コンソーシアムが構築した強固な軍事用ファイアウォールが立ち塞がるが、織部は認証プロトコルの仕様のわずかな隙を突いて数秒でバイパスした。
何百ページにも及ぶ、重厚で難解な法的言語の羅列。
一般の外交官なら数行で匙を投げるその退屈な文字列の海を、織部は超高速でスキャンしていく。
そして、第六章、第三項の附属文書の中に、その一行を見つけ出した。
周囲の喧騒が、織部の意識の中から完全に消え去った。
『同盟国が軍事的脅威に晒されている間、支援国は一方的な撤退を行うことができない』
一見すると、アルファ共和国を守るための、頼もしい盟約に見える。
だが、織部の冷徹な論理回路は、この一文と、先ほど抽出した「遅滞戦闘を強要する交戦規定」のデータを瞬時に照合した。
オメガ民族解放戦線という敵が存在する限り、アルファは常に「軍事的脅威」に晒されている。
……では、その「脅威」を意図的に終わらせないようにコントロールしているのは、一体誰か。
「……そういうことか」
停戦が成立しない限り、ヴァランは条約上、いかに国内で撤退の世論が高まろうと撤退できないのだ。
撤退できないから介入し、介入するから停戦できず、停戦できないから撤退できない。
織部は手元の端末の電源を切り、ゆっくりと息を吐き出した。
「完璧な循環論理《無限ループ》だ。これはバグではなく、悪意ある設計だ」
これは偶然生じた悲劇でも、関係者の対話不足でもない。
誰かが意図的に、この戦争というシステムが絶対に終了しないように仕組んだものだ。
設計者は言うまでもなく、この条約の起草に深く関与したエイレス・コンソーシアムである。
彼らは「法」という名のプログラミング言語を使って、誰も抜け出すことのできない迷路を作り上げたのだ。
エイレス・コンソーシアムが設計した、この狂った仕組み。
三年もの間、歴代の外交官の誰もが見抜けなかったその全貌が、今、彼の手元で完全に解体・証明された。
設計図が手に入ったのなら、話は早い。
無限ループを破壊するには、ループの条件式そのものを書き換えればいい。
織部は足元の工具箱を拾い上げ、泥濘む地面を踏みしめた。
冷たい風が吹き抜ける前線基地で、マニュアルキラーの次なる反撃のコードが、静かに組み上がり始めていた。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/
マニュアルキラー 第4部
~源流…~
https://ncode.syosetu.com/n7895mb/




