第2話「五者の思惑」
国際会議場の華やかな表舞台とは対照的な、バックヤードの薄暗く無機質な空間。
織部悟は、配線の束が収められた制御室の重い鉄扉を静かに閉めた。
喧騒は遠のき、空調設備の低い唸りだけが規則的に耳を打つ。
壁に囲まれた冷え冷えとした空間には、消毒液と埃の混ざった裏方特有の匂いが漂っていた。
そこにはすでに先客がいた。
色あせた青い清掃員の制服を着た女が、モップの柄に寄りかかりながらスマートフォンを無造作に弄っている。
彼女の名前は、通称「カレン」。
このバルカシア地域に十年以上潜伏し、裏社会の動向から外交官の寝室の秘密まで、あらゆる情報を収集してきたパブリッシャーの現地協力者だ。
誰も気に留めない清掃員という仮面は、彼女にとって最高の隠れ蓑だった。
「マイクのハウリング、いい演出だったね。おかげでヴァランの代表が露骨に不機嫌になってたよ。さっき、ゴミ箱に八つ当たりしてた」
カレンは画面から目を離さず、乾いた声で言った。
彼女の指先には無数のマメがあり、本当に長年清掃員として酷使されてきたかのような説得力がある。
「ただのノイズテストだ」
織部は手に持っていた工具箱を床に置き、冷たいコンクリートの壁に背を預けた。
「それより、状況のアップデートを頼む。表の顔ぶれと会議場の配線図は確認した。だが、まだパラメーターが不足している。停戦交渉を巡る五者の構造を、正確に説明してくれ」
カレンはふっと鼻で笑い、スマートフォンを制服のポケットに滑り込ませた。
腕を組み、織部を値踏みするように見つめる。
その仕草には、十年間の苛酷な潜伏生活で培われた特有の倦怠と、決して隙を見せない警戒心が滲み出ている。
「五者の構造ね。表向きのニュースで語られていることは、全部シュレッダーにかけていい。現実はもっとシンプルで、もっとタチが悪い。一言で言えばこうだ。誰も停戦したくない」
織部は眉を微かに動かした。
「矛盾している。この会議場にいる全員が、平和のために尽力し、一刻も早い停戦を望んでいると公式に声明を出している」
「ふりをしているだけだよ。立派なスーツを着て、カメラの前で固い握手をするためのポーズだ。裏では全員が別の台本を読んでいる。誰もが自分以外の誰かのせいにして、戦争を引き延ばそうとしているのさ」
カレンは一本目の指を立てた。
「まず、直接の当事者であるアルファ共和国。彼らは本音では停戦したい。長引く戦争で経済はボロボロ、前線の兵士の士気は限界だ。だが、ヴァランの顔を立てないと、明日から武器も資金も届かなくなる。ヴァランの支援が切れれば、国ごとオメガに呑み込まれる」
織部は静かに頷き、彼女の言葉の先を言語化した。
「つまり、ヴァランが首を縦に振らない限り、アルファからは絶対に停戦を切り出せない構造か」
「その通りだ」
カレンは二本目の指を立てる。
「もう一方の当事者、オメガ民族解放戦線。こっちも一枚岩じゃない。穏健派はこれ以上の流血を避けたがっている。だが、組織の主導権を握り、実働部隊を動かしているのは過激派だ」
「彼らにとって戦争は『飯の種』だからか」
織部が間髪入れずに言い当てると、カレンはニヤリと笑った。
「ご名答。戦争が続く限り、彼らは英雄として扱われ、裏ルートで莫大な支援金が集まる。平和になれば、ただの失業者か、良くて田舎の村長だ。だから過激派は、どんな譲歩案を提示されても必ず反対する。難癖をつけてはテーブルをひっくり返すのさ」
織部は脳内のフローチャートを更新していく。
アルファとオメガ、両者ともに自らの意志でこの戦争というシステムを停止させる権限を失っている。
「では、ヴァラン共和国は?」
織部は静かに促した。
カレンは三本目の指を立て、口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
「ヴァランにとって、このバルカシア地域は地政学的な防波堤であり、金脈だ。戦争が続く限り、アルファはヴァランに完全に依存し続ける。自国の軍事顧問団を堂々と駐留させ、レアメタルなどの資源を安く買い叩くことができる」
「だが、停戦が成立して平和になれば、ヴァランの軍隊は用済みとして追い出される」
織部は冷徹な声で推論を繋いだ。
「適度に血を流し続けさせながら、決定的な勝敗がつかないように前線をコントロールしているわけだ。アルファを生かさず殺さず、終わらせないことが彼らの最大の利益になる」
カレンは感心したように肩をすくめた。
「まるで見てきたように言うじゃないか。その通りさ」
織部は冷たい視線でカレンを見据えた。
「エイレス・コンソーシアムは」
四本目の指。
カレンの声が一段低く、凄みを帯びる。
「エイレスはもっと単純で、もっと悪辣だ。
彼らは軍産複合体であり、インフラ再建の請負業者だ。
アルファにも、オメガの背後にいる支援国にも、両方に武器を売っている。
戦争が長引けば弾薬が飛ぶように売れ、都市が徹底的に破壊されれば、戦後の再建利権が丸ごと転がり込んでくる。
終わってしまえば、巨大な市場が一つ消滅する」
「だから彼らは、公式オブザーバーという安全な立場から、両陣営に絶妙なタイミングで新しい武器や外交オプションをちらつかせる」
織部は微塵も表情を変えずに言った。
「火が消えそうになれば、そっと油を注ぐために」
「ああ、全くだ」
「最後だ。国際調停委員会は」
カレンは最後に親指を立て、やれやれというように息を吐いた。
「彼らだけは、本気で停戦させたいと思っている。……自分たちの輝かしい実績作りのためにな。だが、彼らには実質的な力がない。強引に合意をまとめようとしてヴァランを怒らせれば、国際社会で拒否権を発動され、委員会自体が機能不全に陥る。だから、誰の顔も潰さないように、腫れ物に触るような交渉しかできない。結果として、誰もが抜け穴を見つけられる、玉虫色の曖昧な合意文書しか作れないのさ」
カレンの説明が終わり、狭い制御室に重い沈黙が降りた。
空調の唸り音が、まるで遠くの前線で響く砲撃の残響のように聞こえる。
アルファ、オメガ、ヴァラン、エイレス、そして委員会。
織部の頭の中で、五つの歯車がどう噛み合っているかが完全に可視化された。
アルファとオメガが対立し、ヴァランが背後から鎖で縛り、エイレスが巧妙に燃料をくべ、委員会がそれを無意味な言葉で糊塗する。
「デッドロックだ。互いに譲らず、誰も動けない」
織部は手元の工具箱を指先で軽く叩いた。
「五者の思惑が複雑に絡み合い、互いが互いのストッパーになっている。合意は構造的に不可能に設計されている。永遠に解決しないパズルだ」
「ああ、その通りだ。だからこの三年間、二度も停戦が破綻した」
カレンは同意し、小さくため息をついた。
「いや、少し違う」
織部は冷たく言い放った。
カレンが怪訝そうに眉をひそめる。
「二度の停戦が破綻したのは、システムの『エラー』や『バグ』ではない。関係者の対話不足でも、偶発的な不幸でもない」
織部は言葉を区切った。
「この戦争は終わらないように設計されている。最初から機能しないように。誰かが意図的に、そう書いた仕様書だ」
カレンは目を見開いた。
彼女は十年この地にいて、その現実に直面し、血を流す人々を見て絶望してきた。
だが、目の前の男は、たった数日の情報で、その絶望の根源を「誰かが書いた仕様書」と言い切った。
しばらくの沈黙の後、カレンは皮肉っぽく、だが確かな賞賛を込めて笑った。
「……ご名答」
彼女は壁から背中を離し、織部に向き直った。
「ここに来た人間で、たった三日でそこまで辿り着いたのはあなたが初めてだ。
歴代の優秀な外交官も、平和維持軍のトップも、皆『対話不足』だの『相互不信』だのと平和ボケした寝言を言っていた。
これが最初から組まれたプログラムだと気づいた奴はいなかった」
織部は表情を変えない。
「設計者がいるなら、その意図を示すソースコードがあるはずだ。過去二回の停戦合意文書、そしてヴァランとアルファの間に結ばれた軍事同盟条約の原文。それらがすべて、誰かの手によって『終わらないように』記述されている」
「どうするつもりだ?」
カレンの目に、鋭い光が宿る。
「簡単なことだ。致命的なバグを抱え、無限ループに陥ったプログラムを修正するのと同じだ。仕様書の欠陥を特定し、パッチを当てる。あるいは、コードそのものを書き換える」
「言うのは簡単だがね」
カレンは嘆息した。
「そのコードを守っているのは、エイレス・コンソーシアムの優秀な法務チームと、ヴァランの軍事顧問団だ。彼らが張り巡らせた強固なファイアウォールだぞ」
「どんな強固なシステムにも、必ずバックドアは存在する」
織部は工具箱を持ち上げた。
「当事者たちが気づいていない、あるいは意図的に隠している『矛盾』。それがバックドアになる。私はこれから、前線に向かう」
「前線?正気か」
カレンが声を荒げた。
「あそこは泥と血の海だ。お前のような非戦闘員が安全に行ける場所じゃない」
「机上の空論だけでは、システムは修正できない。現場のリアルなパラメーターを収集する必要がある。ヴァランの顧問団がどのようにアルファ軍を支配しているか、そして、その支配の網の目からこぼれ落ちている『ノイズ』がないか。それを見つける」カレンは織部の冷徹な瞳を見つめ返し、やがて小さく息を吐いた。「……分かった。現地の案内役を手配する。だが、死んでも文句は言うなよ」「心配には及ばない。私は仕様書外の行動は取らない」
織部は制御室の扉に手をかけた。
背後で、カレンが小さく呟いた。
「……期待してるよ、あなたみたいな人間を、ずっと待っていた」
その言葉を背に受けながら、織部は薄暗い廊下へと歩み出した。
五つの巨大な歯車が軋みを上げて回る、狂ったシステム。
それを設計したのは誰か。
エイレス・コンソーシアムか、あるいはもっと深い闇に潜む何者か。
だが、設計図がある以上、必ず弱点はある。
会議場に潜入した初日の分析が、再び脳裏をよぎる。
「この部屋にいる全員が、あの兵士の名前を知らない」
彼らが最前線の兵士の命を「無価値なもの」として計算式から外しているのなら、それこそが、彼らのシステムを破壊するための最大の武器になる。
織部の足取りは、冷たいコンクリートの上で確かな音を響かせていた。
反撃のためのコード解析が、今、本格的に始まろうとしていた。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/
マニュアルキラー 第4部
~源流…~
https://ncode.syosetu.com/n7895mb/




