第6話「崩壊のシグナル」
夜明け前の第4セクター。
空はどす黒い紫色から、不吉な血が滲んだような暗赤色へとしだいに色を変えつつあった。
降り続く冷たい雨が、容赦なくアルファ共和国軍の兵士たちから体温を奪っていく。
ひざ下まである泥濘のなかを、ダニールたち第十二小隊は鉛のように重い足を引きずりながら進んでいた。
泥にまみれた軍靴が重苦しい音を立てるたび、硝煙と腐敗の匂いが鼻をつく。
ダニールの胸のポケットには、折り畳まれた家族写真と、昨日あの「設備点検コンサルタント」を名乗る男から渡された黒く小さな録音・送信デバイスが入っていた。
指先で制服の上からその硬い感触を確かめる。
心臓の鼓動が、かつてないほど早鐘を打っていた。
恐怖ではない。
これから自分が、この巨大で絶望的な戦争という歯車に、一粒の砂を噛ませようとしているという極限の緊張だった。
脳裏に蘇るのは、中立地帯の井戸で出会ったオメガの医療支援員・ライラの澄んだ瞳だ。
「いつか必ず戦争は終わる。その時、敵も味方もない病院を作りたい」。
彼女の途方もない祈りが、ダニールの中で確かな熱となり、凍りついた身体を動かしていた。
小隊が前哨陣地に到着すると、すでにそこにはヴァラン共和国の軍事顧問団が待ち構えていた。
指揮を執るシュミット少佐の仕立ての良い迷彩服には、前線にいるというのに泥の一滴すら跳ねていなかった。
彼は安全な天幕の下で熱いコーヒーの入ったマグカップを手にし、虫けらでも見るような冷淡な眼差しで、ずぶ濡れのアルファ軍兵士たちを見下ろした。
「第十二小隊、これより第4セクターの最前線へ移動しろ。オメガの主力部隊が接近している。防衛ラインをいかなる犠牲を払っても死守せよ」
シュミット少佐の声が、雨音を切り裂いて冷酷に響いた。
アルファ軍の小隊長が、血走った目で一歩前に出た。
「少佐!それでは全滅します!我々の弾薬はすでに底をつきかけている。せめて後方からの増援を待つか、一時的にラインを下げる許可を――」
「許可しない」
シュミットはマグカップをテーブルに置き、忌々しげに吐き捨てた。
「増援など来ない。お前たちの死でオメガの進軍を遅滞させ、弾薬を浪費させるのだ。お前たちはただの砂袋だ。同盟条約に縛られている限り、アルファの軍に作戦の決定権などない。我々の指示には絶対服従だ。無駄口を叩かず、さっさと前線に立て」
ダニールは息を詰め、胸のポケットの中でデバイスのスイッチを押し込んだ。
微かな振動が、録音と暗号化送信の開始を告げている。
だが、ヴァラン顧問団の電波探知が織部の計算よりも早かった。
事態は予期せぬベクトルへと転がり始める。
「少佐、お待ちください」
シュミットの横に立っていた通信担当の副官が、手元のコンソールを見て鋭い声を上げた。
「この付近から、微弱ですが未承認の暗号化シグナルが送信されています。誰かが不正な通信機を起動しました」
シュミットの目が、猛禽類のように細められた。
「……スパイか。全員動くな!スキャナーで身体検査を行え。見つけ次第、その場で射殺しろ」
副官がハンディタイプの電波探知機を手に、兵士たちの列へと歩み寄ってくる。
ダニールの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
心臓が喉から飛び出しそうになる。
スキャナーが、一人、また一人と兵士の身体を撫でていく。
あと三人、二人、一人――。
絶体絶命のピンチ。
見つかれば即座に処刑される。
だが、ここで自分が死ねば、この理不尽な死守命令が外部
に漏れることは二度とない。
妻と娘が待つ麦畑の風景も、ライラが夢見た未来の病院も、すべてが永遠の泥の中に沈む。
どうする。
どうすればいい。
頭を撃ち抜かれて死んだ戦友の虚ろな目が脳裏をよぎる。
遠い故郷で、娘が自分を呼ぶたどたどしい声が聞こえた気がした。
その時、ダニールの内なる「人間としての変数」が、極限の圧力の中で火花を散らした。
副官がダニールの前に立ち、スキャナーをかざそうとした瞬間。
「うわあああっ!」
ダニールは突然、自らの足首を押さえて大仰に叫び声を上げ、前方に倒れ込んだ。
「何事だ!」
驚いた副官が後ずさる。
ダニールは泥水の中に顔を突っ込みながら、叫びもがくふりをして、胸のポケットから素早くデバイスを抜き取った。
そして、這いずりながらシュミット少佐の足元近くにある軍用車両の車輪の陰、深い泥の中へとそれを押し込んだ。
「足が……昨日の破片の傷が……!」
「ええい、汚らわしい!アルファの豚どもはまともに立つこともできんのか!」
シュミットがダニールの背中を軍靴で蹴りつけた。
激痛が走るが、ダニールは泥を舐めながら歯を食いしばり、耐えた。
副官が倒れたダニールの身体にスキャナーを当てる。
だが、デバイスはすでに数メートル離れた泥の中にあり、しかも巨大な金属の塊である車両の車輪の真裏だ。
スキャナーは反応しなかった。
「……シグナルが消えました。どうやら雨雲による一過性のノイズか、オメガ側の妨害電波の残滓だったようです」
副官の報告に、シュミットは舌打ちをした。
「不愉快な連中だ。ほら、さっさと立て!死ぬなら指定された防衛ラインで死ね。それがヴァランに対する貴様らの義務だ!」
ダニールは泥だらけの顔をゆっくりと上げ、シュミットを睨みつけた。
その眼差しは、もはや絶望に打ちひしがれた兵士のものではなかった。
嵐を耐え抜いた男の、静かで熱い意志の炎が宿っていた。
彼の視線の先、車輪の陰の泥の中で、デバイスの小さなランプが緑色に点滅を完了したのを、ダニールだけが見届けていた。
――同時刻。
首都の国際会議場、配線室。無数のケーブルが這う薄暗い部屋で、織部悟はモニターの画面に緑色の文字列「TRANSFERCOMPLETE(転送完了)」が表示されたのを静かに見つめていた。
傍らにいたカレンが、小さく息を呑む。
「……やった。信じられない、あの一兵卒が本当にやり遂げたよ、織部。あのヴァランの死神から、決定的な言質を引き出した。しかも、生きて」
カレンの指先がキーボードの上を弾くように走り、受信した音声データを国際調停委員会の公式サーバーと、ヴァラン国内の主要メディア各社へと一斉に暗号化送信していく。
「信じる必要はない。論理的な帰結だ」
織部は平坦な声で答えたが、その無機質な瞳の奥には、わずかながらも微熱のようなものが兆していた。
「人間は絶望の淵に立たされた時、最も強い出力を発揮する。彼はただの使い捨ての変数ではなく、自律的にエラーを乗り越え、システムを書き換える生きたプログラムだったということだ」
「あんたの想定以上だったってわけだね。さあ、花火が上がるよ」
数分後、会議場は未曾有のパニックに包まれた。
ヴァラン国内のニュースネットワークが、シュミット少佐の「お前たちの死でオメガの弾薬を浪費させる」「我々の指示には絶対服従だ」という音声をトップニュースで一斉に報じたのだ。
条約の前提となっていた「オメガによる軍事的脅威」が、実はヴァラン軍事顧問団自身によって、自国の利権のために人為的に長引かされていたという事実。
同盟国であるアルファの兵士たちを、意図的に全滅へと追いやる死守命令。
それが白日の下に晒された瞬間、ヴァラン国内で燻っていた戦争撤退への世論が、激しい怒りとなって爆発した。
首都では大規模な抗議デモが発生し、議会では撤退派が政府を一斉に糾弾し始める。
円卓のヴァラン代表団は顔面蒼白となって言葉を失い、国際調停委員会も、もはや彼らを庇うような玉虫色の声明を出すことは不可能となっていた。
「これで第一の無限ループは破壊された」
織部は配線室のモニター越しに、大混乱に陥る会議場を冷ややかに見下ろした。
「ヴァランは国内の世論と国際的な非難に耐えきれず、軍事顧問団を撤退させざるを得なくなる。彼らが手を引けば、アルファとオメガの当事者同士による、本当の意味での停戦交渉が始まる」
「大成功じゃないか」
カレンが口笛を吹いた。
「いや、まだだ」
織部の視線は、円卓の端で静かに座っている一群の男たち――エイレス・コンソーシアムの代表団へと向けられていた。
ヴァランが追い詰められ、会議場が騒然とする中、彼らだけは微動だにせず、まるでこの混乱すらも別の計算式の一部であるかのように、冷たい笑みを浮かべていたのだ。
「ヴァランの鎖は断ち切った。だが、この狂ったシステムを描き出した本当の設計者《本丸》は、まだ無傷のままだ。彼らのソースコードには、より深い階層の罠が仕掛けられている」
織部は静かに配線室の扉へと向かった。
現場の兵士が命懸けでもぎ取ったバグによって、システムの外壁は崩れ落ちた。
だが、エイレス・コンソーシアムが三十年かけて構築した巨大な利権の暗号を完全に解体しなければ、真の平和は出力されない。
マニュアルキラーの冷徹な知性は、すでに次の標的へと照準を合わせ、次なる反撃のスクリプトを編み上げ始めていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ダニールは農家の息子です。なぜ戦っているのか、自分でもよくわからないまま前線にいた男です。
そんな彼が、動きました。
今後もお付き合いいただけると嬉しいです。
【マニュアルキラーシリーズ】
マニュアルキラー 第1部
〜その「説明書」を信じてはいけない〜
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
マニュアルキラー 第2部
~校正なき改竄~
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
マニュアルキラー 第3部
~不適切な運用に関する修正履歴~
https://ncode.syosetu.com/n4150lw/
マニュアルキラー 第4部
~源流…~
https://ncode.syosetu.com/n7895mb/




