第34話 選ばないという選択
制度が施行されてから、数か月が経った。
大きな混乱はない。
劇的な変化もない。
ただ、結婚に関する通達の文言が、わずかに柔らかくなった。
――本人の意思を優先すること。
――猶予期間中の不利益措置を禁ずる。
――撤回時の処遇は従前に準ずる。
紙の上の数行。
だが、その数行のために、何人もの人生が揺れてきた。
経済記録整理室で資料を確認していたエリシアの元に、リーゼが静かにやって来た。
「……最後の縁談が届いています」
予想はしていた。
「差出人は?」
「地方侯爵家です。
“今なら条件は問わない”と」
条件は問わない。
それは、ある意味で最大の譲歩だ。
「断ってください」
エリシアは、迷わなかった。
リーゼは、ほんの少しだけ微笑む。
「確認しなくてよろしいのですか」
「確認する必要はありません」
エリシアは、机の上の制度文書に目を落とした。
「私は、誰の人生も背負いません」
それは、相手を拒絶する言葉ではない。
「自分の人生だけで、十分です」
リーゼは、深く頷いた。
午後、アーデルハイト・フォン・ケンプナーが訪れた。
「断ったそうね」
「はい」
「惜しい話よ」
彼女は椅子に腰を下ろし、エリシアを見つめる。
「今なら、政治的にも美しく収まる」
「でしょうね」
「それでも?」
「それでもです」
短い応酬。
アーデルハイトは、小さく笑った。
「あなたは、本当に一貫しているわ」
「一貫していなければ、制度は信用されません」
「自分を、最後まで例外にしないのね」
「はい」
結婚しないことを正解にもせず、
結婚することを敗北にもせず。
ただ、自分は選ばない。
それだけだ。
アーデルハイトは、立ち上がる前に言った。
「あなたのせいで、政治は少しだけやりにくくなった」
「申し訳ありません」
「誉め言葉よ」
彼女は、穏やかに微笑んだ。
「強制できない世界は、面倒なの」
その背中を見送りながら、エリシアは静かに息を吐いた。
制度は動いている。
前例は修正された。
撤回権も、猶予も、文書に刻まれた。
そして、彼女自身は、何も変わらない。
夜、整理室の窓から街を見下ろす。
明かりが点々と続く。
そのどこかで、誰かが結婚を選び、
どこかで、誰かが選ばない。
それでいい。
選択が分かれること自体が、正常なのだから。
エリシアは、机の引き出しを開け、一枚の白紙を取り出した。
そこに、何も書かなかった。
設計しない時間。
未来を、固定しない余白。
選ばないという選択は、
誰かを否定するためではない。
自分の人生を、自分のまま保つためのものだ。
その静かな確信だけが、彼女の中に残っていた。
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