第30話 失敗する権利
その知らせは、噂として届いた。
正式な報告でも、相談でもない。経済記録整理室の廊下で、誰かが声を落として話しているのを、たまたま耳にしただけだ。
「……結局、辞めたらしい」
「え、あの人?」
「結婚も断って、仕事も続けていたけど……限界だったとか」
エリシアは、足を止めた。
(来たか)
いずれ来ると分かっていた。
それでも、胸の奥がわずかに沈む。
名前を確認すると、若い女性官僚だった。地方出身。能力は平均的。特別に優秀ではないが、真面目で、責任感が強い。
――結婚しない選択をした一人。
だが、制度が追いつく前に、彼女は倒れた。
数日後、その女性――クララ・ミュラーは、王城外れの小さな下宿でエリシアと向かい合っていた。
部屋は質素で、窓からの光も弱い。だが、生活の匂いがあった。
「……お会いしていただけるとは思いませんでした」
クララは、伏し目がちに言った。
「事情を聞きました」
エリシアは、率直だった。
「よろしければ、あなたの言葉で話してください」
クララは、しばらく黙っていた。
「……私、間違えたんだと思います」
その言葉は、静かだった。
「結婚を断れば、自由になれると思っていました。
仕事を続けていれば、評価されると思っていました」
エリシアは、口を挟まなかった。
「でも」
クララは、指先を強く握る。
「私には、支えがなかった」
家族との関係は冷え、職場では比較される。
――あの令嬢のように。
――結果を出さなければ。
「誰にも頼れなくて、誰にも弱音を吐けなくて」
声が、震える。
「……怖くなってしまいました」
エリシアは、ゆっくりと息を吐いた。
これは、制度の失敗だ。
そして、自分の失敗だ。
「あなたは」
エリシアは、静かに言った。
「間違えていません」
クララが、顔を上げる。
「……え?」
「あなたは、選びました」
続ける。
「その結果、合わなかった。
それだけです」
失敗と、間違いは違う。
「選び直す権利があります」
「……もう、遅いです」
クララは、小さく笑った。
「官僚には戻れません」
「戻る必要はありません」
エリシアは、即答した。
「戻れないから、失敗なのではありません」
クララの目に、涙が溜まる。
「……じゃあ、私は」
「失敗しました」
エリシアは、はっきりと言った。
「そして、それでいい」
沈黙が、部屋を満たす。
「失敗する権利は、選択と一緒に守られるべきです」
それは、制度設計の盲点だった。
成功する人だけを想定していた。
途中で折れる人を、十分に考えていなかった。
「私は」
エリシアは、続けた。
「あなたを、救えませんでした」
それは、初めての明確な敗北の認識だった。
「ですが」
視線を上げる。
「あなたの失敗を、無駄にはしません」
クララは、静かに頷いた。
後日、エリシアは新しい項目を制度案に追加した。
――選択撤回時の支援。
――離脱後の再訓練制度。
――社会復帰のための中立窓口。
失敗しても、人生が終わらないように。
夜、整理室に一人残り、エリシアは机に肘をついた。
(私は、強すぎた)
選べた。
耐えられた。
孤独を、計算できた。
だが、誰もがそうではない。
英雄の物語は、失敗者を置き去りにする。
だからこそ。
「……次は、失敗から始める」
そう呟き、ペンを取った。
制度は、成功者のためにあるのではない。
失敗した人が、もう一度立ち上がるためにこそ、必要なのだと。
エリシアは、その前提を、ようやく設計図に刻み込んだ。
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