第29話 制度に人を合わせてはいけない
設計図は、いつも静かな場所で生まれる。
経済記録整理室の奥。誰も立ち寄らない机で、エリシアは白紙の束を前にしていた。書き直された前例、消された注記、赤線で引かれた条件。
(足りない)
数字も、制度も、理屈も揃っている。
だが、それだけでは人は救われない。
結婚しない選択が、強い者だけの道になりかけている。
それは、彼女が最も避けたかった未来だった。
扉がノックされる。
「……失礼します」
入ってきたのは、ミレイユだった。以前より表情は落ち着いているが、まだ迷いが残っている。
「少しだけ、お時間を」
「どうぞ」
エリシアは、机の向かいを示した。
「周囲から言われました」
ミレイユは、前置きなく言った。
「“あなたは、あの方に相談したのだから、結婚しないのだろう”と」
エリシアは、黙って聞いた。
「……私は、まだ決めていません」
「ええ」
「それなのに、決めたことにされるのが、怖くて」
その恐怖は、正しかった。
「ミレイユ」
エリシアは、静かに言った。
「あなたは、決めなくていい」
ミレイユが、目を見開く。
「……え?」
「今、決めなくていい」
繰り返す。
「結婚するかしないかを、
今、結論として出す必要はありません」
ミレイユの手が、震える。
「でも……制度が……」
「制度は」
エリシアは、言葉を切った。
「人の決断を早めるためのものではありません」
彼女は、白紙を一枚、ミレイユの前に差し出した。
「制度は、本来、迷っている人を守るためにあります」
沈黙。
「私は、失敗しました」
エリシアは、はっきりと認めた。
「自分が生き残れる設計はしました。
ですが、迷う人のための余白を、十分に作らなかった」
ミレイユの目に、わずかに涙が滲む。
「……私、弱いです」
「ええ」
エリシアは、否定しない。
「人は、弱いものです」
だからこそ。
「制度に、人を合わせてはいけません」
その言葉は、宣言だった。
「人の揺らぎに、制度を合わせるべきです」
エリシアは、机の上の設計図を示す。
「結婚しない選択は、段階制にします」
「……段階?」
「はい」
説明は、簡潔だった。
一定期間の猶予。
途中変更の容認。
結婚を選んだ場合の不利益撤廃。
失敗時の復帰ルート。
「これは……」
ミレイユは、言葉を失う。
「逃げ道、ですか」
「はい」
エリシアは、はっきりと答えた。
「逃げてもいい制度です」
逃げられるから、人は挑戦できる。
「あなたは」
エリシアは、穏やかに続けた。
「結婚してもいい。
しなくてもいい。
途中で変えてもいい」
「……そんなこと、許されるんですか」
「許します」
それが、制度だ。
ミレイユは、深く息を吐いた。
「……少し、楽になりました」
その言葉に、エリシアは初めて、この設計が正しいと確信した。
夜、リーゼとオスカーに案を示した。
「……英雄を、降りる気だな」
オスカーが、静かに言う。
「はい」
エリシアは頷いた。
「英雄は、次の犠牲を生みます」
「だが、これなら」
リーゼが言葉を継ぐ。
「誰も、置いていかれません」
エリシアは、机に手を置いた。
自分の前例を、壊す。
自分の成功を、薄める。
それは、敗北ではない。
誰かの人生を、追い詰めないための、選択だ。
制度は、人を縛るためにあるのではない。
人が迷うために、存在していい。
エリシアは、その一文を、設計図の冒頭に書き記した。
――制度は、人の弱さを前提に設計されるべきである。
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