第28話 特別であることの罪
変化は、善意の顔をしてやって来る。
それが最も厄介だと、エリシアは知っていた。
経済記録整理室に届く書類の束が、微妙に変わり始めている。内容そのものではない。添えられた一文。注記。口頭での説明。
――「結婚を選ばなかった場合の前例として」
――「エリシア様の事例を参考に」
――「あの方のように成果を出せば問題ない」
名前が、使われ始めていた。
(来たか)
制度が定着する過程で、必ず起きる現象だ。人は、抽象的な仕組みより、具体的な人物を基準にしたがる。
だが、その基準は、刃になる。
昼過ぎ、リーゼが珍しく険しい表情で入ってきた。
「……相談案件です」
「内容は?」
「若い女性官僚です。結婚を延期したそうですが、周囲からこう言われたと」
リーゼは、言葉を選びながら続ける。
「“あの令嬢は結果を出した。あなたもそうすべきだ”と」
エリシアの手が、止まった。
「成果は?」
「出ていません」
「……当然です」
冷たい言い方にならないよう、意識して言った。
「一年目で、私と同じ成果が出る方がおかしい」
「本人も、それは分かっています」
リーゼは、視線を伏せる。
「でも、逃げ道がないと」
逃げ道。
その言葉が、重く落ちた。
結婚しない選択が“称賛される”ようになった時点で、それは新しい圧力になる。
選ばない自由が、選ばない義務に変わる。
(最悪の形だ)
午後、オスカーが訪れた。
「貴族院で、妙な話が出ている」
「妙、とは」
「“結婚しない令嬢”を、次々と作ればいい、という意見だ」
エリシアは、無言で聞いた。
「成功例がある以上、再現できるはずだ、と」
「……安直ですね」
「だが、政治とはそういうものだ」
オスカーは、苦々しく言った。
「分かりやすい象徴を欲しがる」
エリシアは、椅子に深く腰を下ろした。
自分が否定してきたものが、別の形で蘇ろうとしている。
「これは」
エリシアは、静かに言った。
「私の失策です」
リーゼが、驚いた顔をする。
「そんな……」
「成果を出すことに、集中しすぎました」
彼女は続ける。
「誰にでも同じ道が用意されているか、
その確認を怠りました」
特別な人間が勝つ物語は、分かりやすい。
だが、それは多くの人を切り捨てる。
夕方、ミレイユの顔が脳裏に浮かんだ。
――あなたのようにはなれません。
あの言葉は、警告だった。
エリシアは、机の引き出しから白紙の紙を取り出した。
「制度に、人を合わせてはいけません」
リーゼとオスカーが、視線を向ける。
「人に、制度を合わせるべきです」
エリシアは、はっきりと言った。
「結婚しない選択を、“強い人だけの特権”にしてはいけない」
オスカーが、低く息を吐く。
「……前例を、壊すつもりか」
「修正します」
エリシアは答えた。
「私自身の前例を」
それは、自分の成功を相対化する行為だった。
英雄でいる方が、楽だ。
だが、それでは同じことを繰り返す。
「必要なのは」
エリシアは、紙に線を引きながら言う。
「猶予です。
失敗しても、戻れる道。
選び直せる制度」
結婚してもいい。
しなくてもいい。
途中で変えてもいい。
そのすべてを、許容する仕組み。
リーゼが、静かに頷いた。
「……難しいですね」
「ええ」
エリシアは認める。
「ですが、これをやらなければ、
私は別の圧力を生んだだけになります」
特別であることは、誇りではない。
特別であることは、罪になり得る。
エリシアは、自分の名前が刻まれた前例を、
自分の手で、書き換え始めていた。
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