62話「狸と狐」
「落ち着いたかしら」
静江が、湯気の立つお茶を涼香の前に置いた。涼香は両手でそれを受け取って、一口含んだ。お茶の温かさが、ゆっくりと喉を通っていく。
この家に来るたびに思う。綿貫家のお茶は、どうしていつもこんなに落ち着くのだろう。静江おばさまの手から生まれるお茶は、吉野先生のものとも涼香自身のものとも違う、どこか家の匂いのするお茶だった。
「はい、ありがとうございます。……それより、お見合いのお話を」
「ええ、一つ確かめさせて」
静江が、向かいに座った。微笑みは変わらないが、梅色の瞳の奥がいつもより鋭かった。お茶会の時の静江おばさまではなく、かつて「四瀬家の娘」だった頃の静江さまの目をしていた。
「そちらの首謀者は、恵里さん?」
「はい、おそらく。奥様が思いつき、旦那様を動かしているのかと」
芽が、控えるように壁際に立ちながら言った。
「そう」
静江が静かに頷いた。
その声は穏やかだが、言葉の輪郭がいつもより明確だった。
「四瀬の方の首謀者は、いったい誰なのか」
「……」
その問いに、清隆が低く唸るような声を出した。腕を組んで、何かを考えるように目を細めている。
「あの、いいかな」
和哉が手を挙げた。部屋の緊張した空気の中で、その動作だけがどこか場違いなほど平和だった。
「どうしたの、和哉」
「純粋な疑問で……僕、おばあちゃんの実家の人にも、恵里さんって人にも会ったことないと思うんだけど。どうして僕の名前が出てくるの?」
「それは」
「私の孫だからね」
「私と交流のある人間だからです」
静江と涼香が、同時に口を開いた。二人が顔を見合わせる。涼香が少し目を伏せた。
「お二人とも、ご自虐はお控えください。今はこの状況の整理でございます」
芽が、静かにしかし明確に割り込んだ。
「その通りだ。たとえそうだとしても、お前たちに落ち度はない」
清隆が、腕を組んだまま言った。
「和哉様」
「は、はい」
芽が、和哉の方を向いた。いつもの涼やかな声とは少し違う、言葉を選んでいる声だった。一瞬の間があってから、芽は続けた。
「簡潔に、言葉を選ばず申し上げますと」
「年増女狐と執念狸が手を組んだ形でございます」
和哉が、ぽかんとした顔をした。
「……え?」
「そのままの意味でございます」
*****
芽が、座敷の中央に一歩進んだ。
「四瀬の首謀者について、私の方で調べた限りで申し上げます。おそらく間違いないかと」
「話して」
静江がそう言った。それはもう、普段の柔らかさとは別の声だった。
「四瀬銀次。現当主のご老人です」
芽が、一人の人物の名を告げた。
「……銀次さん」
静江の手が、お茶碗の上で静止した。
「静江さまとは、かつて婚約関係にあったとのことです。しかし静江さまが御自ら婚約を解消し、清隆様と結ばれた。四瀬銀次はそれ以来、執着しているようで」
「……ずっと、か」
清隆の声が、低く沈んだ。
「はい。ちなみに四瀬銀次の妻は——静江さまの妹君でした。先年お亡くなりになっております。お子様もなく、四瀬家の直系の跡取りはおりません」
座敷が静かになった。
蝉の声が、遠くから聞こえてくる。夏の終わりに近づいても、まだこんなに鳴いている。
「つまり」
涼香が、静かに口を開いた。
「妹君を娶って静江おばさまとの縁を保とうとしたけれど、その妹君も亡くなった。跡取りもいない。だから今度は四瀬の分家を使って綿貫家——静江おばさまの孫に繋がりを持とうとしている、と」
「おそらくは」
「執念狸、とはそういうことか」
清隆が、重く吐き出した。その声には珍しく、怒りが滲んでいた。
「恵里さんの方は七瀬家の権力を強固にしたい。四瀬銀次の方は静江おばさまとの縁を繋ぎたい。二人の利害が一致した」
「そして私と、和哉さんが駒にされた」
「そういうことです」
芽が静かに言い切った。
「……本当に、クソ野郎どもだな」
清隆が、珍しく取り繕わない言葉を吐いた。静江が「もう」と小さく呆れた声を出したが、誰も笑う気にはなれなかった。それどころか、清隆がそういう言葉を使うほどのことだということが、かえって場の重さを物語っていた。
*****
「和哉」
静江が、孫の顔を見た。和哉は黙って聞いていた。表情が読みにくい。でも静江には長い付き合いでわかった——この子は今、全部飲み込もうとしている。
「一つだけ確認するよ」
「……うん」
「これを、断ることはできると思うわ。おばあちゃんと、おじいちゃんが動けば」
「そうなの」
「ただし、燐さん——お母さんの耳にも入ることになる」
和哉の目が、わずかに揺れた。
「それは……」
竜喜の話だと、燐はこの話に乗り気であった。思い込みの激しい節がある母親のことだ。断るとなれば、一筋縄ではいかないだろう。
和哉の中でその計算が走っているのが、顔に少しだけ出ていた。
「どうする?……“ちょっと早いけど“落ち着くまでおばあちゃん家にいるのもいいと思う」
「…」
沈黙が、少し続いた。
涼香が、お茶碗を置いた。磁器の静かな音が、座敷に響いた。
「私は構いません。私の方も、動きます」
「涼香ちゃん」
「恵里さんのことは、私が対処します。七瀬家のことは七瀬の人間が動くべきですし、何より——私がこれを受け入れる理由が、ありません」
涼香の声は静かで、それでいて揺るぎがなかった。
「和哉、貴方は?」
涼香が和哉を見た。
和哉は少しの間、畳の一点を見つめていた。
頭の中に、湊の顔が浮かんだ。
『辛いことがあったら、教えてくださいね』
帰り際に言ってくれたあの声が、頭の中でまだ鳴っている。笑いながら言ってくれた、あの顔。
「……僕も、断ります。だって…」
「理由は言わなくていい」
「言わないでいいって、清隆おじいちゃん」
「うむ。わかっておる」
清隆が短く言った。その目が、和哉を真っ直ぐに見ていた。清流のような瞳の奥に、静かな確信があった。
「ただし、一つ頭に入れておけ」
「……うん」
和哉の背中が、わずかに強張った。
「日本の法律では十八歳から、親の同意なく結婚ができる。そして、お前の誕生日は——」
「三月十八日だね」
三月十八日。和哉が十八歳になる日。卒業式の日。
そして——湊と約束した日だ。
「時間はある。だが、あちらも動いてくる可能性がある。焦らず、ただし油断するな」
「……うん」
「茶道の稽古と同じよ。一手一手を、丁寧に」
静江が、柔らかく続けた。その言葉に、和哉は深く頷いた。
「お嬢様」
芽が、涼香を見た。
「帰りは私が送ります。しかし、その前に」
芽が、静江に向かって深く頭を下げた。
「静江さま、本日は突然の訪問をお許しいただきありがとうございました。お嬢様を受け入れてくださって」
「いいのよ、当然じゃない」
静江がふわりと笑った。
「涼香ちゃんはうちの子みたいなものだもの。いつでも来ていいのよ」
涼香が、息を呑んだ。
七瀬家でその言葉をかけてくれる人は、一人もいなかった。
「……ありがとうございます」
声が、かすかに滲んだ。しかし涼香は俯かなかった。ちゃんと、正面を向いたまま頭を下げた。
縁側から、夜の虫の声が聞こえていた。
三月十八日まで——まだ半年ある。
でも。
(半年しか、ない)
和哉は、膝の上で手を握った。
その手に——卒業したら、と言った日の湊の声が、重なった。




