61話「いやだ」
「はじめまして、——りょうか、です。ほんじつはおちゃかいにおまねきいただきありがとうございます!」
幼い頃の記憶だ。
小さな手で着物の袖を揃えて、ちゃんとお辞儀をした。頑張った。上手にできたと思った。
「まぁまぁまぁ、ご挨拶がお上手ね。こちらこそ来てくれてありがとう、涼香ちゃん。——さんもありがとうね」
「いえいえ、静江おばさまにご招待いただけたのです。喜んで参加いたします」
隣に立つ母の声が聞こえた。遠い記憶の中の母は、いつも柔らかく笑っていた。幼い涼香が茶会に参加するのを、心底喜んでいた。母が存命だった頃は、こうして母の趣味だった茶会に、二人でよく参加していた。
「ふふ、そうそう。涼香ちゃんに仲良くしてほしい子がいるのだけど」
静江おばさまが、にこにこしながら後ろを向いた。
「ほーら、和哉、隠れてないでご挨拶」
「あ、う、あ、かずや、です。あ! わたぬき、かずや、です。よろしくおねがい、します」
静江の後ろから、小さな顔がおそるおそる覗いた。黒色の天然パーマ、眼鏡はまだかけていない。頬がまるくて、目が大きくて、でもひどく緊張した顔をして、こちらをみていた。
「よろしくねぇ、和哉君」
「こちらこそ、よろしくおねがいします、かずやさん」
「あ、う」
すぐにまた静江の後ろに隠れてしまった。
「ああ、こらこら」
「ふふ、人見知りさんなのね」
「四歳なのだけどどうしてもねぇ。そういえば涼香ちゃんの一つ下ね、和哉は三月生まれだから」
「はい!私、せんげつ5さいなりました!」
「あら涼香、お姉さんね。和哉君のことお世話してあげないと」
「はい! わたしおねえさんだから、かずやさんのことおせわします!」
「ふふ、よろしくね。さ、じゃあさっそくお茶にしましょうか」
*****
「相変わらず滑らかなお手前、私にはできませんわ」
「あら、よく仰るわ。私なんかよりよっぽど手際がよいのに」
「滅相もありませんわ」
「涼香ちゃん、お茶、点ててみる?」
「いいんですか!?」
「ええ、かずやも点てるでしょう?」
「うん!」
「この子、お茶を点てるの大好きなんです」
「しゃかしゃか、たのしいもん」
「さすが、静江おばさまのお孫さんですわ」
かずや、と呼ばれた男の子が、涼香の方を向いた。大きな目が、真剣な顔をしていた。
「りょうか、ちゃん、ぼくがたててあげるね」
「じゃあ、私かずやさんにたてますね」
幼い二人が、並んで茶碗と向き合った。
それが、涼香の覚えている最初の「綿貫和哉」だった。
*****
現実に、引き戻された。
「確か貴女達、幼いころ会ってるのよね」
恵里の声が、涼香の耳に戻ってくる。
「それに高校も部活も同じ。古臭い趣味も一緒なの。もう運命じゃない! ちょうどいいわ」
「私は、ともかく……彼の、綿貫和哉の意思は、どうなるんですか」
声が震えないように、気をつけた。
「は! そんなの、四瀬とはいえ分家の者に逆らうことができるわけないでしょう?」
「な」
恵里が、銀の匙をカップに置いた。澄んだ音が、食卓に響いた。
「よかったじゃない、最後に七瀬家の役に立てて。しょうさんもこれで安心ね!」
「ああ、知らない人同士なら兎も角、知り合い同士なら気兼ねないだろう。もともと、我々の身分では交際の難易度が高い。こういったきっかけは必要だろう」
父が、どこか決まり悪そうに言った。それだけが彼の言葉だった。
「話は済んだから帰っていいわ。日程は後日メイドに送るから」
テーブルクロスの白が、やけに目に刺さった。
*****
部屋を出た。
「……」
言葉が出なかった。廊下の壁が、ゆっくりと流れていく。足は動いているのに、どこに向かっているのか、よくわからなかった。
「お嬢様、お疲れさまでした……」
芽が、そっと寄り添うように隣に来た。いつもの涼やかな声が、少しだけ滲んでいた。
「っ! お任せください! 私が力ずくでも撤回させて……!」
「だめ、芽。解雇されちゃう」
「ですが! お嬢様にそんな、そんなお顔を……」
言葉が続かないのか、芽が口を閉じた。
「お願い、芽。今は、側にいて」
数秒の沈黙があった。
「……お嬢様、車に戻りましょう。ここは良くないです」
芽が前に出て、廊下を先導する。背中を追いながら、涼香は口を開いた。
「芽、行きたいところがあるの。行かなければならないところが」
*****
早朝、綿貫家に電話がかかった、竜喜から電話だった。静江が出た。
「わかった。和哉に伝えておくね。私の方も動いてみるよ」
「ありがとうね、優しい子だね竜喜」
返事を聞かないうちに、静江は受話器を置いた。
縁側の向こうで、陽光が庭を照らしていた。
「……なにを、考えているの」
「おばあちゃん? 名前呼んだ? どうしたの?」
和哉が歯ブラシを持ったまま廊下から顔を覗かせた。口元に歯磨き粉がついている。
「和哉、ちょっといいかい」
静江の声に、和哉が表情を変えた。
*****
「湊」
「はい、どうしましたか、か、かず……」
名前が、うまく出なかった。それでも和哉は少しも笑えず、続けた。
「湊、ごめんね。おばあちゃん達と緊急の用事ができてしまって」
「今日は、もう帰ってもらわないといけない」
「そうなんですね。わかりました」
湊の声が、少し柔らかかった。責める気配が、まるでない。
「ごめんね」
「大丈夫ですよ。……それより」
湊が、和哉を見た。
「辛いことがあったら、教えてくださいね」
「っ!」
和哉の息が止まった。
「昨日の今日ですけど、やっぱり俺は……帰りますね」
「ごめん、ごめんね」
「もう、だから大丈夫ですって」
湊がそう言って、小さく笑った。その笑顔が、今日に限って少し遠く見えた。
「じゃあ、次は新学期ですかね。さよなら」
「うん、また新学期ね」
湊の後ろ姿が、玄関を出て遠ざかっていく。和哉はそれを見送りながら、扉が閉まるまで動けなかった。
また新学期ね。その言葉が頭の中で繰り返されながら、和哉はゆっくりと振り返った。
*****
「それで、おばあちゃん。僕のお見合いって、どういうこと」
座敷で、和哉と清隆と静江の三人が向き合った。
「竜喜からの話だけど、今日、本家の方から和哉の家——燐さんに電話が来たらしいの」
「だが、何故今更。そして、涼香ちゃんなんだ」
清隆が腕を組みながら言った。その表情は、読めない。でも眉間にわずかに皺が寄っているのは、いつもと違った。
「わからない……これは私の勘になるから、話半分に聞いてちょうだい」
「うん」
「恐らくだけど。ただの嫌がらせよ。『七瀬』と『四瀬』のね」
「……チ」
清隆の唇が、わずかに動いた。
「そういうことか。あのクソ野郎め」
「ど、どういうこと?」
「それは——」
ブォン。キキー。
庭の方から、この田舎には似つかわしくないエンジン音が聞こえてきた。重く、低い、高級車のそれだ。
ピンポン。
玄関のチャイムが鳴った。
「もしかして……はーい」
静江が縁側をまわって玄関に出た。引き戸を開ける音がして、少しの沈黙があった。
「あ……貴女は」
「いきなりの訪問、恐れ入ります。静江さま」
「たしか、鶴野さんよね。あ——」
声が、途切れた。
「静江おばさま、静江おばさま、ごめんなさい、ごめんなさい、私——」
「涼香ちゃん!」
静江が、玄関先で涼香を両腕で抱きしめた。小さい頃と変わらない抱き方で、強く、しっかりと。
涼香の背中が、細かく震えていた。
「大丈夫、大丈夫よ」
静江の声が、涼香の頭の上から降ってきた。
「中でお茶を飲んで、落ち着きましょう。……和哉も中にいるわ」
その名前を聞いた涼香の背中が、もう一度だけ、細かく揺れた。




