60話「夏の終わり、秋の始まり」
白黒の教室。温度のない世界。真っ黒な人のような塊が、それぞれに口を開いている。
「親の七光」
「穢れた血のくせに」
「お飾りのティアラが重そうね、お姫様。それすら烏滸がましい」
「いい子のフリして被害者気分?」
悪意の霧が、じわじわと広がって私を覆う。耳を塞いでも、手のひらを通して聞こえてくる。
やめて。
「同じ地位だと思わないでもらいたいわ」
「貴女はそこに立っていればいいの」
もういやなの。
「貴女は賢いからわかるわね」
「先生とあの子たちを信じて」
誰か——誰か私を——。
*****
「っ! はぁ、はぁ、はぁ」
夢だ。
目を開けると、見覚えのある天井が視界に飛び込んできた。空調が壊れているのか、部屋が蒸し暑い。ベッドもパジャマも、ぐしょりと寝汗が染みていた。
時刻は七時過ぎ。まだ午前なのに気温はすでに二十八度を上回っている。
「はぁ……こんな気温なら、悪夢を見ても仕方ないですね……」
独り言が、広い部屋に溶けていった。
自分の服を見る。まるでマラソンでもしたかのように、汗が全身に染みている。メイドが選んでくれたお姫様のようなフリルのパジャマに、あるまじき状態だ。繊細なレースが、汗でぺったりと肌に張り付いていた。
(これは朝食の前にシャワーね)
コン、コン。
扉がノックされた。
「はい」
「お嬢様、おはようございます。朝食のご用意をしてもよろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、涼やかな声だった。涼香が幼い頃から傍にいる、専属メイドの鶴野芽だ。齢二十八歳の彼女は、涼香の母の代わりにずっと側で支えてくれた人だった。
「芽、おはよう。少しシャワーを浴びたいのだけど」
「かしこまりました。では、シャワーの後にご用意いたします」
「ありがとう」
「滅相もありません……それと、お嬢様」
「ん? どうしたの」
「本日は旦那様と奥様からお話があるそうなので、本邸で朝食をお取りくださいませ」
「……え」
胸の奥が、すっと冷えた。
「申し訳ありませんが、私にも事情はわかりかねます」
少しの間があってから、芽の声がほんの僅か、低くなった。
「差し出がましいかもしれませんが。本日の体調は如何ですか、お嬢様」
その言葉の意味を、涼香はすぐに理解した。体調が悪いことにすれば、行かずに済む。芽は、そう言っているのだ。
「……芽、ほんとにありがとう。体調は……快調よ」
「良きことでございます。……それでは私は」
「ええ、後でね」
扉の向こうで、芽の足音が静かに遠ざかっていった。
*****
部屋に備え付けのシャワーを浴びた。
シャワーヘッドを捻ると、水が勢いよく流れてくる。最初は少し温度を高めに設定して、全身で受け止めた。汗と夢の記憶が一緒に流れていく気がした。
髪から肩から、腕の先から足元へ。水が伝う感覚を確かめながら、しばらくそこに立っていた。
温度を少し下げる。冷たさが、ゆっくりと体を冷ます。
夢の中の声が、頭の中にまだ残っていた。
穢れた血。親の七光。烏滸がましい——。
中学の頃のことだ。古い傷だ。もう慣れた。そのはずだ。
それでもこうして夢に出てくるのだから、どこかにまだ残っているのだろうと思う。
シャワーを止めた。タオルで丁寧に水気を拭いて、鏡の前に立つ。髪を整えながら、今日という日のための顔を作った。
表情を変えない。感情を悟られない。七瀬涼香として、ちゃんと立つ。それだけが、今朝の涼香にできることだった。
服を着替えた。
本邸へ向かうための車に乗る。
*****
涼香が普段過ごしているのは別邸だ。別邸と言っても、本邸とさほど変わらない規模の屋敷だが、本邸との間には、はっきりとした境界がある。
涼香の父、七瀬庄司は再婚だ。元々小規模な財閥の跡取りだった父は、涼香の実母の死と同時に経営を傾かせてしまった。そこで当時七瀬家の一人娘だった今の母、恵里と再婚し、財閥を合併させた。
別邸というのは、もともと涼香と実母が暮らしていた屋敷を、別荘として残したものだ。
私の、私たちが住んでいた家を。
涼香は学校が近いこともあり別邸で過ごしているが、家内での立ち位置はすこぶる悪い。
父は実母と結婚していたことを隠して恵里と交際していた。普通であれば恵里が父に慰謝料を請求する話だろうが、恵里は本当に父を愛していたのだろう。財閥の権限を全て譲渡し結婚するという条件で、私たち親子を受け入れた。
父には普通に失望している。だが、それ以上に涼香が恐れているのは、恵里だ。
彼女からすれば、涼香は不義の子だ。忌々しい女の血が流れている、受け入れがたい存在。七瀬恵里は、七瀬涼香を歓迎しなかった。そして今もしていない。
その女からの呼び出し。嫌な予感しかしない。
車が本邸の門をくぐった。
*****
本邸の、食卓のある部屋の扉の前。
「すぅ……はぁ」
一度だけ、深く息を吸って吐く。
コン、コン。
「失礼します。おはようございます、お父様……恵里さん」
「ああ、おはよう涼香。よく来てくれた」
父、七瀬庄司が立ち上がって出迎えた。年相応のスーツ姿は整っているが、どこか決まりの悪そうな表情をしている。
「……フン」
恵里からの言葉はない。手入れの行き届いた髪に、可愛らしいセットのドレス。いつまでも若々しく美しい人だが、涼香に向ける目線だけが、いつも凍っていた。
慣れた。もう、慣れている。
「さあ、お座り。朝ごはんにしよう」
「はい」
食卓には豪華な朝食が並んでいた。エッグベネディクト、スモークサーモンのプレート、新鮮なフルーツのボウル、バゲット。すべてが丁寧に盛り付けられて、見た目は完璧だ。
三人が席につく。銀のカトラリーが皿に触れる音だけが、時折静かに響いた。恵里は父に「しょうさん、このサーモン美味しいわよ」と囁くように言い、父が「そうだな」と答える。二人だけの、小さなやりとり。
涼香は黙って食事を進めた。
フルーツの甘さも、バゲットの香ばしさも、今日ばかりは感じにくかった。
「ご馳走さまでした。……それで、私を呼んだのは」
先に言ってしまおうと思った。長引かせたくない。
「ああ、そうだ。涼香ももう十八だろう?」
「はい。今年の七月で十八になりました。」
「貴女に見合いの話が上がっているの」
恵里が、涼しい顔で言った。
「は……み、あい、ですか」
「そう。七瀬家も他の財閥との結びつきを大切にして、より強固なグループになるべきでしょ?」
恵里が、銀の匙をゆっくりとカップのふちに当てながら続けた。
「そこで手始めに、関係が希薄になりつつある『四瀬』の者——ああ、その分家と言えば正しいかしら。その者と見合いなさい」
「四瀬……分家……」
よりにもよって、一番嫌な組み合わせの単語が並んだ。
いや。いやだ。そんなの。だめ。だめなの、だめだ——
『彼』は——『彼』は、絶対に——。
「涼香、貴女が口出しできる問題でないのはわかっているわね?」
恵里が、わずかに目を細めた。
「もともと七瀬家に不利益をもたらしたのは貴女よ」
テーブルクロスの白が、やけに目に刺さった。
「だから、大人しく四瀬の分家の——」
その言葉の続きを、涼香は聞いていなかった。
胸の中に、ただ静かな、重いものだけが落ちていた。
*****
「俺も行けば良かったかなぁ」
兄が祖父母の家に泊まりに行っているため、少し物足りない休日のある日。竜喜はリビングのソファに体を預けて、どこをみるともなく天井を眺めていた。
そこへ、さっきから上機嫌に電話をしていた母、綿貫燐が受話器を置いた。
「はい! は〜い! 勿論! はい、詳しい話は後日、はい! では失礼いたしますぅ〜」
ぱたりと電話が切れる音と同時に、母が振り返った。
「ねぇ! 聞いて! 聞いて! 竜喜!」
「なに」
ハイテンションの母親に、内心「キッツ」と思いながら答える。
「お兄ちゃんに、和哉にね!」
「うん」
「本家の方からお見合いのお話が来たの!!」
「……は?」
竜喜が、天井から目を離した。
「もー、お母さん驚いちゃった! 和哉は女っ気がなかったからちょうどよかったわぁ。これで将来安泰ね」
竜喜は立ち上がった。母が何か言っていたが、耳に入らなかった。
兄さんが、祖父母の家に、湊さんと一緒に行っているこの日に——。
「まさか」
*****
「七瀬家のお嬢様とのお見合いがくるなんて、思ってもみなかったわぁ!」
「綿貫和哉と見合いなさい」




