63話「久我との遭遇」
和哉の祖父母宅にお泊まりさせていただいた湊、和哉の急用で急遽帰宅となったのだが——。
住宅街を抜けたところで、山道の小道に入ってしまった。駅は山のある方向なので間違いないはずだ。おそらく。たぶん。
(あの人すごく、辛そうな顔をしてた)
和哉が「ごめんね」と言った時の顔が、頭から離れない。体育祭の前に茶道室で見せた顔とも、動物園での顔とも違う。何か重いものを、一人で抱えようとしている顔だった。あんな顔で「ごめんね」と言う人を、そのまま置いてきてしまったことが、どこかに引っかかっている。
山道の小道が、細い林道に変わっていく。両側から木々が迫って、空が狭くなった。木漏れ日が足元にまだら模様を作っていて、蝉の声が山の中でぐるりと響いている。
いや、気づいてはいる。気づいてはいるのだが、引き返すより進んだ方が正解な気もして、そのまま歩き続けていた。足元の砂利が、歩くたびにじゃりじゃりと音を立てた。鳥の声がして、枝がゆれた。
しばらく歩くと、林が開けて広場に出た。
土のグラウンドだ。ゴールポストが二つ立っていて、そこで高校生くらいの男子たちがサッカーの合同試合をしていた。審判の笛の音と、ボールを蹴る音と、「ナイス!」「もっと前!」という声が飛び交っている。
その中の一人が、こちらに気づいた。
「ん? あ、久我?!」
白を基調とした黒の線がポイントのTシャツに青の半ズボンのユニフォーム姿の尚弥が、湊を見て目を丸くした。
「あ、村内先輩」
「なんでここにいる?!」
「駅に行きたくて」
「……なんて?」
「地図は読めるんですが、現在地と地図が一致しないんですよね」
「それは読めていると言えない!!」
尚弥が思わず大声を上げた。試合中の仲間が「どうした村内」と振り返る。
「なんでもない! ちょっとだけ抜けさせてくれ!」
「お前また! じゃあ人数合わせで交代頼むぞ」
「了解!」
尚弥がちょいちょいと手招きして、湊を外に引っ張り出した。
「駅はどっちですか」
「あっちの方角に出れば大通りに出る。そっから十分もあれば駅だよ」
「ありがとうございます、助かりました」
「いやまじで。あのさ、湊ってなんでそんなに方向感覚ないの。さっき合宿所からの帰り道でもどっか行ってたし」
「なんか確信を持って逆方向に行きますよね」
「それ自分でわかってるなら直せよ」
尚弥が苦笑いしながらタオルで汗を拭いた。ユニフォームの背中に汗が滲んでいる。夏の終わりの日差しは、まだ容赦がない。
「なにをどう間違えたら林の中から高校のグラウンドに出るんだ。野生動物かと思った」
「でも来て良かったじゃないですか、こうして先輩に会えました」
「お前…そういうところだぞ」
なぜか尚弥が呆れた顔をした。何がそういうところなのか、湊にはよくわからなかったが、多分褒め言葉ではない気がした。
「そっちは? 今日どこかに泊まってたの? えらく遠くから迷子になってるけど」
「ちょっと、お世話になった先輩がいて」
「綿貫先輩?」
「……まあ」
「体育祭後からベッタリだよなぁ。仮交際なのが疑わしい」
尚弥がそう言いながら、でもにやにやとはしていなかった。むしろ少し真剣な目をしていた。
「……あまりハメ外すなよ」
「外しませんよ!」
湊が否定すると、尚弥が「わかった、わかった」と手を振った。
「途中まで送るよ。どうせこっちも一回休憩するつもりだったし」
「ありがとうございます」
*****
広場を出て、大通りへと続く道を歩いた。
尚弥はさっきまでの試合の話をしながら、前を歩いていた。湊はその少し後ろをついていく。
(ちゃんと伝えておくべきだったか)
足を進めながら、和哉のことを考えていた。「辛いことがあったら教えてください」と言った。それは言えた。でも、届いていたのだろうか。
和哉先輩は何かを一人で抱えようとする節がある。「お助けなし」と言った昨日の言葉が、改めて頭に引っかかってくる。あれは湊に向けて言った言葉というより、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
「……久我、止まれ」
尚弥がふいに立ち止まった。
「え、どうしたんですか」
尚弥の視線の先を追う。
少し先の路地のそばに、見慣れた背中があった。黒髪、細い肩、赤い髪飾り、いつもの凛とした立ち姿——七瀬涼香だ。その隣に、涼香より少し長身の、黒いスーツ姿の女性が立っている。
「七瀬先輩? っとメイドさん、こんちわっす。去年の文化祭ぶりですかね」
尚弥が声をかけると、涼香の肩がわずかに動いた。
「おや村内様、お久しゅうございます」
芽が、静かに会釈した。品のある落ち着いた所作だが、どこか目の端で素早く周囲を確認している。
「! 村内君、どうしてここに」
「近くでサッカーの練習試合があって。グラウンドで久我が迷子になってたんで途中まで送ってたとこです」
「グラウンドで迷子⁇」
芽が頭にはてなマークを浮かべるがそれをよそに涼香が湊の方を見た。湊が軽く頭を下げる。
「久我さん」
涼香は少し驚いた様子で湊を見て、目を逸らした。何かを考えているような横顔だった。
綿貫祖父母宅の近くにいる湊の存在が、涼香の中で何かと繋がったのかもしれない。
「そうなんですか、通りで汗が……少しお待ちを」
芽が素早くカバンの中からタオルを取り出して、尚弥の方に差し出した。躊躇なく、自然な動きで。
「ん、あ、すいません」
「汗だくで放置していると、身体が冷えてしまいますよ」
「……ありがとうございます」
尚弥が少し面食らったような顔で受け取った。目線が少しだけ泳いだ。涼香が軽く視線を逸らした。
「……ふふ」
芽が、わずかに表情を緩めた。
「あ、村内先輩、ありがとうございました。自分は失礼します」
「うん。次からはちゃんと地図見ろよ」
「見てます、俺はいつも見てます」
「だから問題がないと思ってるのが問題なんだ」
湊が苦笑いしながら大通りの方へ歩いていった。その背中を見送ってから、芽がまた口を開いた。
「お二人とも、お外では汗を拭っても効果は薄いでしょう。丁度そこにカフェがございます」
芽が、通りの少し先を指差した。確かに、こじんまりとした喫茶店があった。年季の入った看板に、手書きで「本日のランチ」と書いてある。木製のドアに、小さな花の飾りがついていた。
「時間ももう昼食のお時間です。お二人で入られては」
「え!」
「め、芽! 急になにを」
涼香の声に、珍しく動揺が滲んだ。
「この時間から屋敷に戻りお食事を作りますと、かなりお時間をいただいてしまいます」
「そ、そんなの別に。……それにこんな状況で」
「こんな状況だからですよ」
芽が、静かにしかし確かに言い切った。
「村内様とのお食事は、気分転換によろしいでしょう」
涼香が口を開きかけた。だが芽の目が、静かに「大丈夫です」と言っていた。いつも涼香の傍に立ってきた人の目が、今日に限って背中を押していた。
「村内様、しばしお嬢様のお相手をお願い申し上げます」
「へ、あ、はい!」
尚弥が、少しだけ間を置いてから、しっかり答えた。
「私は車内にて行う作業がございます。お会計の際にお呼びください」
そう言って、芽はさっさと来た方向に歩いていった。その背中は、これ以上の言葉を必要としないと言わんばかりに、迷いなく遠ざかっていく。車のドアが閉まる音がして、静かになった。
残された二人が、しばらく静止した。
通りを人が行き交う。どこかで子供の声がした。
「……入りましょうか」
尚弥が、少しだけ自然を装いながら言った。
涼香が、少しの間を置いてから答えた。
「はい」
喫茶店の扉を、尚弥が先に押さえた。古い木の扉が、きぃ、と小さく鳴った。
昼の光の中に、ほうじ茶の香りが漂っていた。




