59話「月夜のいとま」
(いや、寝れるわけがないでしょう?!)
湊は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
障子から差し込む月明かりが、畳の上に細く伸びている。隣では和哉の寝息が聞こえていた。穏やかで、規則正しい。ぐっすり眠れているらしい。
自分が眠れない理由は、わかっていた。
川沿いのベンチで交わした言葉が、頭の中でぐるぐると繰り返されていた。和哉の名前を声に出した時の感触。あの時の先輩の真っ赤な耳。「僕のわがままを聞かなくていい」と言いながら、それでも「湊のわがままも聞かせて」と言ってくれた、あの声。
『和哉』
「っ〜〜〜〜」
このままここにいても眠れる気がしないので、湊は和哉を起こさないように静かに布団から抜け出した。廊下を忍び足で歩いて、縁側へ出る。
夜風が、ゆっくりと頬を撫でた。
月が、まるく、白く、夜空の真ん中に出ていた。
*****
縁側に腰を下ろして、庭を眺める。昼間は花が咲いているのが見えたが、夜は輪郭だけになって、静かに暗闇に溶けていた。
月明かりの中で、さっきの言葉を振り返る。
「雪さんや竜喜のことも体育祭のことも、僕が口を出す話じゃない。湊の、湊だけの縁なんだ。僕のわがままを聞かなくていい」
「わがままなんて……」
「だから、これからはお助けなし」
そう言いながら、和哉は「湊のわがままも聞かせて」と言った。先輩は、わかっているのだ。自分が時々、湊に頼りすぎていることを。だから律しようとしている。ちゃんと、自分の足で立つために。
でも——湊は縁側の板をそっと掌で押さえながら思った。
(先輩は俺の全てなんです。俺は、俺は……)
灰色だった世界を春色に変えてくれた人に、「お助けなし」と言われても。先輩が先輩であること、湊のそばにいてくれること、それ自体がもう、十分すぎるほど「お助け」なのだと思う。でも、それは今夜言わなくていいことだった。それが野暮なのはわかる。
「寝れないのか」
低い声が、背後から静かに降ってきた。
「あっ、す、すみません。目が冴えて」
振り返ると、清隆が縁側の端に立っていた。寝巻き姿の老人が、腕を組んで、月を見上げている。
「慣れない場所なのだから仕方ない」
そう言って、清隆が湊の隣に腰を下ろした。二人して、庭を眺める。
「……今日は、満月か」
「はい、花火の時も綺麗でした」
「そうか」
しばらくの沈黙があった。虫の声だけが、途切れることなく続いている。
「あいつは昔からおとなしい子でなぁ」
清隆が、静かに言った。
「あまり話さない。静江のやつが親戚の茶会に連れて行ったりしていたが……和哉が友人と遊びに行くなどという話を、ついぞ聞かなかったな」
「そう、でしたか」
「うむ。だから今日、君が来た時に少し驚いた」
清隆の清流のような瞳が、月を映している。竜喜のような人を見透かすような目、和哉のような沈み飲まれそう瞳、その奥には長い時間が積み重なっている。
「君は和哉の『特別』なのだな」
湊は少しだけ間を置いてから、答えた。
「そう、ですかね。……だと、嬉しいです」
「ああ」
清隆がそれだけ言って、また黙った。
しばらくの間、二人で月を見ていた。
「……俺は今も、妻の静江を愛しておってなぁ」
「え?! へ? あ、はい」
突然の話題転換に、湊が慌てた。清隆は表情を変えないまま、月を見ている。
「静江は昔から朗らかで心根の優しい女性だった。今も変わらん」
そう言ってから、少し遠くを見る目になった。
*****
静江は地元の『四瀬家』のお嬢様だった。対して俺は片田舎の小さな呉服店の母子家庭の子供だった。
あれは俺が十二歳の夏。母親に店番を任された日のことだ。着物など興味なく、暇を持て余して店の奥で欠伸をしていた。
「まぁ、素敵なお着物」
鈴の音を転がすような声が聞こえて、顔を上げた。
艶やかでふわっとした黒髪に、梅のような赤い瞳。淡い桃色の着物に黄色の帯が映えていた。小柄で、白い肌をした、見惚れるような女の子だった。
当時十五歳の静江だった。
「お店のお方?」
「は、はい!」
「いいお着物ね。このお値段で売るのが勿体ないくらいだわ」
「め、滅相もありません」
「ご謙遜なさらないで。この新緑色のお着物なんて、とても良い刺繍だわ」
そう言って、着物を愛おしそうに眺める目が、本当に好きそうに細まった。着物の良さをわかって見ている目だった。
「おい!そっちに居たか!」
「いえ、西側にはおりませんでした!」
大人の男の声が、通りの方から聞こえてきた。
「! ごめんなさい! 少し隠してくださいまし」
「え!」
静江が素早く店の奥に入り込んだ。少しして、スーツを着た男が一人、店に入ってきた。どこかの家の従者というような、ぴしっとした佇まいをしている。
「失礼、少年。ここに着物を着た女の子は来なかったか。桃色の着物だ」
「わ、わかりません。此処にはおりません」
「そうか」
そう言って立ち去る男の背中を、清隆は息を止めて見送った。
「……行った、よ?」
「ありがとう」
返ってきた声は、白い布の下から聞こえてきた。店の反物を頭から被って、棚の陰に身を縮めていた。白い布を纏うその姿は、まるで天女のような、白無垢のような美しさだった。
その日から、静江の親の「お家の仕事」がある日に限り、俺と静江は護衛の目を盗み、時折会うようになっていった。
「清隆! これを見て」
「どうした……っ!!」
「べー、ふふ」
「舌! いちごのシロップで真っ赤だったでしょう? 清隆の舌は黄色かしら、見せて?」
「静! そう人に舌を見せるものじゃない!」
「いいじゃない……お家ではできないのよ? こんなはしたない事」
「外ではもっとダメだ、他の人にはしたらダメだぞ」
「もう……貴方以外にはしないわよ」
そう言ってにこりと笑う静江の顔が、今でもはっきりと目に浮かぶ。
でも、そんな時間も長く続かなかった。
「護衛の者が父に報告したらしいわ。父はもう会うなって」
料亭、清隆が入ることも臆すような場所に「四瀬」から招待された。手切れ金ということだろう、そう思った。俺には過ぎた恋だ、と。
「そうか」
それしか言えなかった。言葉の続きが、出てこなかった。
「だからね、そんな意地悪を仰るお父様と取引したの」
「取引?」
「ええ、清隆と会うことをお許しいただけなければ、私は一人家を出ます。この足で歩いてでも清隆の元に参ります——ってね」
「な!」
「加えて、私をお家に閉じ込めるおつもりなら。私にお食事は不用意でございます。次の食事は清隆とと決めましたの」
静江がふふ、と笑った。
「その時のお父様と従者たちの顔ったら、大変愉快でしたわぁ」
「静……なんでそんな、俺に会うためだけに……」
「貴方に会うためだからですわ、清隆」
その目が真っ直ぐに向いてきた時、息の吸い方がわからなくなった。
「清隆。私、四瀬静江は貴方をお慕いしております。どうか、私の隣を生涯歩いてもらえますか?」
*****
清隆が、目を細めた。
「それから、俺は静江にゾッコンでなぁ。一緒に守ると誓ったよ」
「そのあと、静江の家のこととかいろいろ問題はあったが……知らぬ間に強かなお嬢様が対処していたよ。俺の出る幕がないくらいにな」
「か、かっけぇっすね、静江さん」
湊が思わず言うと、清隆が珍しく口元に微笑みを浮かべた。
「ああ、かっこよくて、美しくて、可愛らしい。年老いてもな」
その言葉が、迷いなく、自然に出てきた。長い年月を一緒に生きてきた人に言う言葉が、こんなにも柔らかく出てくるのか、と湊は少し驚いた。
「さて、老骨の昔話に付き合ってもらって悪かったな」
清隆がゆっくりと立ち上がった。
「いえ、素敵なお話でした。ありがとうございました」
「そろそろ寝るよ」
「はい。おやすみなさいです」
清隆が縁側から廊下に入り、足音が遠ざかっていく。しばらくして、完全に静かになった。
湊は一人、縁側に残った。
もう一度、月を見る。満月が、さっきと変わらず白く光っていた。花火の夜に二人で見上げた空と、同じ空だった。
湊は小さく、誰にも聞こえないように言った。
「月が綺麗だよ、和哉」
夜風が、また一度頬を撫でた。
虫の声だけが、続いていた。




