58話「花火の夜」
短大から電車で三十分ほどの駅で降りた。
駅前は比較的静かな下町の雰囲気で、古い商店が軒を連ねている。夕方になっても夏の日差しはまだ強く、アスファルトから熱気が立ち上っていた。その先の路地には、夏祭りに向けた提灯が吊るされていて、夕暮れを待たずして祭りの気配が漂い始めていた。
「もうすぐだよ」
和哉が、少し懐かしそうな顔をして歩き出した。
細い路地を二度曲がったところに、年季の入った木造の店があった。手入れの行き届いた鉢植えが玄関の両側に並んでいて、夏の花が控えめに咲いている。店の正面には、落ち着いた色合いの暖簾がかかっていた。
その暖簾には、控えめな筆文字で書かれていた。
『綿貫呉服店』
呉服店。少し驚いたが、なるほど、と湊は思った。着物の家に生まれた和哉先輩が茶道に馴染んでいるのは、こういう地続きの場所があったからなのかもしれない。
「おじいちゃん、おばあちゃん、来たよ」
和哉が暖簾をくぐって声をかけると、すぐに奥から返事が聞こえた。
「あら、和哉。待ってたよ」
出てきたのは、ふわっとした白髪を柔らかくまとめた小柄な女性だった。顔に刻まれた皺が、笑うたびに深くなる。和哉の穏やかさが、そのまま年を重ねたような雰囲気の人だった。
「おばあちゃん、この前言ってた後輩の湊だよ」
「こんにちは、祖母の綿貫静江です」
静江がそう名乗りながら、湊の方を見てにこりとした。その微笑みの温度が、玄関の空気ごと柔らかくしてくれる気がした。
「久我湊です。お邪魔します」
湊が頭を下げると、静江は「いらっしゃい」と言って扉を大きく開けた。
「和哉から話は聞いてたよ。さあ、上がって上がって」
奥から、もう一人の足音が近づいてきた。
「おう、来たか」
「夫の清隆よ」
祖父——綿貫清隆——は背筋の伸びた、見るからに凛とした老人だった。清流のように澄んだ瞳をしていて、その目の鋭さは竜喜に似ていた。眉の皺や顔の彫りの深さは別物だが、人の芯を見透かすような目の使い方が、確かにあの弟と同じだった。
「久我湊です。よろしくお願いします」
「ふむ、しっかりした子だな」
清隆がそう言ってから、和哉の方を見た。
「着物は静江が準備してある」
「ありがとう、おじいちゃん」
*****
座敷に通されると、すでに着物の準備が整っていた。和哉のものは畳の上に丁寧に広げられている。
「和哉、これはおじいちゃんが若い頃に着ていたものだよ。濃い紺が似合うと思って」
静江が指差したのは、深く落ち着いた紺色の着物だった。生地のつやが上品で、帯の白が差し色になって映えそうだった。
「ありがとう」
「着付け、してあげましょうか」
「いや、僕はできるから」
「あら、残念。昔はしてあげたのに。『おばーちゃん着せてって』っておねだりして……」
「いつの話さ、ほら、湊も着替えるんだから。ちょっと出てて」
「ああ、はらり、最近孫たちが冷たいわ」
静江は目元を隠して、演技くさく泣いてみせた。しかし声は全然悲しくなかった。
「はいはい」
和哉が静江を追い出してから、湊の方を見た。
「湊は? 着物、着たことある?」
「やったことないです」
「そうだと思って、湊のはこれ」
和哉が棚から出してきたのは、着物ではなかった。
「甚平ですか」
「うん。着物の着付けは時間かかるから、甚平にしたよ。着やすいし、夏祭りにもよく合うし」
差し出されたのは、水色の甚平だった。上着は薄手の麻素材で、淡い格子柄が涼しげに見える。生地がさらっとしていて、手触りが気持ちよかった。ポケットが両脇についていて、衿元が浅く開いている。結び紐は同じ水色だ。
「僕のとお揃いっぽいね、色が」
和哉が濃紺の着物を指差した。確かに、濃淡は違うが同じ青の系統だ。
「じゃあ、着てみます」
甚平は上下に分かれていた。下は浴衣のような短い裾のズボン型で、膝の少し上まである。上着は前を打ち合わせて紐で結ぶ形だ。
一人で手を通して着てみると、思っていたより簡単だった。左前にならないように気をつけながら衿を合わせて、脇の紐と前の紐を丁寧に結ぶ。
「結び目、ちょっとこっち」
和哉が自分の着物を着ながら、さりげなく手を伸ばして湊の紐の位置を直した。
「そう、それでいい」
「先輩は着物なのに、同時進行で人の指示するんですね」
「慣れてるから」
和哉が苦笑いしながら、帯を締めていく。淡々とこなしているが、茶道の所作で鍛えた手先の確かさが、着付けにそのまま出ていた。
二人で着替えを終えて、座敷の縁側に出ると、静江が「ちょっと待って」と言いながら戻ってきた。
「うん、似合う。よかった」
静江が満足げに頷いて、湊と和哉を見比べた。濃紺と水色が並んで立つと、自然と絵になる。
「どれ」
清隆が腕を組んで湊をじっと見た。
「背筋が良い。しゃんとして見えるな」
「ありがとうございます」
清隆が一度、湊と和哉を交互に見てから、小さく頷いた。その表情には、何かを見抜かれたような錯覚を覚える。竜喜と同じ目だ、と湊は思った。
静江は台所の方へ行ってしまって、しばらくすると「夕飯の前に少し食べて行きなさい」と甘味を持ってきた。
「茶道の先生でもあるのよ、お茶もどうぞ」
お盆の上には、薯蕷饅頭が一つずつ。そしてさりげなく、お茶が点てられていた。
和哉が静江のお点前を、穏やかな顔で見ていた。
「おばあちゃんのお点前、いつ見ても好きだな」
「そんなこと言って。和哉の方が上手になってるよ、もう」
「そんなことないよ。僕がお茶を好きになったのは、おばあちゃんのおかげだから」
静江がふわりと笑った。その笑顔に、清隆が横から「そうだな」と言った。
「そういえば、しげちゃん元気?」
「うん、変わりないよ」
湊はその様子を眺めながら、薯蕷饅頭を口に入れた。口の中で上品な甘さが広がって、お茶の苦みとよく合った。
(この場所が、和哉先輩にとって、お母さんのいない時間の場所だったんだな)
茶道を教えてくれる先生は吉野先生だったが、和哉が茶道を始めた場所はここだったのだろう。この家で、この二人の傍で。母の「普通」ではなく、自分で選んだ「好き」を最初に知った場所が、ここだった。
薯蕷饅頭の白い甘さが、喉の奥にゆっくりと溶けていく。
*****
夏祭りの会場は、川沿いに設けられていた。
日が沈みかけると、提灯の光が一斉に灯って、川の水面に揺れた。屋台の匂いが漂い、どこかから太鼓の音が聞こえてくる。家族連れや浴衣姿の若者が行き交って、夏祭りの喧騒がゆっくりと立ち上がっていく。店先からは焦げた醤油の香りが漂い、綿菓子の甘い匂いが混ざって、夏の夜だけの空気ができていた。
「いい時間に来れたね」
着物姿の先輩は、普段とは少し違う。背筋がさらに伸びて見えて、眼鏡の奥のサファイアの目が、祭りの明かりに照らされていつもより明るく輝く。
「先輩、着物姿もいいですね」
「湊もね。よく似合ってる」
「ありがとうございます」
湊は済ましたように繕って答えた。少しドキっとして欲しくて言ってみたのに、思わぬカウンターを食らってしまう。先輩はいつも、こういうタイミングで素直に返してくる。
「何か食べますか」
「そうだなぁ、まずは軽く……焼きトウモロコシ?」
「いきましょう」
祭りの中をゆっくりと歩きながら、屋台をはしごした。焼きトウモロコシ、わたあめ、たこ焼き。和哉は食べるたびに「おいしいな」と言って、湊はその度に微かに笑った。
先輩と並んで夏祭りを歩く。それだけで、なんだか夢の中にいるような感覚があった。茶道室で初めてこの人を見た日から、こんな日が来るとは思っていなかった。
川沿いのベンチに腰を下ろした頃、空に最初の花火が上がった。
ドン、と音が遅れてやってくる。川の水面に光が反射して、二重に広がっていく。
「わあ」
和哉が、子供のように声を漏らした。動物園の時と同じ顔だ。この人はこういう非日常なものに、毎回正直に反応する。その正直さが、湊はずっと好きだった。
だからこそ——彼の知らないこと、したいこと、挑戦したいことに向き合うたびに、この瞳の宝石が磨かれるように輝く様を、ずっと隣で見ていたいと思う。
——あの時、みたいに。
しばらく、二人とも黙って花火を見ていた。夜空に花が咲いては消え、咲いては消える。その繰り返しに、二人とも黙って引き込まれていた。川の音と祭りの賑わいが遠くに聞こえる中、ここだけが少し違う時間の中にあるような気がした。
「ねぇ、湊」
「はい」
「聞いていいかな?」
「どうぞ」
和哉が、少し川に目線を落としてから言った。
「どうして、そんなに好きになってくれたの。僕のこと」
和哉は川から目を離して、湊の方を向いた。その目が、花火の残光の中で、少し緊張した色をしていた。本当に知りたくて、でも少し怖くて——そういう目だった。
「……初めて先輩を見た時から、かな」
「最初から?」
「はい。先輩に初めて見つけてもらえた春の日。その時に自我が目覚めたような錯覚を覚えたんです」
「ん? 自我??」
「あはは、変な話っすよね」
湊は少し笑ってから、川の方に目をやった。水面に揺れる提灯の明かりが、細く、長く伸びている。
「……中学に入学して、いえ、その前まで俺、自分っていう存在がふわふわしてたって言うか。きっと他者にも自分にも、興味がなかったんです」
「それは……」
「小学生の頃の友達との思い出とか、ほぼないですね。妹や親から昔のことを聞いても、人ごとみたいで……ここにいるのに、どこにもいない感じがしてて」
声にしてみると、思ったより静かな言葉になった。悲しくもなく、特別深刻でもなく。ただ、そういうことだったのだ、という記憶の話。
「俺って、空っぽだったと思うんですよね、先輩に会う前は。そこにいるのに、誰でもない感じがして。中学でも、一人でいることの方が多かった。別に辛くはなかったんですよ。ただ、世界が灰色というか、全部が遠くにあるような」
和哉が何も言わずに、静かに聞いていた。
「だけど、あの時——先輩を見た瞬間、灰色だった世界が春色に彩られたんです。それから、先輩を追いかけて茶道部に入って、雪や綾香、七瀬先輩や村内先輩と知り合って、少しずつ、『久我湊』が出来上がっていったんです」
湊は少し息を吸ってから続けた。
「だから先輩のことが好きって言うと、語弊があるかもしれないんですけど。先輩が俺に話してくれること、毎回全部聞きたくて。悩んでる時の先輩も、嬉しそうな先輩も、全部見てたい。俺が先輩の隣にいる時間が好きで、先輩が知らない先輩のことも全部知りたい」
「もっとうまく言えたらいいんですけど、要するに全部が好きなんです」
花火がまた一発上がった。オレンジと金色の光が空に広がって、川に落ちた。二人の顔を、その光が照らした。
「……お互いダメダメだったんだね」
和哉が、少し寂しそうに呟いた。でも次の言葉は、しっかりとした面持ちで続けた。
「僕は出会ってすぐの時から、『久我湊』と話してたよ。もちろん、出会う前もね」
湊は和哉を見た。眼鏡の奥の目が、まっすぐこちらを向いていた。
「先輩は、もうその時から」
「うん。だから湊が自分のことを空っぽだったって言っても、僕には信じられない。あの時の湊は、ちゃんと久我湊だったよ」
その言葉が、静かに胸の中に落ちてきた。
じわりと、目の奥が熱くなる気がした。泣きたいわけではないのに、なぜかそういう温度が来た。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃないよ」
もう一発、花火が上がった。
「……湊」
「はい」
「僕ね、ちょっと嫉妬したんだ」
「何に?」
「体育祭の時や竜喜と仲良くなった時。水着の件も。湊が誰かと笑ってるのを見ると、なんか落ち着かなくなって」
和哉がそう言いながら、手元の食べ終わった焼き鳥の串をくるくると回していた。そわそわした動きが、いつもの先輩らしくなかった。言いたくて、でも言うのが恥ずかしくて、それでも言うことにした——そういう雰囲気が伝わってくる。
「俺、嬉しいです」
「……え?」
「先輩が嫉妬してくれたの、嬉しいです」
「お、おかしいでしょそれは」
「おかしくないです。そういう気持ちを持ってくれてるってことですから」
和哉がぷっと噴き出した。
「湊は本当に、変なとこで強いね」
「褒めてます?」
和哉が、湊の額に軽くデコピンをした。ぱちん、と軽い音がした。
「褒めてないよ」
また、もう一発、大きな花火が上がった。空に大輪が咲いて、川の水面に映る。その光が二人を照らして、すぐに消えた。
「あのね」
和哉が静かに言った。
「湊のことを、もっと独り占めしたい、って思ってる」
「……それも、嬉しいです」
「本当に変な子だ」
「先輩のためだけに変なんです」
和哉が困ったように笑った。でもその目が、明らかに嬉しそうだった。それから、少しだけ表情が真剣になった。
「それじゃあダメなんだよ? 僕は僕、湊は湊なんだから」
「……」
「ちゃんと、ちゃんとしないといけない。僕は湊と一緒だから進路に向き合っていけてる、でもこれは本当は僕が一人で向き合わないといけないことなんだよ。今日みたいに、背中を押してもらえることは嬉しいけど……僕の人生を、湊に頼り切りにしちゃいけない」
和哉は少し視線を下げてから続けた。
「雪さんや竜喜のことも体育祭のことも、僕が口を出す話じゃない。湊の、湊だけの縁なんだ。僕のわがままを聞かなくていい」
「わがままなんて……」
「だから、これからはお助けなし」
和哉がそう言って、少し間を置いてから声を柔らかくした。
「でも、湊も何かわがまま言っていい。今夜は」
「え」
「僕だけがわがままを言ってたら不平等だから。湊にも、言ってほしい」
川の音が、静かに流れていた。提灯の光が揺れて、花火の音が遠くから聞こえてくる。
「ねぇ、教えて湊のわがまま」
湊は少し考えてから、顔が熱くなるのを感じながら言った。
「か……って……」
「ごめん、なんて?」
「……か、って呼んでいいですか」
「なんて呼んだらって?」
和哉が首を傾けながら真剣に聞いてくる。くり返させないでくれ、と湊は思いながら、一度息を吸った。花火が一発、夜空に咲いた。その光の中で、湊は言った。
「……和哉、って呼んでいいですか」
一瞬の間があった。
「……え?」
「名前で呼びたくて。ずっと。でも言えなくて」
和哉の耳が赤くなるのが見えた。花火の光のせいだけではないことは、明らかだった。頬も、首筋も、少し赤い。
「……そ、それは、うん、いいけど」
「和哉」
「……ッ」
「どうしました?」
「いや、急に言われると……ちょっと待って」
和哉が両手で顔を覆った。でも指の隙間から見える耳は、真っ赤だった。川沿いの提灯の光が、その赤を少し強調していた。
「呼んだらダメでしたか」
「ダメじゃない、ダメじゃないんだけど……もう少し心の準備が」
「和哉」
「こら、意地悪」
湊が笑うと、和哉も笑った。
空に最後の一発が上がった。今夜一番大きな花火が、夜空に広がって長く尾を引き、川の水面に映って揺れ、消えた。
二人分の笑い声が、川沿いの夜風に混ざって溶けていく。花火の煙が、夜空にゆっくりと散っていった。
*****
祭りが終わって、祖父母の家に戻ると、清隆が玄関で待っていた。
「もう遅い。今夜はここに泊まっていけ」
「でも、準備とかも……」
「静江が布団も用意してある。連絡は家にしておいた。湊くんはあとでおうちの人に電話を繋いでくれ」
有無を言わせない口調だったが、その目は穏やかだった。竜喜のような鋭さの奥に、ちゃんと温かいものがある。
「……ありがとうございます。お邪魔します」
湊が頭を下げると、清隆は「うむ」とだけ言って奥に引っ込んだ。
「おじいちゃん、ああ見えて世話好きなんだよね」
和哉がそう囁いた。その声が、少し誇らしげだった。
仏間に隣接した客間に布団が二組敷いてあった。静江が「お風呂、先に入ってね」と声をかけてくれた。
お風呂を出て、客間で布団に入った。障子から差し込む月明かりが、畳の上に薄く伸びている。窓の外では、虫の声がのんびりと続いていた。風が時々、障子を揺らした。
「湊」
「はい」
「今日、ありがとう。一緒に来てくれて」
「俺の方が楽しかったです」
「嘘」
「本当ですよ」
少し笑い声が混ざってから、また静かになった。
「湊」
「はい」
「もう先輩って呼ばないの?」
「呼んだらいいですか」
「どっちでも、いいよ」
和哉の声が、少し眠そうになっていた。
「保育士、なれますよ、絶対」
「……うん」
「今日の和哉、すごくよかったです。さゆちゃんのとことか、特に」
「見てたの」
「廊下から、少しだけ」
和哉が柔らかく笑う気配がした。
「ありがとう」
虫の声が、窓の外から静かに聞こえていた。花火の記憶が、まぶたの裏にまだ残っていた。
「おやすみなさい、和哉」
「……おやすみ、湊」




