57話 夢と決意
体験プログラムの後、見学者向けの個別相談コーナーが用意されていた。
「もしよろしければ、保育科の在校生にお話を伺えますが、いかがですか」
職員の案内で、湊と和哉は別の部屋に通された。そこには、保育科二年生だという女子学生が一人、待っていてくれた。
「こんにちは、保育科二年の菜月由那です。よろしくお願いします」
明るい笑顔で挨拶をしてくれた彼女は、体験プログラムを担当していたスタッフの一人でもあった。
「先ほどはありがとうございました。お二人とも、子供たちにすごく懐かれてましたね」
「ありがとうございます。すごく楽しかったです」
和哉が答えると、由那が嬉しそうに頷いた。
「保育士を目指してるんですか?」
「はい。まだちゃんと決めたわけじゃないんですけど、興味はあります」
「そっか。じゃあ、せっかくなので、いいことも大変なことも、両方お話ししますね」
由那はそう前置きしてから、椅子に座り直した。
「保育士の仕事、子供と接する時間はもちろん楽しいです。今日見ていただいた通り、子供たちは本当に素直で、可愛くて。でも——」
少し言葉を選ぶような間があった。
「正直、体力的にはかなりハードです。一日中子供を抱っこしたり、追いかけ回したり。あと、給料面でも、決して高い仕事とは言えないのが現実です」
「……そう、なんですね」
和哉の表情が少し引き締まった。
「それと、保護者の方との関係も大事な仕事の一部になります。子供だけじゃなくて、保護者の方の気持ちにも寄り添わないといけない。これが結構、難しい時もあります」
「想像していたより、大変なんですね」
湊が思わず口を挟んだ。
「はい。でも」
由那が、少し笑った。
「それでも、私はこの仕事がいいと思ってます。子供の成長を一番近くで見られるし、『せんせい』って呼んでもらえる瞬間が、何度経験しても嬉しいんです。今日、お二人も呼ばれてましたよね」
「あ……はい」
「かずやくん、かずやせんせいって」
和哉が照れたように頷いた。
「あの呼び方、何度聞いても胸がいっぱいになります。私は、それでこの仕事に就きたいと思えています」
由那の言葉には、現実の厳しさを語る冷静さと、それでも好きだという確かな熱量の両方があった。和哉はその話を、一言一句聞き逃さないように耳を傾けていた。
「綿貫さん、でしたよね。今日の体験で、どう感じましたか」
由那に聞かれて、和哉は少し考えてから答えた。
「正直、大変な部分もたくさんあるんだろうなって、今のお話を聞いてよくわかりました。でも、それでも——」
和哉は一度言葉を切った。
「子供と一緒にいる時間が、すごく自然に感じられました。今まで色々な場所を見学してきたんですけど、こんなに自分の中にしっくりくる場所は、初めてでした」
その言葉は、誰かに言わされたものではなく、和哉自身の中からまっすぐに出てきたものだった。
「それなら、きっと向いていると思いますよ」
由那が、優しく微笑んだ。
「大変なことも全部含めて、それでもやりたいと思えるなら、それが一番の理由になります」
*****
短大を後にして、丘を下る帰り道。
和哉はしばらく無言だった。湊もそれを察して、特に話しかけずに隣を歩いた。
坂の途中、見晴らしの良い場所に差し掛かったところで、和哉が立ち止まった。
「湊」
「はい」
「僕、決めたよ」
その声は、これまでで一番、迷いのない声だった。
「保育士になる。この短大に進学して、ちゃんと資格取って」
「先輩……」
「大変なことも、いっぱいあるんだろうなってわかった。お給料のこととか、体力のこととか。でも、それでもやりたいって、今日はっきり思えた」
和哉が湊の方を向いた。眼鏡の奥の瞳が、いつもよりしっかりと光っていた。
「母さんが望んでる進路とは違うけど。それでも、これが僕の選びたい道だと思う」
湊はその言葉を、しっかりと受け止めた。
「応援します」
短い言葉だったが、それで十分だった。
「ありがとう」
和哉が、ふわりと笑った。
「湊が一緒に来てくれたから、ちゃんと決められた気がする」
「俺は何もしてないですよ。先輩が自分で決めたことです」
「ううん。湊がそばにいてくれたから、ちゃんと向き合えたんだと思う」
和哉の声には、湊への素直な感謝が滲んでいた。
丘の上から見える緑の景色が、夕方に向かう光の中で、ゆっくりと色を変えていく。蝉の声に混じって、どこか涼やかな風鈴のような音が聞こえた気がした。
「さて」
和哉が、急に明るい声を出した。
「次は、夏祭りに行く準備をしようか」
「夏祭り?」
「うん。実は、この近くに祖父母の家があってね。そこで着物を借りられるんだ」
「き、着物ですか」
着たことがない。
「うん。湊にも着てほしいな」
和哉が、いたずらっぽく笑った。
「楽しみにしてます」
湊が答えると、和哉は満足げに頷いて、また歩き出した。




