54話 大事な物
明日は和哉先輩との二回目のお出かけだ。
『LB』で選んだ淡い緑のシャツとベルト。当日に持っていくと荷物になるし、何より渡すタイミングを逃しそうな気がする。だから、今日——茶道部の活動日に渡してしまおうと決めていた。
ところが。
「あ、和哉先輩、今日お休みなんだ」
茶道室に入った湊が、雪に聞いた。
「うん、用事があるみたいで。代わりに——」
「兄さんはいませんが、俺はいますよ」
その声に、湊は思わず振り返った。
「竜喜くん、また来てたんだ」
「夏休み、暇なので。涼香さんと尚弥さんが見学許可くれたので、また稽古見せてもらってます」
竜喜が畳の上で涼しい顔をしていた。中学生のくせに、この場の空気にすっかり馴染んでいる。
稽古は予定通り進んだ。雪が半東の練習を続け、尚弥が見学の竜喜と綾香に簡単な解説を加える。湊は亭主役として、ひたすら同じ動作を繰り返した。
稽古が終わった後、湊は鞄の中の包みをそっと確認した。
「……どうしよ」
今日渡せないとなると、また機会を待たないといけない。明日は本人と直接会うが、当日に渡すのは結局荷物になるし、何より「これからお出かけです」というタイミングで渡すのも変に緊張させてしまいそうだ。今日中に何とかしたかった。
「湊さん、なに悩んでるんですか」
いつの間にか後ろに竜喜が立っていた。
「いや、別に……」
「その鞄、いつもより膨らんでますよね」
するどい指摘だった。竜喜は人の変化に妙に敏感だ。
「……実は、先輩に渡したいものがあって。明日のお出かけの前に渡したかったんだけど」
「俺が渡しましょうか?」
「……いや、自分で渡したいかな」
「ふぅん」
竜喜が少し考えるような顔をした。
「家に来ます?」
「へ?」
「兄さん、用事があるって言ってましたけど、午後には終わってるはずです。たぶん家にいます」
「いや、そんな急に行くのは……」
「俺が呼んだことにすれば、大丈夫ですよ」
あっさりと言われて、湊は少し戸惑った。
「行きたいけど……でも、先輩に迷惑じゃないかな」
「いいじゃないですか! うちで遊びましょ」
「湊さんが来てくれたら兄さんも喜びますよ。俺が保証します」
その言い方に、湊は妙な安心感を覚えた。竜喜の保証だけで安心するのも変な話だが、この子のブラコンぶりを見ていると、兄に関する見立てだけは絶対に間違っていない気がする。
「久々に兄さんと話せるかも」
「それが目的か」
*****
綿貫家までは、駅から少し歩いた住宅街にあった。
大きくはないが、丁寧に手入れされた庭のある一軒家だ。表札には「綿貫」とだけ書かれている。湊はその表札を見て、急に緊張してきた。
「ここです」
竜喜が玄関の鍵を開けて、先に入っていく。
「お邪魔します……」
「やっぱり靴ある、兄さん〜! 降りてこーい」
竜喜が声を張ると、すぐに二階から物音がした。
「竜喜? どうしたの——」
階段を下りてきた和哉が、湊の姿を見て、足が一瞬止まった。
「……湊?!」
「え、えっと、お邪魔します」
「な、なんで」
「兄さんに用があるみたいだから俺が呼んだ」
竜喜が事もなげに言う。
「えぇ、竜喜……」
「ほら、早く着替えて案内してあげて。部屋着のままじゃ恥ずかしいでしょ」
和哉は自分の格好を見て、慌てて両手で前を隠すような仕草をした。ジャージにTシャツという、なんの問題もない格好なのだが、本人は急に気にし始めたらしい。
「ちょ、ちょっと待って! 着替えるから!」
ばたばたと二階に戻る音が聞こえた。
竜喜が湊の方を見て、肩をすくめた。
「あれです、兄さんの照れ方」
「……うん」
湊はなんとも言えない気持ちで、玄関に立ち続けていた。
*****
少しして、和哉が私服に着替えて下りてきた。
「お、お待たせ。あの、お母さんは出てて、今家にいないから……えっと、入って」
和哉の自室に案内されて、湊は座椅子に座った。広々と整然とした部屋だった。勉強机にベッド、本棚、床には丸机と座椅子がある。整理された部屋の中に、几帳面さがそのまま表れていた。
茶道室の落ち着きと、部屋の中の落ち着きが、どこか似ている気がした。
「竜喜、お茶出してくれる?」
「了解」
竜喜があっさりと台所に行った。やけに気を遣われている気がしたが、湊はそれを口にしないことにした。
「えっと、それで……」
「あ、はい。これ」
湊は鞄から包みを取り出して、和哉に渡した。
「これ、なに?」
「先輩が言ってた、服です」
「えっ」
和哉の手が一瞬止まった。
「……もう、買ったんだ」
「はい。五千円ちょうどです、レシート入ってます」
「……すごい真面目に守ってくれたんだね」
和哉が苦笑いしながら、包みを開けた。
淡い緑のシャツと、シンプルなベルトが出てきた。
「これ……」
「眼鏡の色に合うかなって思って。あと、先輩の持ってる服、思い出しながら選んだので、被ってないと思います」
「すごい。よく覚えてるね、僕の服」
「先輩のことなら、なんでも覚えてます」
言った瞬間、湊は自分の発言の重さに気づいて、思わず顔を背けた。
「……えっと、すいません、変なこと言いました」
「ううん、嬉しいよ」
和哉がシャツを軽く広げて、自分の体に当ててみた。
「うん、すごくいい。明日、これ着て行くね」
「喜んでもらえてよかったです」
二人の間に、少し気恥ずかしい空気が流れた。
「お茶どうぞ」
竜喜がお盆を持って戻ってきた。湯気の立つ緑茶が三つ並んでいる。
「ありがとう、竜喜」
「……その服」
「ああ、湊に貰ったんだ。早速明日の……明日着る」
「そ、湊さんのセンスが良くてよかったね」
「うん!」
和哉が服をぎゅっと抱きしめて、笑顔を見せた。
「……!」
竜喜が目を見開いて、その様子に驚いていた。
「そんなに褒めないでください」
「兄さんの雰囲気に合ってる……よく、見てるんだな」
少し寂しそうに、独り言のように呟く。その声の小さな変化に、湊も和哉も気づかなかった。
「これどこで買ったの?」
「『LB』っていう所です」
「あそこか〜。僕いつも近くの『シマシマ』で買うからなぁ」
「安いですもんね」
「さっ、俺は自室に戻ろうかな」
「あれ、一緒に遊ばないの?」
「少ししたら戻ってきます」
竜喜が湊に笑いかけてから立ち上がった。その動作の間に、和哉に小さく耳打ちする。
「母さんは十五時ごろには帰ってくる」
「! うん……わかったよ」
竜喜が部屋を出ていった。足音が階段の方へ遠ざかっていく。
「えっと、何して遊ぶ? といっても何もないけど」
「そうですねぇ、あ! 聞きたいことがあるんです」
「ん?」
「明日はどこに行くんですか?」
「お楽しみに……ってしたい所だけど、ちょっとネタバレしちゃおっかなぁ」
「はい!」
「明日はねぇ、短期大学のオープンキャンパスに行きます」
「短期、大学ですか?」
「そ、普通の大学は四年制なんだけど、短期大学は二年か三年で卒業するんだ」
「へぇ、でもなんで短期大学に? 就職を早くしたいんですか?」
「それもあるんだけど、少し気になる専攻があって」
「本当ですか!」
「うん、保育の仕事に興味があってね」
「先輩に合ってると思います! ……でもなんで保育ですか?」
「僕、小さい子好きだし。茶道みたいに手を動かしながら学べる。それに、保育士さんになってしたいことがあるんだ」
「したいこと?」
「……その子自身の本質を理解して、寄り添ってあげたいんだ」
あの時の僕みたいな思いをしなくていいように。
そう心の中で付け加えた言葉は、口には出さなかった。
「わあ! すっごくいいと思います!」
「! そう、かな」
「はい! あ、でも」
「?」
「先輩のドジっ子癖、直さないとですね」
「う」
「あはは」
窓から、夕方の光がゆっくりと差し込んでいた。
「あ、そうだ湊、聞きたいことといえば僕も……」
ガチャ。
「兄さん、そろそろ」
「あ……」
「あ! じゃあ、俺、そろそろ帰りますね。お渡しできて良かったです」
「う、うん、ありがとう。明日、楽しみにしてる」
「俺もです」
湊が立ち上がり玄関を出ると、竜喜も一緒についてきた。
「俺、駅まで送りますよ」
「え、いいよ、そんな」
「兄さんはもう少し買ってきたお茶菓子を片付けないといけないので」
竜喜がさらりと言って、和哉に目で合図をした。和哉が何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
湊と竜喜は綿貫家を出た。夕方の風が涼しく、住宅街の静かな道を二人で歩いた。
「竜喜くん、なんで俺だけ送るって」
「兄さんと二人にしてあげようかと思ったけど、今日はもう湊さんタイムオーバーだったし。だから代わりに俺が話を聞かせてもらおうと思って」
「話?」
「兄さんのこと、好きなんですよね」
唐突な問いに、湊は一瞬足を止めた。
「……うん」
隠す必要もないと思って、素直に答えた。
「『ちゃんと』好きなんだな?」
竜喜が少し圧をかけるように言った。
「うん、もちろん」
湊はそれに、しっかりと答えた。
「ちゃんと大切にしてください」
「それは……竜喜くんに言われなくても」
「言いたかったので、言いました」
竜喜が前を向いたまま言った。その横顔が、少しだけ大人びて見えた。
駅までの道を、二人は無言で歩いた。それでも、その静けさは不思議と心地よいものだった。




