53話「相応しいのは」
「服」とは、人間の身体にまとって保護したり、装飾したりする衣類の総称である。生命維持に欠かせない「衣食住」の一つであり、気候からの防御や社会生活における自己表現など、多角的な役割を持っている。
昨今、若者のファッションレベルは上がっており、小学生でさえもブランドの数万円の洋服を着ていることもある。そうすることでクラス内のカーストを上げ、確固たる地位を築く。
オシャレとは自身の自己表現でもあり、自分を守る盾でもあるのだ。
……というようなことを、湊はスマホの画面を見ながらノートに書き込んでいた。なぜか、調べているうちにファッションの社会学的な側面まで頭に入ってきてしまった。本当に必要なのはこんな知識ではないのだが、知らないことを調べるのは性分上やめられない。
「うーん……」
ネットで流行りの服を検索したり、ファッション雑誌を読み漁ったりして、頭から煙を出していた。畳の上に雑誌が何冊も散らばっている。湊の部屋がにわかにファッション編集部のようになっていた。
きっかけは、プールで先輩とした約束だった。
*****
「じゃあ、今度は僕に服、送ってよ」
「へ?」
湊が顔を上げた。
「その服着たら、勉強のやる気出すかも」
*****
あの時は、深く考えずに「最高級ブランド品を送ります」などと意気込んで返してしまったが、五千円という縛りがついた今、選択肢は思っているより少なかった。
やはり綺麗系のスマートなものがいいだろうか。細身でスタイルのいい先輩には、そういう服がよく似合うはずだ。
だが、逆にカジュアルな服もギャップがあって良いだろう。普段着慣れたものとは違う雰囲気を先輩が纏う姿を想像するだけで、なんだか頬が緩んでくる。
俺が、先輩の服選ぶ。
そう考えると、急にプレッシャーがのしかかってきた。和哉先輩はいつも自然に着こなしているように見えるが、それは先輩が良い人だからそう見えているだけかもしれない。実際に自分が選んだもので「あれ、なんか違う」と思われたらどうしよう。
「ぷしゅー」
頭から煙が出る音を、口で再現してみる。だが現実の悩みは消えない。
うーん、煮詰まってきた。
こうなると、実際に店で見た方がいいだろうと思い、湊はカバンを持って外に出た。
五千円という縛りがある以上、プチプラの店が良いだろう。手頃な価格で、それでもセンスのいいものを揃えている店をいくつか調べた結果、一つの候補に絞られた。
というわけでやってきた。
ファッションブランド『LB』。湊はその店の前に立った。
*****
私はここの、そう『LB』の若くして最速で地域管轄チーフに任命された、経営と美のカリスマ——菜月杏子とは、私のことだ。
私がこの支店に来たのは、ここの経営がかなり傾いてしまっているから。これは由々しき事態。そうそうに状況を把握して対策しなければならない。
そのため本日は私が現場に出て、スタッフたちに私の背中を見せるのだ。
(さぁ、よく見てなさい。できる女の背中ってやつを、ね!)
杏子は店内を一通り見回しながら、棚の陳列を細かく調整していた。お客が確認し置き直した服がそのままだ商品の並べ方一つで、客の目に留まる確率がまるで変わる。それを理解していないスタッフが多すぎる。
午前中は、目的のはっきりしない客二、三人をそれぞれに接客した。
雑誌で見たものを探しているだけの女子高生、なんとなく見にきただけの会社員。気分で寄っただけよお年寄り。女子高生にはお探しのもの、会社員にはクールシャツ、お年寄りにはお帽子を、それぞれの曖昧な要望から、何かしらの提案をして、何かしらの成約に繋げる。それが杏子の腕だった。
そして、午後。
店に一人、明らかに何かを真剣に探している様子の男子高校生が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
杏子が声をかけると、栗毛の坊やは少し緊張した様子で頭を下げた。
「あの、五千円くらいで、年上の男の人に贈る服を探してるんですけど」
杏子の目が、わずかに光った。これは久々に面白い接客になりそうだ。
「年上の方への贈り物ですか。素敵ですね。どんな雰囲気の方ですか?」
「えっと、背が高くてスラっとしてて、色白で、眼鏡をかけてます。普段は穏やかな感じなんですけど、たまにキリっとした雰囲気にもなって」
坊やが説明しながら、自分でも何かを思い出すような顔をした。耳が少し赤い。
(あら)
杏子は内心でほくそ笑んだ。これは恋人、もしくはそれに近い相手だろう。話を聞くだけで、その人物への気持ちが透けて見える。
「では、まずはこちらのシャツはいかがですか。シンプルで、すっきりした印象になります」
「これは……どうでしょう、ちょっとシンプルすぎる気がします。先輩、もう少し個性的でもいいと思うんですよね」
「個性的というと、こちらのストライプは?」
「うーん、ストライプは……なんか違う気がします」
その後も、杏子はいくつかの組み合わせを次々に提案した。シャツ、カーディガン、パンツ、小物。だが、どれも湊の中の「これだ」という答えにはならなかった。
「こちらの淡いブルーは、襟元のラインが綺麗で——」
「先輩、白とか水色のシャツ持ってるんで、それは避けたいです」
「でしたら、ベージュ系のニットなどは」
「ベージュも、確か持ってる気がします」
杏子は次第に、相手の好みに対する坊やの記憶力の良さに驚き始めた。これはただの初心者の贈り物選びではない。よほど相手のことを見ているのだろう。
「……失礼ですが、お付き合いの長い方ですか?」
「いや、まだそんなに長くは……でも、結構考えるんです、いろいろ」
湊が照れたように答える。杏子はその様子に少しだけ目を細めた。
夕方近くになっても、決定打が出なかった。店内をぐるぐる回りながら、湊は何度もため息をついた。
「すみません、こんなに付き合わせちゃって」
「いえいえ、楽しいですよ。それだけ真剣に選んでいただけるのは、お店としても嬉しいことです」
杏子は本心からそう言っていた。久々に、商品を「誰かのために」選ぶという接客の原点を思い出させてもらった気がする。
結局、湊は淡い緑のシャツと、シンプルなベルトのセットを選んだ。「先輩の眼鏡の色に合う気がする」という理由だった。
「お会計、五千円ちょうどになります」
「ぴったりですね」
「予算通りに収まって良かったです」
湊が満足げに会計を済ませると、深く頭を下げて店を出ていった。
その背中を見送りながら、杏子は売り場の隅で少し息をついた。
今日一日、何件かの接客をして、それなりの売上を立てることはできた。でも、本当に印象に残ったのは、あの高校生だった。
(私もまだまだね)
杏子は手元のタブレットを開いて、今日の売上データを確認した。経営戦略、商品の陳列、スタッフへの接客指導。いろいろと考えなければならないことが、まだたくさんある。
でも、何より大事なのは——あの一着を選ぶ時の真剣さみたいなものを、店に来るすべての客から引き出すことなのかもしれない。
杏子は手帳を開いて、新しいページに何かを書き込み始めた。
『接客方針の見直し:単なる商品説明ではなく、「誰のために」を引き出す接客へ』
夕方の光が、店内の窓から差し込んでいた。




