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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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51話「プール Ⅷ」


 カフェの個室には、まだ涼香が触れずに置いていったトロピカルジュースのコップが、ぽつんと一つ残っている。氷がゆっくりと溶けて、グラスの表面に水滴が滲んでいた。


「俺、あいつらの特徴と移動ルート覚えてます」


 竜喜が静かに言った。スマホの画面を見せると、男たちの服の色や髪型、施設内のどのあたりを移動していたかが、簡単なメモとして打ち込まれている。


「えっ、いつの間に」


「さっき係員に通報した時に、見ておいたんで」


「すごいね、それ」


 湊が感心したように言うと、竜喜がコソッと答えた。


「兄さんに迷惑かける奴は許さないんで」


 その表情には、迷いがなかった。普段は兄の前で緊張したり、わざと喧嘩腰になったりする竜喜にしては珍しく、今は妙に落ち着いている。


「……竜喜って、こういう時頭の回転速いよね」


「普段は使わないようにしてるだけ」


「使わないようにって、なんで」


「使うと色々めんどくさいことになるから」


 湊と尚弥は、その兄弟のやり取りを呆然と眺めていた。


「あの、ちょっといいですか」


 尚弥が手を上げた。


「やる気は買うけど、具体的に何するつもりだ? 俺たちが知ってるのは『あいつらが涼香さんに絡んだ』ってことだけだろ。それを盾に出ると、七瀬先輩の名前が出ちまう」


「それは、まさにその通りです」


 竜喜が頷いた。


「だから、別の角度から行きます」


「別の角度?」


 湊が聞き返す。


「あの人たち、七瀬さんに絡む前に、雪さんたちにも絡んでましたよね」


「……ああ、そうだった」


「……事務所から出た後も別の人に絡んでたね」


 よくやるよ、と和哉が漏らす。


「つまり、あの人たちは今日、もう何回も同じことを繰り返してるんです。雪さんたちの件も、七瀬さんの件は出せない。でも、まだ他にも被害者がいる可能性が高いです」


 竜喜の声が、淡々と続いた。


「証拠を、集めるってことか」


 尚弥がゆっくりと言う。


「そうです。七瀬さんの名前は一切出さない。別の被害者の証言と証拠だけで、施設から正式に出禁にしてもらいます」


 和哉が、静かに頷いた。


「それなら、誰の名前も出さずに済む」


「でも、やり方によっては危ないだろ。あいつら、力もあったし、向こうも気が立ってる」


 尚弥が心配そうに言う。


「だから、四人で動きます」


 竜喜がきっぱりと答えた。


「俺が証拠を集める係。湊さんが他の被害者に声をかける係。顔を覚えられてるかもなので尚弥さんが何かあった時の抑え役。兄さんは——」


「僕は?」


「兄さんは、絶対に一人で前に出ないで」


「え、なんで」


「兄さんが一番危ないんで」


 竜喜が真顔で言うと、和哉が少しムッとした顔をした。


「僕、結構しっかりしてるよ?」


「今日、何回プールで無様に転んでた?」


「……」


 和哉は黙った。否定できる材料が何もなかった。


 湊がそっと笑いをこらえながら、二人の様子を見ていた。普段は穏やかな先輩が、今は明らかに「やる気」を出している。


 涼香のためにという理由で。


 その姿が、なんだか少し誇らしくて、同時にちょっと心配でもあった。


 その心配がどういう心配なのかは考えないようにして。


「……わかりました。やりましょう」


 湊が言うと、尚弥も「俺もやる」と頷いた。


 四人は顔を見合わせて、それぞれの覚悟を決めた。


*****


 四人は、男たちが最後に移動していった方角——波のプールの方へ向かった。


 竜喜が先頭を歩き、スマホの画面と周囲を交互に確認している。その横顔は真剣そのもので、さっきまで兄に纏わりついて死んだ魚の目をしていた中学生とは思えないほど、しっかりとした空気を纏っていた。


「あそこです」


 竜喜が小さく指差した。波のプールの端、休憩用のベンチの近くに、男たちの姿があった。すでに別の女性グループに声をかけているのが見える。


「あっさり、見つかったね」


「もう次の標的見つけてるのか」


 尚弥が小声で言う。呆れたような声色だった。


「うわ、本当にもう絡んでるね」


 和哉が眉をひそめながら、少し距離を取って様子を窺った。


「兄さん、前出ないでって言ったよね」


「出てないよ、見てるだけ」


「見てるだけでもバレたら困る。下がって」


 竜喜が和哉の腕を引いて、近くの柵の陰に移動させた。湊が思わず吹き出しそうになる。自分が守る余地がなかった。


*****


 竜喜が、声をかけられている女性グループの様子をスマホで撮影していく。直接顔を写すのではなく、男たちの行動が記録される角度を選んでいるあたり、考えがしっかりしている。


「アイツ、本当に何者なんだ」


 尚弥が小声で湊に聞いた。


「ただの度の超えたブラコンだと思います」


 湊が真顔で言った。竜喜と和哉に聞こえないところで。


 女性グループの様子を観察していると、男たちが少し強引な口調になっているのがわかった。一人がしきりに連絡先を聞こうとして、女性たちが困った顔をしている。


「あれ、声かけていいタイミングか?」


 尚弥が顎で指す。


「待ってください。もうちょっと様子見ます」


 竜喜が冷静に答える。


 しばらくして、男たちは女性グループから「すみません、もう行きます」と断られ、諦めて離れていった。竜喜のスマホには、その一連のやり取りの様子が記録されている。


「よし、行きましょう」


 竜喜が女性グループの方へ進んだ。湊もその後ろをついていく。


「すみません、突然なんですが」


 湊が声をかけると、女性たちが少し驚いた顔をした。


「いま、あの人たちに絡まれてましたよね」


「あ、はい……ちょっと困ってて」


「実は俺たちも同じ人たちに困らされていまして。もし良ければ、施設に報告したいので協力していただけませんか」


 女性たちは少し顔を見合わせてから、頷いてくれた。


「正直、しつこくて怖かったんです。協力します」


 湊が一礼して、連絡先と簡単な証言をメモした。竜喜はその間、少し離れた場所からさりげなく撮影を続けていた。


*****


 次の標的になった別のグループでも、同じパターンが繰り返された。


 男たちは無差別に、目についた女性に声をかけ続けていた。その様子を、竜喜が冷静に追って記録していく。湊が声をかけて事情を聞き、協力を依頼する。


「お前ら、息ぴったりだな。警察とか向いてるんじゃね」


「どっちかというと探偵じゃないかな。よく知らない人に声かけれるよね、湊」


 尚弥と和哉が感心したように言った。


「ていうか、竜喜くんがすごいんですよ。俺はただ言われた通り動いてるだけです」


「俺は撮影してるだけです。湊さんが話を聞いてくれるから成立してるんです」


 二人とも謙遜するが、実際にはチームとしてかなりうまく機能していた。


 和哉はその間、ずっと柵の陰や木の影に隠れながら見守っていた。何度か身を乗り出そうとして、その都度竜喜やほかの誰かに止められている。


「先輩、本当に大人しくしてくださいね」


「うん、わかってる、わかってるよ」


 言葉では従っているが、目だけは終始男たちの方を見ていた。さっきまでの穏やかな表情とは違う、少し据わった目だった。


「先輩、その目」


「ん?」


「ちょっと怖いです」


「え、そう?」


 和哉が自分の顔に触れる。本人は気づいていないらしい。


「でも、そうしてるとすごく似てますね。竜喜くんと」


 湊が小さく笑いながら言うと、和哉と竜喜が同時に「似てない」と返した。声まで揃っていた。


「というか、湊さんには俺の顔怒ってるように見えるの?」


「ち、違うよ? 凛としてかっこいいってこと」


「ふーん」


「……」


*****


 一時間ほどかけて、四件の証言と、男たちの行動を記録した複数の写真が集まった。


 いずれも、強引な声かけ、断られても食い下がる態度、女性たちが困惑している様子がはっきりと写っている。竜喜のスマホには、それらが整理された状態で保存されていた。


「これだけあれば、十分だと思います」


「そうだね、じゃあこれを……っ!」


「うお!」


 湊が突然、竜喜を突き飛ばした。


「あ、おしぃ!」


 さっきの男だ。いつの間にか後ろに回り込んで、竜喜から証拠を取ろうとしていた。


「ダメじゃないかぁ、坊や達、人のこと盗撮したら」


「ぐっ」


 男が湊の頭に腕を乗せて、軽く締め上げるように力を込めた。


「お前たちが迷惑行為してるのが悪いんだろ!」


「はぁ、君達も男ならわかるだろ? 男だけでプールなんてつまらない、彩りが欲しいんだよ」


 湊は男の言い分にぞっとしながらも、構わず声を張った。


「竜喜くん、逃げて」


「でも」


「早く! それを事務所に持ってけば勝ちなんだから!」


「は、はい!」


「逃すか!」


 竜喜が走り出し、男二人がその後を追いかけた。一人は湊の頭に腕を乗せたまま、その場に残っている。


* * *


 走る竜喜。男に追いつかれそうになる。


「こっちです!」


 尚弥が警備員を連れてきた。男たちの足が一瞬止まる。竜喜はその隙にプールサイドを駆け抜けて、警備員の後ろへ滑り込んだ。


* * *


 湊を捕まえている男は、仲間たちが見つかったのを見て逃げようとする。湊はその腕からどうにか身をよじって抜け出し、すぐにその男を追いかけた。


「待て!」


「っ! ガキのくせに早ぇ……こうなったら」


「キャッ!」


 男が他の客の浮き輪やら備え付けの机などを次々に投げつけて、妨害してくる。


「うお!」


「ひひ、いい気味だ。大人を舐めるから……」


 そう言って男はより早く走り出した。


 すると、男の足に何かが引っかかった。


「うおおあ!」


 なんだと思って足元を見ると——。


「ビート板?! なんで?!」


 どこからか飛んできたビート板が、男の足元に転がっていた。


「どっせい!」


 和哉がその隙を突き、近くにあった椅子の足で男の胴体を挟み込んだ。


「はぁ!? なんだよお前」


「先輩ナイス! よっと!」


 湊がその椅子に座って、男を動かせないように体重をかける。


「ぐぐぐ」


「何事ですかー」


 騒ぎを聞きつけて、警備員が駆けてきた。


*****


「お疲れさん、お前ら」


 尚弥が湊の肩を叩く。


「あとは事務所に持っていくだけですね」


 湊が言うと、和哉が静かに頷いた。


「うん。これで、七瀬さんの名前を出さずに済む」


 その声には、安堵が滲んでいた。


 四人は証拠を手に、施設の事務所へと向かった。プールの喧騒が遠くに聞こえる中、和哉の歩く速度がいつもより少し速かった。


*****


 施設の事務所は、プールの賑わいから少し離れた静かな場所にあった。受付の奥に小さな窓口があり、職員が一人、書類を整理している。


「すみません、経緯お話ししていただけますか」


「実は、さっきから何度も色々なお客様に強引な声かけをしている男性グループがいまして。何人かから証言と、状況を記録した写真を集めました」


 湊が竜喜のスマホを示しながら説明すると、職員の表情が少し引き締まった。


「写真と証言を、お預かりしてもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


 竜喜が画面を見せながら、淡々と説明を加えていく。撮影した時間、場所、それぞれの状況。整理された情報は、聞いている職員も思わず感心するほど整然としていた。


「中学生の方ですよね……失礼ですが、よくまとめられていますね」


「学校でレポートをよく書くので」


 竜喜が真顔で答えた。職員が少し戸惑った顔をしたが、それ以上は突っ込まなかった。


「本日、似たような苦情が何件も入っておりまして。状況が一致しています」


 職員がそう言うと、和哉が小さく息を吐いた。


「すでに警備の方で確認は取れています。皆さんからいただいた証言と写真も合わせて、正式に出入り禁止の対応を取らせていただきます」


「ありがとうございます」


 湊が頭を下げた。竜喜もそれに続いて頭を下げる。和哉と尚弥も、安堵した様子で頷いた。


「ご協力、感謝いたします。お名前を伺ってもよろしいですか」


 職員がペンを構えた。


 ここで、和哉が一瞬だけ言葉を選んだ。


「すみません、匿名ではだめですか? こういう事態になってしまったので、あまり……」


「かしこまりました。匿名ということで」


 涼香の名前は、誰の口からも出なかった。最初の苦情として処理された別件——それが涼香の件であることに、職員も誰も気づいていない。


「ご丁寧にありがとうございます。本日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」


「いえ、こちらこそお手数おかけしてすみません」


 和哉が静かに頭を下げる。


 手続きが一通り終わり、四人は事務所を出た。


*****


 外に出ると、午後の日差しが少し傾き始めていた。


「……これで大丈夫だと思う」


 和哉が、ようやく表情を緩めた。さっきまでの少し据わった目が、いつもの柔らかい顔に戻っていく。


「先輩が一番怖かったですよ、さっき」


 湊がそう言って、少し笑った。


「え、僕?」


「あの男たちより、先輩の目が一番怖かったです。普段あんな顔しないから」


「そんなこと言われたら傷つくんだけど」


 和哉が困った顔をすると、湊が小さく笑った。


「先輩でしょ、あのビート板」


「あれは……心配だったから、つい」


 和哉がさらりと言うと、湊は少し顔が熱くなった。


「俺もすっかり巻き込まれたな」


 尚弥がぼやきながら腕を回した。


「でも、こういうのも悪くなかったよ。一致団結って感じで」


「村内先輩、ノリ気でしたよね」


「正義の味方ってちょっとロマンあるじゃん」


 尚弥がにかっと笑った。


 竜喜はスマホをしまいながら、四人の中で一番冷静な顔をしていた。


「次は、女子たちと合流ですね」


「そうだね」


 和哉が頷く。四人は、女子会をしているはずの場所へと歩き出した。


*****


 夕方近く、近くのカフェにいた女子四人と再合流した、雪と涼香が紅茶を飲みながら話し、渚と綾香は疲れて寝ていた。


 2人とも詳しい事情を聞かなかった。


 涼香が、ふと和哉と竜喜の方を見て、何かに気づいたような顔をした。


「……何かありましたか」


「いえ、特には」


 和哉が涼しい顔で答える。


「兄さん、嘘つくの下手」


 竜喜が小声で突っ込んだが、和哉はそれを無視した。


 涼香はしばらく二人を見つめてから、ふっと小さく息をついた。何か察しているような、でも深くは追及しないという顔だった。


「……ありがとうございました」


 その一言だけを、静かに告げた。


「何のことですか?」


 和哉がとぼけて返す。


「さぁ、何のことでしょう」


 涼香も同じようにとぼけて答えた。でも、その口元には、いつもより少しだけ柔らかい笑みが浮かんでいた。


 隣で尚弥が、何も知らないままにこにこしている。湊と竜喜は顔を見合わせて、それぞれに小さく頷いた。


「久我くん、ほっぺ怪我してるよ」


 雪がそう言って、絆創膏を貼った。


「あ、ありがとう」


 頬に小さな擦り傷があったことに、湊自身も今気づいた。


「……危ないことしたらだめだよ?」


 雪の声は、いつもより少し低くて、心配の色がちゃんと滲んでいた。湊は素直に「うん、ごめん」と返した。

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