50話 プール Ⅶ
それから、湊と和哉はウォータースライダーを乗り終えた六人と合流し、遊び尽くした。
「久我、なんで綿貫先輩のラッシュガード着てるの?」
綾香が真っ先に突っ込んできた。
「湊が着てみたいって」
「先輩?」
「だよね?」
和哉が涼しい顔でこちらを見ている。湊は一瞬だけ口を開けたが、結局それ以上は言わなかった。
「あ、はい。そうです」
ちなみに気になる竜喜の反応だが。
「!!!……!……!……!!」
音にならない悲鳴をあげ、小刻みに痙攣している。気持ちはわかる。隣にいた渚がいち早く気づいて、容赦なくプールに蹴落とした。バシャン、と水音が響く。
「助かった、戻って来れた」
竜喜が水面から顔を出しながら言った。
「感謝してよね」
結果、正気に戻った竜喜は渚に感謝していた。それでいいのだろうかと湊は思った。他にマシな戻し方はなかったのだろうか。
*****
次にどこへ行くか、八人で相談が始まった。波のプール、超ロングウォータースライダー、水上アスレチック。まだまだ色々ある。
渚が水上アスレチックに興味を示すと、涼香の提案で二人組になって競走することになった。
湊と和哉、渚と竜喜、雪と綾香、涼香と尚弥のペアに分かれて、それぞれスタート位置についた。
涼香と尚弥のペアは早々にゴールして、観戦席に回った。身体能力の高い二人には簡単だったようだ。
渚と竜喜のペアは、一番順調に進んでいた。プールに落ちたのも二、三回程度だ。
雪と綾香のペアは、綾香が雪の手を握ってエスコートしながらゆっくり進んでいる。何気に一度もプールに落ちていない。安定感が抜群だ。
そして、和哉と湊のペアだが——。
「あ……」
「先輩!」
足を滑らせて、和哉が後ろ向きに落ちた。
「ぶへ!」
「先輩!!」
プールの坂道で思いっきり顔をぶつけて、そのまま坂を転げ落ちていく和哉。湊が慌てて手を伸ばすが、間に合わない。
「ふぅ、ちょ、ちょっと休憩」
壁にもたれかけて息をつく和哉。
カチ。
「へ」
和哉が壁に手をついた瞬間、上から仕掛け水が降ってきた。
「せんぱーい!!」
* * *
観戦席から、その様子を眺める尚弥と涼香。
「トラップというトラップに引っかかってますね、綿貫・兄先輩」
「あのドジっ子体質は早々に直してもらわないと、早死にしそうですね……あ、今度はローションゾーンで滑りまくってます。そこは浮き輪で滑るんですよ」
「助けようとした湊も滑って……あーあぁ」
二人で並んで見ていると、笑いが収まらない。
「もーちょい、かかりそうですね。飲み物買ってきます。何がいいですか?」
「私も行きますよ?」
「誰かが待っておかないとでしょ。大丈夫ですよ、俺は誰かさんみたいに迷子になったり、消えたりしないんで」
「……じゃあ、トロピカルジュースを」
「好きですね、それ。じゃ、行ってきます!」
「はい、気をつけて」
尚弥がプールサイドを駆けていく後ろ姿を、涼香はしばらく見送った。
ああ、どうしましょう。すごく楽しいです。
涼香は今まで、友人とこんなふうに遊んだことはなかった。『七瀬家の末娘』として、『日本を担う大グループの一員』として。
幼い頃から期待されて羨望され、周りの人からは孤高の存在として扱われていた。同じ位置で対等に話すことが、ずっと少なかった。
私には七瀬家の継承権などないというのに。
『いいか、涼香。ここに居たいのなら優秀な子になりなさい』
父から口酸っぱく言われた言いつけが、頭の片隅にいつもある。
私は、優秀な子になった。勉強もお稽古もマナーも、周りの言う「優秀」に合わせ続けた。
でも、それだけ。それだけしか私にはできない。そう考えると、なんだか私という存在が、乾いていく気がする。
「あ! さっきのおねーさんじゃん!」
「っ!」
ぼんやりとプールサイドの子供たちを眺めながら、くだらない感慨に耽っていたところに、声が聞こえた。
ジュースを買いに行ったあの人の声ではない。下品で下劣な、今後一切聞きたくなかった声だった。
「貴方達はさっきの、どうしました? 係員さんのところに行きたいので? 案内くらいならして差し上げますよ?」
さっき、雪たちに絡んだ男たちだった。ご丁寧に仲良く全員揃っている。
「い〜や、違う違う! 俺たち君とお話ししたいんだよ、七瀬涼香ちゃん」
なぜ、名前を。
なんて質問はしない。調べられたのだ、この短時間で。私が『七瀬家』の者だと。
グループのサイトに顔写真が載っている。それに私の顔写真は——。
「いや、僕ね? 君の顔間近で見てどっかで見たなって思ったんだ。ずーっと悩んでたんだけど、一年ちょっと前にちょうど、ネットで騒ぎになってたよね」
「っ!」
やめて。
「私立女子中学校での暴力事件、犯人は——」
やめて!
涼香は腕に力を込めた。その口が言葉を紡ぐのを止めたくて。構えを取ろうとした、その瞬間。
「先輩!」
「あ? なんだ?」
「っ! おら! やるよ!」
尚弥が両手に持っていたトロピカルジュースとサイダーの缶を、男たちに向かって投げつけた。中身が弧を描いて飛び、男たちの体にぶつかって弾ける。
「うっわ! いって」
「うへぇ、ベタベタする」
「こんの! ガキ!」
「こっちっス! こういう時は逃げるんですよ!」
「キャッ!」
尚弥が涼香を片腕で抱えて、柵を飛び越えた。近場の浮き輪をクッションにして、二人でプールに飛び込む。水しぶきが大きく上がった。
「逃すか!」
男の一人が柵に手をかけようとしたところに——。
「係員さーん! あの人達さっきから色んな女の人に絡んでまーす!」
「こっち! こっちです! 早く!!」
「そこの人! 止まりなさい!」
アスレチックをクリアした渚と竜喜が走って係員を呼んでくれた。複数の係員が駆けつけて、男たちはあっという間に取り囲まれた。
水の中で涼香は、まだ少し息を切らしながら、尚弥の腕の中にいた。
「七瀬さん、大丈夫ですか」
「……はい。大丈夫です」
声が震えていないか心配だったが、案外、ちゃんと出ていた。
「あの、ありがとうございます。咄嗟に」
「いいんですよ。あんなクズどもの言うこと、聞く必要ないですから」
尚弥がさらりと言った。事件の中身を聞いたわけでもないのに、即座に守ろうとしてくれたその速さが、腕を引っ張る力強さが、涼香の胸の奥に静かに残った。
濡れた水面の向こうで、係員に連れて行かれる男たちの姿が小さくなっていく。
涼香はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
*****
時刻は十五時過ぎ。まだまだ遊ぼうと思えば遊べる時間だったが——。
「あの男の人達、厳重注意で開放されたみたい……また他の人に声かけてた」
「つい少しテンションが上がって色んな人に声かけてしまった、らしいですよ」
個室のあるカフェに待機していた涼香たちの元に、事務所の方へ聞き耳を立てに行っていた二人が戻ってきた。不安そうな和哉と、不愉快そうな湊だ。
「調子のいいことを」
「あの、私が行って、腕を掴まれたって言ったら……」
「いや、それは危ない。逆ギレされるかもだし、芋づる式に七瀬先輩に行き着く」
「それに、あの人達たぶん慣れてるよ。言い訳が周到だった。水野さんが証言してくれても、嫌な気持ちにされるだけだと思う」
「そう、ですよね」
自ら名乗り出ようとした雪を尚弥が制止し、和哉がそれを補強した。
「七瀬さんの事を話せないのが、痛いですね」
竜喜が悔しそうに呟いた。
そう、湊たちがこうして手をこまねいているのは、涼香の名前を出せないからだった。ここは『七瀬家』の施設だ。そこで七瀬涼香が男に絡まれたとなると、問題が大きくなりすぎる。
それは涼香の望むところではない。
「私、帰ります。皆さんはどうかこのまま遊んでください」
「七瀬先輩……」
「先輩! 女子会しましょう!」
綾香が叫んだ。
「このまま帰るなんて悔しいです! 別の楽しい思い出を作りましょう! ね! 雪! 渚ちゃん!」
「う、うん!」
「しましょう! 女子会!」
「……ありがとう」
涼香は短く答えた。声の端が、いつもより少し柔らかかった。
「さ! 行きましょう!……あ、男子ばいばーい!」
手を振って去っていく女子たち。あっという間に、四人の背中が遠ざかっていった。
「………」
急なアウェイになる男ども。
「えっと、どうします?」
「このまま遊ぶのもあれだし、俺たちも別のところに行くか」
「……」
「……」
次どこに行くか計画を立てようとする尚弥と湊に対して、何やら考え込んでいる綿貫兄弟がいた。
「どうしました? 二人とも考え込んで」
「いえ、このまま逃げるのも癪だなと思いまして」
「村内くんは兎も角、僕らは七瀬さんの関係者ってバレてないよね」
「付け加えると、俺は警備員を呼んだやつとして覚えられてるかもしれない……けどな」
「二人とも、まさか」
「せっかく楽しい時間を邪魔されて」
「七瀬さんを苦しませたんだから」
「「お返しして やる/あげないと」」
不敵に笑う綿貫兄弟。タイプの違う兄弟だと思っていたが、根っこのところはそっくりだ。




