49話 プール Ⅵ
「えっと、お待たせしました」
トイレから出てきた湊は、少し離れた木陰で待ってもらっていた和哉の元へ戻った。
木陰で夏の日差しを浴びながらぼんやりと佇んでいる先輩は、とても美しい。光と影の境目にちょうど立っているせいか、輪郭がやわらかく見える。その先輩に「トイレが済みました」と報告するのは、なんとなく忍びないのだが。
「おかえり、人多いけど大丈夫だった? ちゃんと手洗った?」
「子供扱いしないでください! ……じゃあ戻りますか」
「………ちょっと大人扱いしてみようかな」
そっと和哉が呟いたが、湊には聞こえていなかった。
「え?」
「ちょっと休憩して行こうか」
「先輩、休憩ならさっき」
「待ってたら疲れちゃった。さっき待ってる間に少し歩いてたら、いい所見つけたんだ」
疲れたのはそのせいでは、と湊は思ったが言わなかった。
「ほーら、こっち」
ぱしっ。和哉が湊の手首を掴んで、軽く弾みをつけて走り出した。湊は一瞬体勢を崩しかけて、慌てて足を踏み出す。濡れたコンクリートの上を、水音を立てながら二人で駆けていく。前を行く和哉の濡れた髪が風で少し跳ねていた。
体育祭といい、この人はこういう所がずるい。
でも、ここまで気を許してくれているということは——きっと、かなり気分がいいのだろう。さっきの水着の件は気にしてなんか、いないのかもしれない。
*****
「で? さっきの水野さんたちの水着を選んだって話、もう少し聞かせてもらえる?」
全然気にしてらした。
和哉が足を止めて振り返った時には、もう逃げ場がなかった。
ここはマップの隅の方にある波のプール、その中央にある島の、ジャングルゾーンの片隅だった。基本的に利用者はジャングルゾーンの中央を通っていくので、こんな脇道には誰も気づかない。ちなみに一応、ここは禁止区域ではない。本当にこの人は、ルールの穴を突くのが上手い。
「湊? 聞いてる?」
和哉が腕を組んで、湊の顔を覗き込んできた。
「はい、聞いてます。ちゃんと説明いたします」
* * * *
湊はあの日の説明を行った。両手を動かしながら、順番を整理するように話す。
妹の渚の買い物に付き合わされたこと、雪と綾香と偶然出会ったこと、悪ふざけが始まったこと。そこに湊自身の嗜好は入っていないこと。
「随分と偶然が重なったね? 漫画みたい」
「現実は小説より奇なり、ですよ」
「じゃあ、湊は誰のも選んでないってことだね?」
和哉が一歩近づいた。湊は気づかれないよう、半歩だけ後ろに下がった。
「はい、その通りです! まどろっこしいことして申し訳ないです」
「じゃあ、竜喜は……ああ、いまはいいや。申し訳ないって思ってるの? 湊は巻き込まれただけなのに?」
「はい、先輩を不安にさせちゃったのは事実ですし」
湊は肩を落として、目を逸らした。
「ふーん、そっか」
しゅんとした子犬のように見える湊に、和哉の中で少しいたずら心が芽生えた。
「じゃあ、今度は僕に服、送ってよ」
「へ?」
湊が顔を上げた。
「その服着たら、勉強のやる気出すかも」
「そんなことでいいんですか?」
むしろいいのか? 先輩に俺の選んだ服を着てもらう。俺色に染められる、ということ……むしろご褒美なのだが。
「うん、安いのでいいから」
「最高級ブランド品を送ります」
「安いのでいいよ? 最高予算五千円までね?」
「五千円しか……どうしましょう、悩ましいですね」
湊が眉間に皺を寄せて考え込む。
「悩むのはプールが終わってからね。みんな待ってるだろうから向かおう。……ああ、その前に」
和哉がおもむろにラッシュガードのファスナーに手をかけた。シャッ、という小さな音を立てて開いていく。腕を抜き、肩から滑らせるようにして脱ぐと、白い肌が露わになった。
「せ、せ、せせせせ先輩?!?!?!」
湊は思わず両手で顔を覆い、勢いよく後ろを向いた。
「湊、きて」
「へ?! ダメです先輩! こんな所で!」
「大丈夫だから、早く、きて」
和哉が脱いだラッシュガードを両手に広げて、湊に向けて一歩詰めてくる。
「ダメですって!」
湊が一歩下がる。
「もう、だから大丈夫だって……仕方ない」
和哉が湊の背後にすっと回り込んだ。
「着せてあげる」
「ダメです、こんな所で着せて……着せて?」
ペチャ。何かが湊の背中に触れた。広げられたラッシュガードが、肩にすっぽりとかぶせられている。
「つめた!」
湊が肩をすくめて声を上げた。
「ああ、ごめんごめん。ほら、湊ばんざーいして?」
「あ、はい」
言われるままに両手を上げてしまう自分が、なんだか急に恥ずかしくなった。腕がすっと袖に通されて、和哉の手が湊の肩のあたりでファスナーを引き上げていく。シャッ、と音がして、背中に薄い布の重みが乗った。
「はい、着れた。いい子です」
「……ってなんで俺が先輩のラッシュガード着るんすか!」
「いいから、いいから、ほら行くよ」
和哉が湊の手を取って歩き出した。
「待ってください、先輩」
「ん?」
湊が立ち止まって、袖をぱたぱたと振った。
「その、サイズ、まったく合わないんですけど」
袖が長すぎて指先がすっぽり隠れている。裾も腰のあたりまで余っていて、まるで誰かの服を借りた小さい子供のようだった。湊が腕を持ち上げると、袖の先がぶらんと垂れ下がる。
「ぶふ!!」
「先輩」
和哉が一瞬で噴き出した。両手で口を押さえながら、肩を震わせて笑っている。体をくの字に折って、しばらく笑いが収まらないようだった。
「あー、ごめんごめん。でも、その、すっごく似合うよ」
「絶対サイズ感おかしいですよね」
湊が袖をめくり上げて、手首を出した。
「うん、おかしいね。でも可愛い」
「先輩……」
湊は袖を持ち上げながら和哉を見た。和哉はまだ少し笑いながら、湊の手元を見ている。
「これ、脱いでいいですか」
「だめ。せっかく着せたのに」
「自分のラッシュガードどうするんですか」
「僕は大丈夫、ちょっと焼けるくらいで死なないし。あ、湊、ちゃんと前閉めてね、意味ないから」
湊が下を見ると、確かに前のファスナーが半分開いたままだった。慌てて両手でファスナーを掴み、上まで引き上げる。
「焼けたら困るでしょ、肌弱いって言ってたじゃないですか」
「湊が心配してくれてるならいいかなぁ」
「そ、そういう問題じゃないです」
湊は袖をたくし上げながら、結局そのまま着続けることにした。木陰の中で、和哉の笑い声がまだ少し聞こえている。
「行きましょう、みんな待ってますし」
「うん」
手を取られて、二人はジャングルゾーンを後にした。袖の余った大きなラッシュガードを揺らしながら、湊は少し急ぎ足で和哉の隣を歩いた。歩くたびに裾がふわふわと膨らんで、まるで一回り大きい誰かの服を着た子供のように見える。和哉はその様子を時々横目で見ながら、終始機嫌が良さそうだった。




