47話 プール Ⅳ
【女子班】
流れるプールは緩やかに体を運んでくれる。特に何もしなくても前に進むのが気持ちよくて、渚が「これ楽すぎる」と言いながら仰向けになって漂っていた。水面に耳を浸すと、外の音が遠くなる。蝉の声も、プールの喧騒も、全部が水越しに届く感じがした。
「転ばないようにしてね」
「転ばないよ、流れてるんだから泳がないし」
「でも……」
「雪って心配性だよね」
綾香がにこにこしながら言うと、雪が「心配性じゃなくて普通の範囲だと思いますぅ」とむくれて答えた。その表情が珍しくむくれているのがまた面白くて、渚が「かわいい」と笑った。三人の声と笑い声が、水面に溶けていく。
プールサイドから、その様子を眺めていた涼香は少しだけ口元を緩めた。微笑ましかった。少女三人が夏休みの光の中で、それぞれの表情で笑っている。茶道室での凛とした顔とも、見学会の緊張した顔とも違う。これが彼女たちの、素の顔なのだ。
雪はよくああして笑うのだろうか、と涼香は思った。茶道室では緊張していることが多かった彼女が、今日は声を上げて笑っている。
しかし。
「俺たちとも遊ばない?」
涼香の目が細くなった。
男たちは三、四人いた。年は大学生か、あるいは同年代か。日焼けして、体格もある。くだけた口調で渚の隣に近づいていた。渚が少し体を引いた。その肩が強張るのが、離れた場所からでも見えた。
「逃げないでよ」
不快な笑い声が混じっていた。
「ひ」
雪の手が掴まれた。渚が先に逃げられるようにと促した雪を、男の一人が捕まえた形だ。
綾香が「なに掴んでんの! 離して!」と声を上げながら引き剥がそうとした。綾香は体育会系で力もある。だが、筋肉のある成人男性相手では、どうしても力の差がある。
そこへ、涼香が割り込んだ。
何も考えず、プールサイドを走った。濡れた床で足を滑らせないように気をつけながら、それでも一秒も無駄にしなかった。悪漢の手首を取って、捻り上げる。
合気道を習っていることは、部員の中でもほとんど話していない。
「痛っ」
「離しなさい」
声は凛と、力強く。一言一言がはっきりとしていて、有無を言わせない重さがあった。掴まれていた雪の手が解放された。もう一人が何か言いかけた瞬間、涼香がただ視線をそちらに向けただけで、その人間は口をつぐんだ。
「係の方を呼びます」
「チッ!」
「放せ!」
「コイツ…」
三人は足早に去っていった。
渚が「七瀬先輩、すごい……」と呟いた。雪が手首をさすりながら「ありがとうございます」と頭を下げた。その目が少し潤んでいた。
涼香はそれに頷いてから、プールサイドの係員の方へ歩いていこうとして——
「七瀬先輩も来てたんですね」
綾香がぽつりと言った。
「ふへ?」
さっきとは打って変わって、予想外の声が出た。涼香は少しの間固まってから、すぐに表情を整えた。
「ええ、ちょっと気分転換に」
「こんなとこで偶然会えるなんて嬉しいな!」
「そうですね……」
涼香は係員に連絡を入れながら、先ほどまでの双眼鏡観察が綾香達にバレていないことを静かに確認した。
バレていないようだった。
よかった。
【 男子班】
ウォータースライダーは、思ったよりずっと高かった。
最上段に近づくにつれて、下に広がるプールが小さくなっていく。階段を上るたびに視界が開けて、真夏の空が頭上に広がっていく。プールの歓声が下から聞こえてきて、風が体を通り抜けた。
「これ、かなりスリルありそうですね」
「ひぃ〜、絶対速いじゃんこれ」
「大丈夫ですよ、尚弥さん。男でしょ」
「竜喜くん、君はこわくないの?」
「全〜然です」
「ほんとかよ」
尚弥がぐるぐると腕を回して準備しているのを、竜喜が冷静な目で眺めていた。表情に動揺の欠片もない。この落ち着きは中学生らしくないと湊は毎度思う。
竜喜が湊の腕の辺りをつつく。
「湊さん、この筋肉って中学の部活で鍛えたんですか?」
「えっと、ちょっと個人的に少し」
「触っていいですか」
「え、まぁ……」
竜喜が上腕二頭筋のあたりを手で触れた。少し力を込めてみて、眉を少し上げる。
「しっかりありますね」
「お、俺も触っていいか」
「村内先輩の腕の方がよほど凄いと思うぞ、腹筋もある」
「確かに!」
尚弥が自分の腕を見せた。竜喜が「確かに」と頷いた。湊が「比べないでくれ」と言った。
列が進む。
一段、また一段。
そして——和哉は、一人で階段を上っていた。
最初のうちは遠目に見ていればよかった。でも気がついたら人の流れに乗っていて、今や頂上まであと五段のところまで来てしまっている。
下を、見た。
プールが遠い。建物の屋根が見える。人の声が遠くから聞こえてくる。
「怖いな」
思わず口から出た。独り言のつもりだった。
「じゃあ、一緒に滑ります?」
「へ?」
顔を上げると、琥珀色の瞳がのぞいていた。
湊だった。
いつの間に振り返っていたのか。その顔が、はっきりこちらを見ていた。
「ここ、二人で滑れるんですよ」
「ええ!」
「あっぶな!」
驚きのあまり一歩後ろに下がった和哉の体が、階段から落ちかけた。湊が咄嗟に腕と腰を掴んで引き上げる。
「よっと。あ、すいません」
湊が後ろの人に謝っていた。でも和哉はそれどころではなかった。バレたこととか、階段から落ちかけて怖かったとか、そういうことよりも。
ギュ。
(半裸の湊に、抱きしめられてしまった!)
プールだから当たり前だ。当たり前なのだが。今まで助けてもらったことは何度かあったが、今回は訳が違う。素肌がダイレクトにくっついている。湊の体温とか、少し湿った肌の感触とか、小さな体に似合わない筋肉の硬さとか。その全部が、一度に伝わってきて。
(頭がパンクする!)
「大丈夫ですか、先輩」
「だ、だいいじょょぶ」
「大丈夫じゃなさそう」
湊が和哉の腕を支えながら、少し心配そうな顔をした。その顔が、また近い。眼鏡がないから、サファイアの目がいつもより直接見える。
「いつから気づいてたの?」
「先輩と七瀬先輩がスパイごっこしてたことですか?」
「スパイごっこ」
それはないと和哉は思ったが、口には出せなかった。
「それならえっと……ああ。竜喜くんと村内先輩が来るちょっと前くらいですね。売店の方で」
「ええ、そんな前から……でも、かなり離れてたよね? 双眼鏡でやっとだったのに」
「なんか先輩の気配がして。俺、視力いいんすよ」
「え、じゃあみんなも?」
「いや、たぶん俺だけだと思います。あ、竜喜はたまに先輩の気配を感じては居ましたね。見えてなかったみたいですけど」
「え、さっきは流したけど、僕の気配ってなに??」
「ふふん、俺は分かるんすよ。先輩のオーラというか、気というか、霊圧みたいなの」
「漫画の読みすぎだよ湊……それでバレちゃってるんだけどね」
「愛の力っすね!」
「……バカ」
和哉は顔を背けた。耳が熱い。プールの蒸し暑さのせいということにした。絶対に違うとはわかっているが、そういうことにしておきたかった。
「先輩、ちゃんと捕まってください。落ちるといけないので」
湊がさりげなく和哉の腕を持った。
階段の手すりじゃなくて、湊の手だ。
(全然安心できない!)
「……二人で滑る、って本当に?」
「ほら、そこに書いてあります。ファミリーコースって」
「ファミリーって」
「問題ないじゃないですか」
湊が涼しい顔で言った。和哉はもう何も言えなかった。問題ない、かどうかは、心臓の問題があるから一概には言えないのだが。
二人で並んで、スライダーの口に腰を下ろした。和哉の後ろに湊が座る形だ。水が滑らかに下へ向かって流れているのが見える。
「行きますよ」
「ちょっと待」
スライダーが動き出した。
「うわぁぁぁぁ!」という和哉の声と、「先輩、ちゃんと掴まって!」という湊の声が、夏のプールに高らかに響いた。




