45話 プール II
「「いっち、にー、さん、しー」」
「もっと肘伸ばして〜」
綾香を前にして、五人が体操をしている。まるで体育の授業の準備体操のようだ。特に雪は周囲からの視線に恥ずかしそうにしているが、遠目に見ているとなかなかに微笑ましい。
そう、『遠目』に見ていると。
「あんまり見すぎるとバレます。もっとさりげなくしてください」
売店で売っていたトロピカルジュースを片手に、涼香が苦言を呈してきた。双眼鏡を構えたまま、視線だけをこちらに向けている。
「そう言っても難しいよ……それに、七瀬さん」
「何ですか?」
「随分と、その……目立ってない?」
プールサイドのあちこちから「あの子、かわい〜」「スタイルいいなぁ」という声が聞こえてくる。
周囲の反応には仕方ないとも言える。涼香が着ている水着は黒いビキニで、白魚のような肌と整ったプロポーションが相まって、かなり存在感があった。
「そうですか? 芽におすすめされたのをを購入したんですけど、どこかおかしいのでしょうかね」
「まぁ」
「ん?」
涼香の耳には、別の声も聞こえていた。
「あの男の子もスタイルいい〜」「綺麗な顔〜」「くびれ羨ましい」という声が、どこかから漏れてきていた。
長身細身で黒のラッシュガードと白のハーフパンツを身に纏う和哉は無自覚に周囲に対してスタイルの良さを見せつけている。
「貴方には言われたくないですね」
チュウっとストローを吸い、トロピカルジュースを飲んだ。
二人がこうしてプールの端でひそひそやっているのには、それぞれに理由がある。
*****
今日の朝のことに、遡る。
目が覚めると、一階の玄関が騒がしかった。
「〜〜〜〜」
「〜〜〜〜」
ガチャン!
内容はよく聞き取れなかったが、玄関の扉が勢いよく閉まったのはわかった。それから、ドンドンドン、と階段を上ってくる足音が響く。これはご機嫌最悪の時の、母の足音だ。
ガチャ。
自室の扉が開かれた。
「和哉!」
「はい」
「久我湊って誰」
ひゅっ。
その名前を聞いた瞬間、一秒だけ息ができなくなった。急いで呼吸の仕方を思い出し、息を整える。
「なん、で」
「竜喜が和哉に聞けば分かるって言ってたんだけど」
「竜喜、が? どういう……」
まさか、湊への感情がバレた? でも竜喜から? どういう話をした?
「今日の朝突然、竜喜が湊さんって人とプールに行くって言い出して。どんな人か聞いたら『兄さんに聞けば分かる』って……はぁ、あの子は本当に……」
「プール」
プール。竜喜と、湊が。
二人で?
プール!!?
「なんで?!」
「いや、私が聞きたいわよ。だから……」
「一年の後輩。この前の見学会で仲良くしてたよ。それしか知らない」
「そうなの。まぁいいわ」
母は今回は大人しく出ていった。
なんで。なんで。なんで。
湊はなんで竜喜と連絡を取っている。
湊はなんで……。
なんで教えてくれなかった?
「…………」
自分でも、その問いかけがお門違いだとはわかっていた。湊が誰と何をしようと自由だし、竜喜が友人を作るのも自由だ。卒業したら付き合う、と言っただけで、今は付き合ってすらいない。
それでも、胸の中でなにかが落ち着かなかった。
* * *
プールの入り口には、多くの人が行き来していた。
「ここだよね」
この地域で大きめのプールといえばここくらいで、他はかなり遠くに行かないといけないはずだ。方向音痴の湊が遠くの見慣れない土地を選ぶとは考えにくい。
勢いで家を出てしまったため、水着がないことに途中で気がついた。急遽最寄りのショッピングモールで調達して、なんとかここまで来た。が…
どうしよう。勢いで来てしまったけれど、見つかったら気まずいかもしれない。
入り口の前でうろうろしていると、背後から声が来た。
「そこの不審者、ちょっといいですか」
「ひぃ、違うんです、違うんです! 中に知り合いがいるんです! って、え?」
振り返ると涼香がいた。制服ではなく、頭にはペーパーリボンハットを被り白い夏のワンピースを着ていた。
「こんな人通りの多いところでうろちょろしないでください。……で、貴方はどうしてここに?」
「それは、えっと」
目が泳いだ。
「なるほど。おそらく目的は同じですね」
涼香が小声でそう呟いた。
「え?」
「こっちです、裏から入りましょう」
「裏から?!」
「はい。ここはうちのグループが経営している施設なので。ほら、行きますよ」
「えぇ」
*****
涼香についていくと、施設の裏口から入ることができた。スタッフの方と涼香が挨拶を交わし、少し話をすると、個室に案内してもらった。そこで急遽買った水着に着替えて、今に至っている。
「にしても、七瀬さんがいてくれて助かったよ。まさかこのプールが七瀬さんちのグループの施設だったのは初耳だったけど」
「うちはレジャー系に力を入れているんですよ」
双眼鏡を構えたまま遠くのメンバーを観察しながら、涼香が答えた。
「うーん、でも七瀬さんはなんでプールに?」
「それは」
*****
夏休みの部活の練習中のことだった。
涼香は用を済ませようと茶道室を少し離れていた。戻ってきて、閉じられた戸を開けようとした時、声が聞こえてきた。
「プール?」
「はい! この日にみんなで行こうと思ってて。一緒にどうですか?」
尚弥と綾香が話しているようだ。
「うーん、でも七瀬先輩や綿貫先輩は誘わないんだろ? それで俺が行くのはなぁ」
気にしなくていいのに。
でも、私が言える言葉ではないのだろう。彼のこういう気の使い方は、やはり好ましい。
「えー、でも先輩かっこいいし筋肉だってあるから注目浴びれますよ?」
「えぇ、そんなことないだろ」
「いやいや、もしかしたら逆ナンとかされちゃうかもしれないですよ」
「うへへ、まじかぁ」
「それに、一年三人と中学生二人で行くとなると統率役が欲しいんですよねぇ」
「ふっ、しょうがないなぁ、俺がお前たちの統率役になってやるよ! 俺の目が黒いうちは問題なんか起こさせないぜ!」
「さっすが! 次期部長!」
「よせやい!」
二人は気づいていないだろう。戸の隙間から絶対零度の冷気が漏れ出ていることを。
「………」
****
「気分転換ですよ、ただの」
涼香が双眼鏡をいじりながら言った。それ以上は何も言わなかった。
和哉もそれ以上は聞かなかった。
「へっくしゅ! あれ? なんか冷えてきた?」
プールサイドの向こうで、尚弥がくしゃみをした。
「!! 連中が行動を開始しました! こっちから観察しながら動きましょう」
「は、はい!」
涼香が静かに立ち上がった。双眼鏡を下げて、目を細めて遠くを見る。プールの向こうに、水着の6人組が賑やかに動いているのが見えた。
その中の一人、黒い海パンの背の低い栗毛の一年生が、笑いながら歩いていた。
胸の中の何かが、ちょっとだけ落ち着かないままだった。




