42話 見学会 下
体験は無事に終わり、吉野先生から最後の言葉が送られた。
「竜喜さん、渚さん。茶道は形だけではなく、心を整えるものです。一服のお茶に込められた思いを、どうか大切にしてください」
短く、それだけだった。でもその言葉が、静かに和室に染み込んでいった。
竜喜が深く頷いていた。渚はお茶の茶碗をまだ名残惜しそうに眺めていた。
あとは後片付けをして、午後の二部に向けた準備だ。全員が動き始める中で、竜喜が湊に声をかけた。
「湊さん、学校の中も見てもいいですか」
「だめに決まってるだろ。この見学会が開けただけでも感謝しろ」
和哉が間髪入れずに突っ込んだ。珍しく即答だった。
「俺は湊さんに聞いてるんだけど」
「えーと」
湊が返答に困っていると、廊下の方から別の声が来た。
「おや、校内の見学をしたいのですか?」
高梨先生が、書類を手にしたまま話しかけてきた。白衣の宇佐美先生に比べて、スーツ姿の高梨先生の方が学校の先生らしい立ち居振る舞いをしている。
「はい! 実は僕、来年この高校を受験しようと思っていまして、できれば見学してイメージを掴みたいなって」
竜喜が、さっきまでとは打って変わって優等生の顔になった。目が真剣で、口調も丁寧になっている。
「素晴らしい、いいでしょう。私が許可を出します」
「「ええ!」」
和哉と湊の声が揃った。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「はぁ、高梨、お前、騙されてるぞ」
「なんて失礼な! こんなに真面目な中学生は珍しいですよ。志望校の雰囲気を事前に確認したいという姿勢は評価に値します」
「……お前、いろいろ気をつけろよ」
宇佐美先生が呆れた顔で小声で言った。高梨先生は「失礼な」ともう一度言いながら、竜喜に「ゆっくり見ていきなさい」と告げた。
「ってことで、許可出たから。湊さん行こ!」
「俺?」
「私も行くから。アンタが案内した方が妥当でしょ」
渚も便乗してきた。
「でも、午後の準備とかいろいろあって」
「あ、大丈夫ですよ。この調子だと午後もお客様は少なそうですし。案内よろしくお願いします、久我くん」
涼香が静かに言った。
「七瀬先輩、いいんすか?」
「はい、その代わりソレも連れて行ってください。たぶんもう使い物にならないので」
涼香がにこやかに和哉を指差した。和哉が「ソレって何さ」と言っているが、涼香はさらりと流した。
「ええ、兄さんも来んの?」
「竜喜、湊から離れて。迷惑だから」
「……まだちょっと不安ですね」
涼香が雪と綾香を見た。
「水野さん、佐野さん、案内の方をお願いできますか」
「え?!」
「でも、それだと七瀬先輩と村内先輩だけになりますよ?」
「男性だけだと渚さんが可哀想ですし、さっきも言ったように二部にお客様が来る可能性は低いので、もしもの時は私と村内くんで対処します」
結果、六人で行くことになった。
*****
校舎の廊下を、六人で歩く。
先頭は竜喜と湊が並んで歩き、その横に和哉が自然についてきた。後列は雪と綾香と渚の三人だ。夏休み中の校舎は部活の生徒が時折行き交う程度で、普段より人が少なく、足音がよく響く。
「えへへ、雪さんと綾香さんに着いてきてもらえて嬉しいです。もっとお話したかったので」
「本当? 嬉しいな」
「可愛いなぁ、本当にあのお兄ちゃんと兄妹? おてて繋ぐ?」
「おい、佐野、何が言いたい」
「うっわ、地獄耳」
「渚はぶりっ子しすぎ」
「死ねば?」
「口悪」
兄妹の応酬が廊下に響く。和哉が少しだけ苦笑していた。竜喜は前を向いたまま、その会話に割り込まないでいた。
「夏休みなのに結構人いるんですね」
「部活がある人たちとかね」
廊下を歩きながら、湊は簡単に案内した。教室の場所、図書室、体育館の方向。竜喜はどれも黙って見ていた。
渚の方が「へぇ、教室ってどこもこんな感じ?」とあちこち覗き込んでいた。
「部活とか、いろいろ入れるんですか」
「一人三つまでみたい、たぶん」
「茶道部以外にも入れる?」
「ルール上はそうなりますけど、体力的にどうかは人それぞれかな」
竜喜が少し考えるような顔をした。
「確か、村内くんと七瀬さんは兼部組だよね」
「そうだったんですか?」
湊も初耳だった。
「私も知らなかったです」
「七瀬さんが合気道、村内くんはサッカーだね。どちらも茶道部と活動が被ってないから」
「で? 兄さんは茶道しかしてないの?」
「うるさいなぁ」
和哉が眉を下げた。
時折弟に見せる、遠慮のない言葉に湊は少し羨ましくなる。
ーーそれはそうと
「こら、さっきからなんで先輩に喧嘩売ってるの?」
湊が小声で竜喜に聞いた。
「う」
竜喜は言葉に詰まった。
「?」
「ちょっとこっち来てください」
「おわ」
「あ、兄さんは待機してて!」
「はぁ? ちょっと!」
*****
ガチャ。
竜喜が階段下の用具室の扉を開け、湊を押し込んだ。そのまま一緒に入って鍵を閉める。
薄暗い。掃除用具やらコーンやらが並んでいる。
「ど、どうしたんだよ」
「兄さんの前でこんなこと言えないから」
「こんなこと?」
竜喜が少し黙った。
それから、少し顔を背けながら言った。
「………だよ」
「え?」
「……兄さ……出ると、緊張……から、……だよ」
「なんて?」
「兄さんが好きすぎて!なんか話しかけると変になるんだよ! だからわざと乱暴に言って、感情を落ち着けてるんだ。兄さんはああいう俺でも怒らないし……慣れてるから、まあ」
湊はしばらく黙った。
「……な、なるほど」
「ああ!今日の兄さんのお点前、カッコよかったですよね?!あの落ち着き、あの所作、それに兄さんが運んだお菓子が食べられるなんて!」
「それはよかったね……」
「本当によかったです!」
「それに、湊さんに絡むと兄さんが話しかけてくれるので。今日はいっぱい絡みましょうね♪」
「か、勘弁して」
*****
外では和哉が廊下の壁にもたれて待っていた。雪と綾香と渚は少し離れたところで渚と話していた。和哉がじっとこちらを見た。
「なんの話してたの」
「えっとぉ内緒です」
「えっ」
竜喜が、すました顔で和哉の横を通り抜けた。和哉が「なんで」という顔をして湊を見た。湊は「俺にも言わないでって言われてるんで」とだけ答えた。
和哉がまたむくれた。
「ねね、二人は入学したら茶道部に入ってくれる?」
綾香が竜喜と渚に聞いた。
「今までそんな興味なかったんですけど……ちょっと興味出てきたかもです」
「俺も……入りたいと思ってます。前から」
「歓迎するよぉ」
竜喜がまた少し顔を背けた。照れているのか、考えているのか、わかりにくい顔だ。
渚がこっそり湊の隣に来た。
「ねえ、竜喜くんってお兄ちゃんが好きすぎて、お兄ちゃんがいる高校の茶道部に入りたいってずっと言ってたんだよ。でもお兄ちゃんが卒業してしまうから、入部しても一緒にはなれなくて」
「うん、ちょっと聞いた」
「それでも来たいって思うのすごいよね」
湊は少しだけ前を向いた。
「……そうだな」
竜喜の後ろ姿を見ながら思う。兄が卒業してしまうとわかっていても、兄がいた場所に入りたいと思うのは、それだけ兄のことが好きだからだろう。
それはわかる気がした。
*****
校内見学が終わって、正門のところで竜喜と渚は帰る準備をした。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「来てよかったです」
竜喜が言った。その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
「また、来てください。部活見学も歓迎しますよ」
「……入る気満々で来ます」
「是非来てね、歓迎するよ」
渚が湊の隣でくすくすと笑った。
「お兄ちゃんって、高校ではこういう感じなの?」
「こういう感じって?」
「……内緒」
「はぁ?」
渚がちらりと竜喜と湊の隣にそっと立つ雪を見た。竜喜は気づいていないふりをして、鞄を直していた。でもその耳が少しだけ赤かった。
「人たらしめ」
「行くぞ」
「はーい」
二人が歩き出した。その背中が小さくなっていくのを、湊はしばらく見送った。
*****
茶道室に戻ると、片付けが始まっていた。
「二人だったけど、どうだった?」
村内が聞いた。
「……充実してたと思います」
「だな。少ない分、丁寧にできたし」
涼香が道具を棚に戻しながら言った。
「参加者が少なかったのは今後の反省点ですが、質という点では良い経験になったかと思います」
「それに、竜喜くんが来年入ってくれそうなんで」
湊が言うと、村内が「それはいいな」と笑った。
和哉は少し離れたところで、静かに片付けをしていた。その顔が、少しだけ柔らかくなっていた。
「竜喜、来年受験するんだね」
「そうみたいですよ」
「……知ってた、受験しようとしてるのは。でも実際に茶道室に来てくれると思ってなかった」
「先輩のことが好きなんですよ」
「それはないかな」
「いや、そうなんですよ。すごく」
和哉が少し困ったように笑った。それでも嬉しそうなのが、ちゃんと伝わってきた。
夏の日差しが、障子を通して和室に差し込んでいた。
*****
帰り道、竜喜と渚が並んで歩いていた。
「そういや、あの高校に七瀬家のお嬢様がいるって本当なんだな」
「うん。でも噂通りの人ではなさそう……なんか、いい人そうだよ」
「七瀬家は古い家柄だからな。そういうところの人間が公立高校に来るのは珍しい」
「でもそんな心配する?入学するころには卒業してるよ?」
「兄さんの学校の話だから、多少は」
渚が少し目を細めた。
「……竜喜くんって、すごいブラコンだよね」
「この程度で?」
「いや、ほんとに」
竜喜が前を向いた。夏の光の中で、その横顔が少しだけ柔らかかった。




