40話「見学会 上」
当日の朝は快晴だった。
朝から蝉の声が響いていた。夏休みの学校は普段と空気が違う。静かなはずなのに、その静けさの中に何かが詰まっているような、特別な日の前の感覚だ。
茶道室には朝から六人と吉野先生、そして代理顧問の二人が集まっていた。
宇佐美先生と高梨先生は入口近くの椅子に腰を下ろして待機している。宇佐美先生はすでに文庫本を開いていた。一応顧問として来てはいた。それだけで十分だと思っているらしい。
昨日の前日準備の折、吉野先生に畏まって挨拶していた時はなかなか大人らしい雰囲気があったのに。隣で高梨先生が静かに書類を確認している姿と並ぶと、二人の温度差が改めて際立つ。
「予定時刻まであと二十分です。準備の最終確認をしましょう、村内君」
「はい」
涼香が静かに言った。体調はもう万全で、今日はいつもの凛とした立ち方をしている。体育祭の日のような翳りはどこにもない。
道具の配置、受付の場所、体験の流れ。一通り確認してから、それぞれが持ち場に向かった。
受付は湊が担当だ。廊下の端に小さな机を出して、案内の紙と筆名帳を置いた。隣には雪がポスターを貼って立っている。雪の書いたポスターは見学会の雰囲気をよく伝えていて、廊下に貼ると思ったより映えた。
予定の時刻になった。
「……来ないね」
雪が小声で言う。
「もうすぐ来るよ、まだ五分しか過ぎてないし」
「でも、その…なんとなく」
雪の心配は正しかった。
告知のタイミングが遅かった。チラシを配布できた中学校の数も少なかった。そもそも夏休み中に他校の見学会へ来るというのは、よほど興味がなければしない。熱心に動いてきたつもりだったが、初めてのことで読めていなかった部分が多かった。
さらに十分が過ぎた。
廊下は静かだった。
「……一人も来ない、ということは」
「……二人は来るよ、たぶん。一人は確定だし」
湊が言い終わる前に、廊下の向こうから足音が聞こえた。二人分の足音だ。
角を曲がって現れたのは——。
「あ! お兄ちゃんいた!!」
渚だった。やはり念のため呼んでおいてよかった。
*****
数日前、久我家にて。
「見学会?」
お風呂上がり、ソーダアイスを咥えた渚が答えた。ペンギン柄のパジャマが夏らしい。
「ああ、茶道部の見学会を夏に企画してるんだが、渚も来ないか? どうせうちの高校に来るんだろ」
「まだ確定じゃないけどね。私、お兄ちゃんほど勉強に熱中できないし。そいいや、茶道してたんだっけ? 似合わなぁ」
「やかましい……で、来るか来ないか」
「うーん、まぁ行っとこうかな。この日暇だし」
気軽に言った渚に対して、湊はにこっとした。
*****
驚いたのは、渚の後にもう一人が角から出てきたことだ。
黒髪に切れ長の吊り目、涼しげな顔立ち。見覚えのある制服と、見覚えのある落ち着いた立ち方。
「お、りゅうくん」
湊が声を上げると、りゅうが少し目を丸くした。
「湊さん。来ましたよ」
「ありがとう、参加者少なそうだから来てくれて助かるよ」
「は? りゅうくん? お兄ちゃんいつからコイツとそんなに仲良くなってたの」
渚が眉を上げた。その目が湊とりゅうを交互に行き来している。
「……あ」
りゅうの目が、ゆっくりと湊から廊下の奥へ向かった。茶道室の方角に。
「仲がいいのはそっちの方だろ、二人で来たんだろ?」
「そこで会っただけだから!二人一緒に来たわけじゃないって!」
*****
混乱は、茶道室でも起きていた。
茶道室から和哉が顔を出した。廊下の様子を確認しようとしたのだろう。その目が、湊とりゅうを見た瞬間に止まった。
「……え?」
「兄さん」
りゅうが顔を上げた。和哉を見つけた瞬間、その目が——死んだ魚のようになった。
さっきまで穏やかに話していた声と顔が、ぴたりと止まっている。それが驚きなのか感動なのか、端から見ていると判断がつかない。
「た、竜喜?! な、なんで湊とそんなに仲良いの!」
「へ、竜喜……って」
湊が聞き返すより先に、りゅうが答えた。
「なんでって、そんなの兄さんには関係ないだろ」
「う……」
和哉が一瞬、固まった。
そしてなぜかさっと湊の後ろに回り込んで、ひょいと身を隠した。背が高いため半分はみ出しているのだが、本人はそれに気づいていないらしい。
「湊、湊、なんで竜喜と仲良いの」
「ちょっとなに見っともないことしてるの」
りゅうが、湊越しに和哉を見て言った。普段の兄への語り方とは、まるで違う口調だった。呆れているような、冷たい口調。
「えっと、先日お茶菓子の買い出しで道案内してもらって」
湊が恐る恐る説明すると、和哉の目が少し細くなった。
「それでなんであだ名で呼ぶ仲になるの」
「……むぅ」
和哉が不機嫌そうに膨れる。眼鏡の奥の青い目が、珍しく拗ねた色をしていた。
湊は内心で頭を抱えた。先輩が拗ねているのは可愛いが、なぜこの状況で拗ねているのかが把握しきれていない。
「……りゅうくんって、竜喜って名前だったんだ」
湊がりゅう改め竜喜に言うと、竜喜がこちらに向き直った。
「っす。改めまして、綿貫竜喜です。よろしく、湊さん」
「竜喜くん、お兄さんが先輩なんじゃん。なんで教えてくれなかったの」
「話す機会がなかったので」
「絶対嘘。誰か関係者に会ったら面白いなって思ってたでしょ」
「否定はしないです」
さらりと言った竜喜に、渚が「もう、あんたねぇ」とため息をついた。
涼香が来客二人と湊と和哉を交互に見てから、静かに言った。
「お二人ともようこそいらっしゃいました……事情はあとで聞きます。まず受付をどうぞ」
*****
参加者は、竜喜と、湊が念のため呼んでおいた渚の二人だけだった。
ちなみに「りゅう」という呼び名の由来だが、友人たちが「りゅうき」をそのまま読んでいたのが、いつの間にか「りゅう」に縮まったのだとか。本人は特にこだわりがないので定着してしまったらしい。
村内がこっそり湊に「二人だけか……まぁ、でも来てくれたし」と言った。その顔が少しだけ複雑だったのは、準備してきた量と人数が釣り合っていないからだろう。
見学会に向けて重ねてきた稽古も、作ってきたポスターも、用意してきたお菓子も、全部二人のためのものになった。
だが吉野先生は何も言わなかった。
「少人数で行いましょう。身内な分気兼ねなく、丁寧に教えられるのは、むしろ利点です」
その一言が、場をまとめた。
湊は少しだけ肩の力を抜いた。参加者が少ないことへの複雑な気持ちは残っていたが、吉野先生のその言葉には、ただの慰めではない何かがあった。実際に、二人だからこそ丁寧にできることがある。今日は今日の形でやるだけだ。
竜喜と渚が並んで靴を脱ぐのを見ながら、湊は受付の机を片付け始めた。




