39.5話「湊の夏休み」
今日は茶道部の活動のない日だ。
夏休みの中でも、こういう「何もない日」は意外と少ない。湊はそれを自分なりに使い切ろうと決めていた。
6:00
「……ん」
自室の紺のカーテンの隙間から、微かな朝の光が差している。
休みなのでもう少し寝ていてもいいのだが、規則的な習慣により、この時刻に自然と体が目覚めるようになっている。中学の頃から染みついた癖だ。
一度目が覚めると二度寝できない体質なので、まだ重い身体を起こし、ベッドから降りる。
「ん、ん〜〜」
グーっと腕を伸ばす。足も伸ばして軽く柔軟し、寝ている間に凝り固まった身体をほぐしてから、自室を出て洗面台に向かった。廊下はまだ薄暗く、家の中はしんと静かだった。
6:15
歯を磨き、顔を洗って、朝食の準備をする。
棚に置かれている四枚切りのパンをトースターに入れ、フライパンをコンロに置いて油を敷き、卵を割り入れて目玉焼きを作る。火を通している間、冷蔵庫にある母の作り置きのサラダをさらに盛り付けた。
出来上がったものを皿に盛り付け、テーブルに置いて食べる。トーストの焦げる音と、卵の白身が広がっていく様子を見ているだけの、静かな時間だった。
7:00
半袖のジャージに着替え、朝のジョギングに出る。
走るコースはいつも同じだ。家の周りを大きく一周して、河川敷沿いに出て、そのまま橋を渡って戻る。
夏の朝はまだ気温が低く、走るには絶好の時間だった。蝉の声がぽつぽつと聞こえはじめる頃、湊はちょうど折り返し地点に着く。アスファルトの匂いと朝露の匂いが混ざって、いつもこの時間にしか感じない夏の気配があった。
走っている間、頭が空っぽになる。茶道のことも、和哉先輩のことも、考える必要のない時間だ。でも、走っているうちに気づくと先輩のことを考えてしまう。今日もそうだった。
8:00
自宅に戻り、母の作った朝ごはんを食べる。和食だ。
ご飯、味噌汁、焼き魚、漬物。きちんとした朝食を、母は毎日欠かさず用意してくれる。
「お兄ちゃんまたジョギング? よくやるね」
渚がたくあんを齧りながら、リビングの椅子に座って言った。
「習慣になっちまったからな、やめるにやめられない」
「なんでもいいけど汗臭いからシャワー浴びてよね」
「はいはい、後でな。いただきます」
湊は手を合わせてから、箸を取った。漬物の音が、静かな台所に小さく響く。
9:00〜11:00
夏休みの宿題に取り掛かる。
国語、数学、英語、理科、社会、保健体育の課題ノート。一年生の範囲はまだそれほど難しくないが、量がそれなりにある。湊は机に向かって、一つ一つ丁寧に潰していった。
わからないところは後回しにせず、その都度教科書を見返す。また、先輩の助けになるよう基礎を整え、もう一度教える側になれたらいいなと思いながらページをめくった。りゅうの「兄さんは聞き上手」という話を思い出すと、自分もそうなりたいという気持ちが湧いてくる。
二時間ほどで、その日のノルマをだいたい終える。
12:00
昼食。
渚が冷蔵庫にあった素麺を茹でて、つゆと一緒にさっと食べる。
「感涙して食べなさい」
渚がそんなことを言ってきたが、量は多いし麺はくっついてダマになっているし、少し伸びている、渚は3割程食べてから「あげる」っと押し付けてくるし。別の意味で涙が出そうだ。
それでも、夏の昼にはちょうどいい軽さだった。食べ終えた後、しばらくぼうっとして過ごす。台所の窓から差し込む光が、テーブルの上で揺れていた。
13:00
茶道の動作復習
畳の上ではないが、自室の床に正座をして、帛紗捌きや茶碗の扱いを一人で繰り返す。実際の道具がなくても、ハンカチや手の動きだけはなぞることができる。吉野先生に言われた「焦らず、丁寧に」という言葉を思い出しながら、何度も同じ動作を確認した。
見学会で説明役を担当するのだ。うまく説明できるよう自分なりにまとめておきたい。実際、一年の中だと雪が一番上手だと思う。説明の言葉選びも、声のトーンも落ち着いている。
先輩のようにもっと自然に、もっと丁寧にできるようになりたい。
14:00
筋トレと栄養学の本を見ながら、タンパク質の計算をする。
和哉先輩を支えられるようにと始めた筋トレだったが、いつの間にか趣味になっていた。最近は栄養学の本を読んで、ノートパソコンで一日に必要なタンパク質量や、食材ごとの含有量を計算するのが密かな楽しみになっている。
ノートに「鶏むね肉80g=タンパク質 約19g」などとメモを取りながら、今日の食事のタンパク質量を逆算していく。画面と紙を交互に見ながら数字を埋めていく作業は、地味だが妙に没頭できた。
16:00
母に頼まれて、お使いに出る。
夕飯の材料が足りないとのことで、近所のスーパーまで買い物に行った。リストを片手に、必要なものを一つずつカゴに入れていく。レジに並んでいる間、お菓子売り場でふと和哉先輩のことを思い出した。あの人、和菓子以外だと何が好きなのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、レジの順番を待った。
帰り道、日差しはまだ強かったが、夕方に向かう空気の匂いがほんの少し変わり始めていた。
18:00
夕食。
買ってきた材料で、母が手早く作った料理が並ぶ。今日は野菜炒めと味噌汁、ご飯。家族そろっての食事は賑やかで、渚が今日の出来事を一方的にしゃべり続けるのを、湊は適当に相槌を打ちながら聞いていた。
「お兄ちゃん、今日いいことあった?」
「特に何もなかったけど」
「? なんか顔に出る」
「気のせいだろ」
それ以上は何も言わずに、渚はご飯を口に運んだ。湊はその視線をなんとなく避けるように、味噌汁の椀に口をつけた。
19:00
お風呂。
一日の汗を流す。湯船に浸かりながら、今日のスケジュールを振り返る。宿題も進んだし、筋トレもできたし、悪くない一日だった。湯気の向こうで、今日見たお菓子売り場の光景を、もう一度思い出した。
20:00
風呂上がり、自室の扇風機を浴びながらアイスを食べる。
冷凍庫に入っていたアイスバーを一本取り出して、扇風機の風を真正面から受けながら齧る。冷たさが体に染みて、生き返るような感覚がある。湊にとって、この時間が一日の中で一番贅沢な瞬間かもしれない。
20:30
柔軟。
寝る前のストレッチは欠かさない。体が硬くなると次の日の動きに影響するからだ。ベッドの上で股割りや前屈を丁寧に行いながら、明日の予定をなんとなく考える。
21:00
部屋の片付けと、明日の準備。
明日は部活なので、カバンを整理する。宿題のノートを整理する。机の上を軽く拭いて、明日着る服を用意してから、ベッドに腰掛けた。窓の外はもう真っ暗で、虫の声だけが聞こえている。
22:00
スマホで先輩の写真を見ながら、入眠の準備に入る。
動物園で撮った写真を一枚一枚見返す。キリンを見上げる先輩、ペンギンと目線を合わせる先輩、アイスを食べながら笑う先輩。どれも、今でも見るたびに頬が緩む。
「……ん」
画面を見つめながら、湊は小さく息を吐いた。
明日になれば、また部活がある。先輩に会える。
そう思うと、何もなかったはずの今日という一日が、それだけで少し満ち足りたものに思えた。湊はスマホの画面を閉じて、布団の中に潜り込んだ。
夏休みの一日が、静かに終わっていく。




