39話「お菓子選び」
見学会まで一週間を切っていた。
夏休み中の部活日、茶道室には一年生三人と村内が集まっていた。吉野先生は今日は予定で来ない日だ。三年生も今日は休みで、四人だけの作業時間になっている。
畳の上に広げられた紙には、見学会のタイムライン、役割表、当日の動線が書き込まれていた。尚弥が中心となって進めているが、思ったより段取りよく進んでいる。他者に仕事を任せることへの涼香の後押しが効いているのか、村内の采配には意外なほど安定感があった。
これには尚弥の人柄や人生の経験値もあるだろう。先日の体育祭の応援団長の仕事でもそうだった。去年も団長の経験があったとはいえ、響也と二人で分担していたパフォーマンスや衣装の発注、クラスの士気の管理、おまけにクラスパネルの制作——これらを尚弥はうまいことクラス全体で分担させ、誰かが抜けても誰かがフォローに入れる体制を整えていたらしい。陽キャとひとくくりにしてはいけない。彼は存外、強かな男なのだ。
「んじゃあ、残りの準備をざっと確認するぞ。ポスターがまだできてないのと、お茶会で出すお菓子が決まってない」
尚弥が指を折りながら言う。
「ポスターは私と綾香ちゃんで今日中に仕上げます」
雪がノートを見ながら答えた。テキパキしている。見学会の準備が始まってから、雪はこういう場面で少し変わった気がする。以前より意見を出すようになった。
「よし、じゃあポスターは任せた。お菓子は——」
尚弥が湊を見た。
「久我、お菓子のリサーチと試食がてらの買い出し、やってくれるか?」
「お菓子ですか」
「見学会では来客に抹茶と一緒にお菓子を出す。どうせなら地元の銘菓を使いたいんだよ。七瀬先輩と綿貫先輩に聞いたんだが、駅前の商店街に専門店があるらしい、いくつか見繕って来てくれ。メモするぞ」
尚弥が紙を取り出して、候補となる店の名前と商品名を書き始めた。几帳面な字ではないが、どこかで調べてきた情報がちゃんと詰まっているのがわかる。
「この三軒を回って、見学会に出せそうなもの一、二品選んできてくれ。なるべく小ぶりなもの、夏らしく和の雰囲気があるもの」
「わかりました、行ってきます」
「あ、領収書な。一応部費から出すから忘れると七瀬先輩に怒られるから」
「了解です」
「わぁ〜ずるい!私もお菓子食べに行きたい!」
湊が地図を手に立ち上がろうとしたところで、綾香が噛み付いた。
「買い出しだっての……はぁ、ちょっと余分に買ってきてやるから」
「いょっしゃぁ!」
おおよそ女子とは思えないポーズと雄叫びを上げる綾香をよそに、湊が立ち上がると、雪がおずおずと声をかけた。
「あの、久我くん」
「ん?」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ、地図あるし」
「……なら、いいんだけど」
雪が言いにくそうに言った。目がやや伏し目がちになっている。言ったことを悪く思っているらしい。でも雪の心配は正直なところ正しい。
「俺はちゃんと地図を読める。現在地が地図と合ってないだけです」
「それが……」
「大丈夫だって」
湊は笑って言い切った。雪がまだ心配そうな顔をしているのを見ながら、湊は茶道室を出た。
*****
駅前から商店街へ入った途端、空気が変わった。
アーケードの屋根が頭上に広がり、夏の直射日光が遮られる。日なたと日陰のくっきりとした境界を越えると、体感温度が二度は下がった気がした。
古くからの通りで、両側に並ぶ店はどれも年季が入っている。果物の色鮮やかな山が積まれた八百屋、漬物の香りが漂う食料品店、昭和の匂いがする文房具屋。アーケードの向こうに蝉の声が聞こえていて、ここだけ夏が少し違う温度に感じられた。
地図を見ながら歩いていると、最初の曲がり角で湊は止まった。
左に曲がるべきなのだが、目の前には似たような路地が二本並んでいる。どちらも「左」と言えば左だ。
「……こっちか?」
湊は右の路地を選んで進んだ。
五分歩いても、それらしい店が見えない。アーケードの明るさからは外れて、住宅街の静けさが深まっていった。軒先の朝顔が、静かに風に揺れている。
「あれ」
立ち止まって地図を見直す。どうやら出発地点がずれていたらしい。
「……戻るか」
「あの、迷子ですか」
突然、声をかけられた。
振り返ると、少し上から視線が来ていた。黒髪に切れ長の瞳、少し吊り目の男の子だ。顔だちは涼しげで、湊と和哉の母校である東雲中学の制服を着ている。背は湊より高く立ち方に妙な落ち着きがある。
端的に言うと。
「かっこいい」
つい惚けて声が漏れてしまった。こんなことは久しぶりだ。俺には綿貫先輩という人がいるというのに、なんたる不覚だろう。
「へ」
少年は少し鼻白んだ様子でこちらを見ている。
「ああ、いやなんでもないです」
「どこ探してるんですか」
地図を指差して聞いてくる。
「ええっと、この店なんですが」
湊がメモを見せると、男の子はそれをちらりと見て、「ああ」と頷いた。
「知ってます、そっちじゃないです。こっちに来てください」
断る間もなく、男の子はすたすたと歩き出した。
「え」
案内されながら歩いていると、少し離れた場所に友人らしき集団が見えた。男の子が手を振ると、向こうから「りゅう! どこ行くんだ?」と声が飛んできた。
「先行ってろー」
男の子がそちらに向かい、何かを言い合ってから戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……えっと、りゅうくん、でいいかな」
「あ、……まぁ」
男の子——りゅう——が少し面倒くさそうに頷いた。別に否定するほどでもない、という顔だ。
「俺、久我湊といいます。高校生です」
制服は着ているが、一応付け足した。
路地を曲がりながら歩く。りゅうの歩き方はまっすぐで、迷いがない。
「どこの高校ですか」
「行雲高校です」
りゅうの歩みが、わずかに変わった気がした。
「……行雲」
「知ってる?」
「まぁ、この辺じゃ有名ですし」
それだけ言って、りゅうは前を向いたまま続けた。
「行雲にはうちの兄さんが通ってるんで」
「へえ、そうなんだ」
「兄さんは俺の四つ上で」
「そうなんですね」
「頭いいんですよ。あと字も綺麗で」
「うん」
「料理もできます」
「万能だね」
「そうなんですよ」
りゅうが深く頷く。
「しかも本人は自覚してないんです」
「へぇ、無自覚なタイプ?」
「そうです。褒めても『そんなことないよ』って笑うんです。あの笑い方がまたいいんですよ、困ったようで全然困ってない顔で、こうやって……」
「いい人そう」
「いい人です」
断言だった。
「兄さんは世界一いい人です。俺が昔熱を出した時も一晩中起きて看病してくれましたし、夏休みに宿題忘れた時も手伝ってくれましたし、俺が腹立って物に当たって大事な物を壊した時も怒らずに一緒に直してくれました。しかも謝った時に笑いながら大丈夫だよって言うんです。あんな人、他にいないと思います」
「優しいね」
「静かだけどしっかり成果は出すタイプで。特に趣味は祖母仕込みもあってかなり達人級なんですよ。でも自慢にしないんです。こっそりやってる感じで、見ている人だけが気づくみたいな」
「へぇ、すごい人なんだね」
「運動はちょっと苦手なんですけど、そのギャップもよくて」
「はい」
「けど、運動してないのに俺よりスラッと背が高いんです。いつか追い越したいんですけど、このまま見上げるのも悪くなくて」
「うん」
「あ、目!目なんですよ、兄さんの魅力は!俺は母に似てしまってつり目気味なんですけど、兄は父に似てタレ目なんです!眼鏡越しに見るとまた違う感じになって」
エンジンがかかった。りゅうは拳を握りしめながら語り出した。
「顔がいいって話ではないですよ、勘違いしないでください、顔がいいのは事実ですけど!兄さんの本当の魅力は人間性です。まず会話では相手を否定しない。対話というものは自分と他者の思いやりによって成り立つということをよくわかってる。どんなとんちんかんなことを言っても頭から否定せずに、まず聞いてくれる。ちゃんと目を見てくれるんですよ、話す時に」
「それは確かにいい人だね」
「でしょ! そのくせたまに天然でうっかりするんですけど、そのギャップが……あとですね、静かな時の雰囲気が特にいいんですよ。本を読んでる時とか、集中してる時の顔が普段と全然違って、そっちのほうが綺麗な顔してて、なんか本人に言ったら恥ずかしそうにするんですけど事実なので仕方ない。あ、あと笑うと目が細くなるんですよ、それがチャーミングで」
「……それはいい兄さんだね」
「そうなんです! わかってくれますか! しかも最近、ちょっとだけ笑い方が変わった気がするんですよ。常にどこか嬉しそうというか、なんというか。なんかあったのかなとは思ってるんですけど聞いたら教えてくれないで、それがちょっとだけ寂しいというか、でもそれはそれで兄さんにも秘密があっていいかと思ってる訳で、俺も素直に聞けないんですけど…」
止まらなかった。
湊はそれを聞きながら相槌を打ちながら、こっそり思った。
(変わった子だ)
*****
アーケードの端まで来ると、商店街の雰囲気がまた少し変わった。
観光客向けの土産物店や、こじゃれたカフェが混じりはじめる。その中に、古い佇まいを保ったままの菓子店がある。小さな暖簾と、手書きの黒板に今日のお勧めが書いてあった。店の前に飾られた季節の花が、夏の光の中でひそやかに揺れている。
「さて、この店ですよ」
りゅうが指を差した。
「お、本当だ。ありがとうございます」
「ここまで来たら付き合います」
りゅうがそう言って、一緒に入ってきた。
落雁と羊羹の専門店だ。店内は思ったより広く、木の棚に様々な菓子が並んでいる。整然としていて、一つ一つが丁寧に作られたものだというのが伝わってくる。棚の隅に、小さな茶釜の置き物が飾ってあった。
湊が店主に声をかけて、見学会の趣旨を説明すると、快く試食をさせてくれた。小さな皿に、彩りの綺麗な練り切りと一口サイズの羊羹、竹の楊枝が添えられている。
「どうぞ」
りゅうも促されて、練り切りを一口で食べた。少しだけ目を見開く。
「……おいしい」
「でしょ。お茶に合いそうですよね」
「合いますね」
「ごめんね、付き合ってもらって」
「大丈夫っすよ、ここまで来たら付き合います。……それに、なんかほっとけないですし」
最後の方は小さくて聞き取りにくかったが、気のいい奴だ。
領収書をもらって外に出ると、りゅうが「二軒目はどこですか」と言いながら地図を覗き込んできた。
*****
二軒目は苺大福が有名な大福専門店だった。
商店街の中ほどにある、白いのれんの小さな店だ。のれんの向こうから、甘い餡の香りがふわりと漂ってくる。ガラスのショーケースには、丸々とした大福が並んでいた。白い餅肌が柔らかそうで、苺の赤が透けて見える。
「試食はありますか」と聞くと、店の方が「どうぞ」と一口サイズのものを出してくれた。
「……甘い」
「白餡が入ってるんですね。でもしつこくない」
「これ、一個でいくらなんですか」
ショーウィンドウの値札を見ると、一つ数百円。
おっと、これは高校生が気軽に食べていいものではないかもしれないぞ。値段を見たら急に味がしなくなった。
「高校生には少し高いかもしれないですね」
りゅうが苦笑いしながらフォローする。
「なんのお買い物ですか?」
お店の人が見かねて聞いてきた。
「見学会で出すお菓子を選んでまして」
「見学会?」
店の方が興味深そうに聞いてくれたので、湊はもう一度説明した。りゅうは隣でおとなしく聞いていた。
二件目の領収書をもらって店を出ると、りゅうが「三軒目は?」と聞いてきた。まだついてくるつもりらしい。
*****
「来年、行雲高校を受験しようと思ってるんですよ」
三軒目に向かう道中、りゅうが言った。
「そうなんですね」
「本当は兄さん在学中に入りたかったんですけど、年齢の差は埋められなくて。なぜ日本は飛び級制度がないのか、悔やまれます」
「……それは難しいね」
「兄さんが卒業する前に一回でも同じ学校に通えたら、それだけでよかったんですけど」
さらりと言った言葉が、湊の胸のどこかに引っかかった。
「……いい兄さんなんだね、本当に」
「そうです」
りゅうが真顔で頷いた。その目が、少しだけ遠くを見ているような気がした。
「あ、三軒目ここですよ」
商店街から少し入った路地に、小ぶりな菓子店があった。外から見ると民家のように見えるが、暖簾と小さな看板がかかっている。中に入ると、年配の店主が一人で番をしていた。手作りの和菓子がいくつか並んでいる。
店主に説明すると、丁寧に話を聞いてくれた。試食として出てきたのは、ひと口サイズの薯蕷饅頭だ。白くて小さく、上品な甘さだった。
「これ、いいですね」
「上品ですよね」
りゅうが素直に言った。
「りゅうくんは和菓子好きですか」
「嫌いじゃないです。兄さんがよく食べてるのを見てたら、自分も好きになりました。あと茶道のお菓子が案外おいしくて」
「茶道のお菓子、食べたことあるんだ」
「祖母がたまに持ってきてくれるんで。いつも綺麗で食べるのが勿体なくなります」
また兄の話へと流れていくのを、湊は黙って聞いていた。
「あ、そうだ。はい、これ」
「これは」
湊はカバンから一枚の紙を取り出した。雪が見本として書いたポスターだ。書いているのを見て褒めたらくれた。仮の見本とはいえかなり出来がよく、完成品でもそのまま使えそうなほどだ。茶道室の雰囲気が伝わってくる、落ち着いた色合いのデザインだった。
「見学会、来てください。きっと楽しいですよ」
りゅうがポスターをじっと見た。
「……茶道部の見学会」
「はい」
少し考えるような間があった。
「きっと行きます」
「楽しみにしてます」
*****
領収書をもらって三軒目の店を出た。外は相変わらず夏の日差しが強く、アーケードの外に出ると光が一気に増した。
りゅうも一緒に出てきて、友人たちがいる方向に目を向けた。
「ありがとうございます。だいぶ付き合わせてしまって」
「きっと俺がお礼言う立場ですけどね」
「?」
りゅうが、ふっと笑った。まだ幼さの残る顔が、少しだけ緩んだ。その笑い方が、誰かと少しだけ似ている気がしたが、湊はそれが誰だったか判別できない。
「行雲って、いい学校ですか」
「いいですよ。部活も楽しいし」
「……そうですか」
りゅうがポスターを折らないようにそっとカバンにしまいながら、言った。
「じゃあ、これで」
「はい。今日はありがとうね」
「……楽しみにしてます」
それだけ言って、りゅうは友人たちの方へ歩いていった。その背中は迷いなく、まっすぐだった。
湊はその背中を見送りながら、手の中の紙袋を少し持ち直した。
「変わった子だったなぁ」
でも悪い子ではない。むしろずっと兄の話をしていた分、その兄がどんな人なのかが気になった。茶道ができるなら入ればいいのに、と思いながら、でも人それぞれ事情があるのだろうそれ以上は深く考えないようにした。
「帰るか」
スマホで地図を開いてから歩き出す。
高校に戻るのに、二時間かかった。




