38話「和哉とお出かけ II」
動物園の入口には、カラフルな看板と小さな子供連れの家族が並んでいた。
チケットを二枚買って、湊と和哉は中に入った。夏休み中とあって人は多いが、広い園内に散らばるので窮屈さはない。木陰も多く、思ったより涼しかった。入場ゲートをくぐる時、小さな子供が「キリンみたい!」と叫んでいた。
最初の展示ゾーンに入ってすぐ、和哉の歩き方が変わった。
「あ、キリン」
声が弾んでいた。さっきまでの落ち着いた声とは全然違う。
柵の向こうに、二頭のキリンが悠然と立っていた。長い首を伸ばして、高い場所の葉っぱを食べている。
「……相変わらず無駄に大きいですね」
「首だけで何メートルあるんだろう」
「二メートルくらいらしいですよ」
「そんなに? すごいな、首だけで湊より大きい」
「それはそうですけど」
「むぅ」
湊が唸ると、和哉がくすっと笑った。
和哉は柵のそばまで近づいて、キリンを見上げた。その横顔が、子供みたいだった。さっきの大学の施設見学の時とは、別人のような顔だ。
「先輩、気をつけてください。奴らは首をスイングして攻撃してくるんですよ」
「おや、湊君ご機嫌ななめ? キリン嫌い?」
「嫌い?まさか。コイツらは無駄に足が長いせいで、立ったり座ったりするのに時間がかかって、野生では肉食動物に狙われやすい哀れな奴らですよ」
「ひしひしとコンプレックスが伝わってくる」
和哉が笑う。湊は少し口を尖らせた。
湊はスマホを取り出した。
「先輩、そのまま動かないでください」
「え?」
パシャリ。
和哉がキリンを見上げている横顔。少し口が開いていて、目が輝いている。
「なに撮ってるの」
「記念です」
「見せて」
「後でです」
湊がスマホをポケットにしまうと、和哉がどこか不服そうな顔をした。でもすぐに次の展示に気を取られて、「あ、ゾウ」と歩き出した。
「わーこの子も湊より大きいなぁ」
「む……でも! コイツらはこの無駄にデカい体のせいで……」
「キリンもゾウも悪くないんだよ、湊」
「先輩はもう少し俺の気持ちに寄り添ってください」
和哉が笑い続けているのを横目に見ながら、湊は内心で自分に言い聞かせた。これは愛のある笑いだ、たぶん。
*****
ゾウのエリアでも、カバのエリアでも、ペンギン館でも、和哉は同じだった。
「大きい」「かわいい」「あっちにも行きたい」と言いながら、子供のようにあちこち向かう。湊はそのたびに地図を確認しながら、迷子にならないよう後ろをついていき、もれなく大きい動物への嫉妬のマイナスプレゼンをこなしていた。
ペンギン館の中は、別世界のように涼しかった。薄暗い展示スペースに、ペンギンたちがよちよちと歩いている。水の中を泳ぐ姿が、ガラス越しに見えた。
「泳ぐの速いんだよね、ペンギンって」
「意外ですよね。あの短い足で」
「でも歩き方がかわいい」
和哉がガラスのそばにしゃがんで、ペンギンと目線を合わせた。ペンギンは関係なく横を向いている。
湊はまたスマホを取り出した。
パシャリ。
「また撮ってる」
「先輩がいい顔するんで」
「いい顔?」
「動物園に来た時の先輩の顔、いいです」
和哉が少し目を細めた。
「……なんか照れる」
「素直な感想です」
「それが照れるって言ってるんだけど」
湊が笑うと、和哉もつられて笑った。ペンギン館の薄暗がりの中で、二人分の笑い声が混ざった。
*****
夕方近く、二人は出口付近のベンチに座っていた。
一日分の疲れが足に来ていたが、悪い疲れではなかった。売店で買ったアイスを食べながら、しばらく黙って周囲を眺めていた。夕方の光が木々の間を通って、地面に斑模様を作っている。
「楽しかった」
和哉がぽつりと言った。
「俺もです」
「大学の方じゃなくて、こっちの話ね」
「わかってます」
和哉がアイスの棒をくるりと回した。夕方の光が、木々の間から差し込んでいる。
「湊に聞いてほしいことがあるんだけど」
「はい」
「長くなるかもしれないけど」
「構いません」
湊が和哉の方を向いた。
和哉は前を向いたまま、少しだけ目を伏せた。それから、ゆっくりと話し始めた。
「今日行った大学、お母さんが勧めてるんだ。法学部か経営学部に行って、公務員になるか大きい会社に入れって」
「……そうなんですか」
「僕のことを思っての話だとは思う。安定してる仕事の方が、安心だから」
湊は何も言わずに聞いていた。
「でも、なんかずっとちぐはぐな感じがして。向いてないとかじゃなくて、そもそもそこに行きたいかどうかがわからないんだよね」
「先輩が行きたいところって」
「さっき言ってたやつ、本当のことだよ。手を動かしながら学べる場所。茶道みたいに」
「茶道みたいに、か」
「……茶道は、僕がお母さん関係なく選んだものだから。初めて自分で選んだから、特別で、好きなんだと思う」
その言葉を、湊はゆっくりと受け取った。体育祭前に茶道室で聞いた話が、今の言葉と繋がる。おばあちゃんの家に行く時だけ、お母さんがいなかった。その時間に、好きなものを見つけた。
「先輩が選んだ大学なら、ちゃんといい大学だと思います」
湊が言うと、和哉が少し笑った。
「……そう言ってくれる?」
「はい。先輩のことを一番信用してるのは俺なんで」
「それは嬉しいな」
和哉が今度こそ、ちゃんと湊を見た。夕方の光の中で、眼鏡のレンズが少し輝いた。
「湊に話すと、なんか楽になる。不思議だね」
「俺がいるんで、大丈夫ですよ」
大丈夫って何が大丈夫なのか、湊自身もよくわからなかった。でも言わずにはいられなかった。
「……うん」
和哉が小さく頷いた。
ベンチの隣で、和哉の肩が少しだけ下がった。張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけるように。
少しの間があって、和哉がぽつりと言った。
「湊はさ、どんな大学に行くんだろうね」
「え?」
「もし、湊が同級生だったら……ずっと一緒に、側に……」
その先が、続かなかった。
夕方の動物園は、帰り支度を始めた家族連れでざわめいていた。子供の声、動物の声、遠くのアナウンス。その中で二人だけ、少しゆっくりした時間にいた。
「先輩」
「そろそろ帰ろうか」
「……あ、はい」
言いかけた言葉の先に何があったのか、湊にはわかった気がした。でも聞けなかった。和哉が先に立ち上がったから。
立ち上がりながら、湊はスマホを開いた。今日撮った写真が並んでいる。キリンを見上げる和哉、ペンギンと目線を合わせる和哉、アイスを食べながら話す和哉。
全部、いい顔をしていた。
この人が「自分で選んだ場所」にいる顔が、湊は好きだった。
「帰りの電車、わかる?」
「地図で確認します」
「任せた」
和哉がくすっと笑いながら、歩き出した。
今日はその隣に、黙ってついていった。




