37話「和哉とお出かけ I」
その日の朝、和哉からLINEが届いていた。
『今日、頼んでた日だよ。よろしくね』
待ち合わせの駅で湊がスマホを見ていると、改札から和哉が出てきた。普段の制服ではなく、薄い水色のシャツにベージュのスラックス。夏の私服だ。眼鏡と天然パーマの黒髪はいつも通りで、でもそれだけで少し雰囲気が違って見える。制服の時より少しだけ柔らかい印象だ。
「湊、おはよう」
「おはようございます、先輩。……いい服ですね」
「ありがとう、湊も」
和哉がくすっと笑う。湊は少しだけ照れた。
今日は和哉のオープンキャンパスへの同行だ。行き先は県内にある国立大学。母親が強く勧めている、と和哉が電話口で言っていた大学だ。
あの時のことを思い出す。LINEでサイトのURLが送られてきて『この日、この大学のオープンキャンパスに付き合ってほしい』と言われた時は驚いたものだ。
その少し前に生年月日や電話番号を求められ、『んー、湊のためにもなると思うよ?』と言われていた。なるほど、そういうことだったか。
「電車、こっちだよ」
「あ、はい」
和哉が歩き出す。湊はその隣に並んだ。
*****
電車を乗り継いで一時間ほどで、目的の駅に着いた。
改札を出ると、大学の案内板が立っていた。矢印とともに「青雲大学 北口方面」と書いてある。白い案内板が日差しに照り返して、少し眩しかった。
「じゃあ、北口から行って——湊?」
和哉が振り返ると、湊は南口の方向へ、迷いのない足取りで歩き始めていた。
「湊、逆だよ」
「え?」
湊が振り返った。きょとんとした顔をしている。
「こっちが北口」
「……あ」
湊は一秒だけ固まってから、何事もなかったように和哉の方へ戻ってきた。その堂々たる間違い方に、和哉は少し呆れた顔をした。
「今の、かなり確信を持って行きましたよね」
「確信を持ってました」
「この前もだけど方向感覚、あまりない感じ?」
「地図は読めます。現在地と地図が一致しないだけです」
「それが方向感覚じゃないかな」
和哉が苦笑いしながら、湊の少し後ろに立った。
「はぐれたら困るからね」
そう言って、ごく自然に湊の手を取った。
湊の心臓が跳ねた。
「先輩、こんな人前で……」
「人が多いから、だよ」
それだけ言って、和哉は前を向いた。人混みの中で手を繋ぐのに理由が必要とは思っていない顔だ。湊は少し遅れて頷いた。頬が熱い。
「……はい」
繋いだ手のまま、二人は北口へ歩いた。
*****
キャンパスは広かった。
緩やかな坂が続く石畳の道、両脇に並ぶ木々の緑が夏の日差しに照らされている。建物はどれも重厚で、歴史を感じさせる外観だ。正門をくぐると案内板があり、受付へのルートが示されていた。
「大きいですね」
「うん。こういう所に来るの、初めてだな」
和哉が周囲をゆっくりと見回した。その横顔は穏やかだが、どこかいつもと違う。落ち着いているようで、でも少しだけ遠い目をしている。
受付でパンフレットを受け取り、二人は最初の説明会会場へ向かった。
途中、湊がまた違う方向へ歩き出した。
「湊、それ経済学部棟だよ」
「え、法学部はこっちじゃないんですか」
「あっち」
「……先輩のキャンパスナビ、助かりますね」
「僕も初めてだよ、湊が迷いすぎ」
和哉が笑いながら、もう一度手を取った。今度は繋ぐというより、方向を示すように引っ張る形だ。でも離しなかった。
*****
法学部と経営学部の合同説明会が始まった。
大教室に並んだ椅子に、受験生とその親御さんが座っている。壇上では学部長が熱心に語っていた。就職率のグラフ、卒業後の進路、資格取得のサポート体制。数字が並ぶスライドが次々と映し出される。
素人目に見てもなかなかの数値だ。特に資格取得のサポートは確実に将来の役に立つだろう。さすがは有名な国立大学、という説得力がある。客観的に眺めれば良い選択肢だと湊でも思う。
だが、湊は隣の和哉をそっと見た。
和哉はパンフレットを開いて、手元に視線を落としていた。メモを取っているわけでも、説明を集中して聞いているわけでもなさそうだ。ただ、静かに座っている。
その表情が、いつもの茶道室とは全然違う。落ち着いているようで、何かが足りない顔だ。ここが「自分の場所」じゃない、ということが、その顔に出ていた。
「……先輩、興味ありますか、法学部」
湊が小声で聞くと、和哉は少し間を置いてから答えた。
「向いてないと思う、たぶん」
小さな声だった。誰かに聞かせるつもりじゃない声だった。
湊は何も言わなかった。ただ、少し距離を縮めるように椅子をずらした。
*****
説明会が終わり、施設見学のツアーに参加した。
図書館、学食、研究棟。案内の先輩学生が笑顔で説明してくれる。どれも整っていて、立派だ。客観的に見れば良い大学だと思う。
でも和哉は、ふーん、と頷きながら歩いていた。感心しているわけでも、嫌がっているわけでもない。ただ静かに、確認するように歩いている。
学食で休憩している時、和哉が静かに言った。
「来てよかったよ。わかったこともあるから」
「向いてない、ってことがですか」
「……そうかもしれない」
和哉がコップの水を一口飲んだ。窓から差し込む光が、テーブルの上で白く広がっている。
「でも、わかるだけ収穫だよ。来る前は漠然としてたから」
「先輩が行きたい大学って、どんなところですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。でも和哉は、少しだけ考えてから答えた。
「……まだわからない。でも、小さくて、静かなところがいいな。茶道みたいに、手を動かしながら学べるところ」
その言葉が、何かを探している声に聞こえた。
「見つかりますよ、絶対。それに少なくとも、茶道サークルがあるとこじゃないと先輩にふさわしくないですね」
湊が言うと、和哉が少し驚いたように湊を見た。それから、ゆっくりと笑った。
「……うん、そうだといいね」
その笑い方が、学食の光の中で少し柔らかかった。
*****
オープンキャンパスが終わった。
正門を出たところで、和哉が空を見上げた。日差しはまだ強かったが、午後の光になって少しだけ柔らかい。
「このまま、帰りますか?」
「おや、お忘れかな。付き合ってもらいたいところのあとには寄り道があるのだよ」
和哉が少しだけ明るい声で言った。さっきまでの遠い目が、少し戻ってきていた。
「楽しみです」
「動物園、行こう」
「……動物園ですか」
「うん。近くにあるんだ、ほら」
和哉がスマホを取り出して地図を見せた。確かに徒歩十五分ほどの場所に市営の動物園がある。
「行きましょう」
「よかった」
和哉がにっこりした。さっきとは全然違う笑顔だった。オープンキャンパスを通してずっとどこか曇っていたものが、その笑顔ではじめて晴れた気がした。
「ただ、先輩」
「ん?」
「地図、俺に持たせてください」
「え、なんで」
「先輩が迷子になっても俺が迷子になっても困るので」
和哉がぷっと噴き出した。
「湊が言える立場じゃないと思うけど」
「俺は迷子になっても確信を持って歩けるので、最終的にはどこかに着きます」
「そのどこかが目的地じゃなかったら意味ないでしょ」
笑いながら、和哉がスマホを渡してきた。
湊はそれを受け取って、地図を確認した。動物園は、今度は正しい方向にある。
「ここを右です!」
「左だねぇ」




